橘やいつの野中のほととぎす 芭 蕉
「ほととぎす」と仮名書きに直したが、芭蕉は「郭公」と表記している。「郭公」は現在「かっこう」と読み、「ほととぎす」とは読まないので、仮名にした次第。
橘の花のほのかな匂いの中に、ほととぎすを聞く。時も処もほのぼのとして、今は遠くうすれ去っている。しかし、その声を聞いた折の感じが、ほのかに匂ってくるというこの心の動きの微妙さは、みごとなものである。
橘の花は古来、昔を思い出させるものとして、しばしば歌に詠まれてきた。有名な
五月待つ 花橘の 香をかげば
昔の人の 袖の香ぞする (『古今集』・よみ人しらず)
が、この句に遠くから匂ってくる。こういう古典の背景を感じとることはよいが、それゆえに、この句が体験を踏まえての発想であることを、見落としてはならない。
季語は「橘(の花)」で夏であるが、「ほととぎす」も強くはたらいている。橘の花の現実体験と、古典的雰囲気がみごとに滲透しあった作である。なお、「ほととぎす」の異称として、「橘鳥(たちばなどり)」がある。
「橘の花の香がする中、ほととぎすが鳴き過ぎていった。ふと、同じように
ほととぎすを、いつか、どこかの野中で聞いたような遠い感覚が、この花
の香の立つ中で、ほのかに蘇(よみがえ)ってくる」
橘の花のけぶれる塔のかげ 季 己
「ほととぎす」と仮名書きに直したが、芭蕉は「郭公」と表記している。「郭公」は現在「かっこう」と読み、「ほととぎす」とは読まないので、仮名にした次第。
橘の花のほのかな匂いの中に、ほととぎすを聞く。時も処もほのぼのとして、今は遠くうすれ去っている。しかし、その声を聞いた折の感じが、ほのかに匂ってくるというこの心の動きの微妙さは、みごとなものである。
橘の花は古来、昔を思い出させるものとして、しばしば歌に詠まれてきた。有名な
五月待つ 花橘の 香をかげば
昔の人の 袖の香ぞする (『古今集』・よみ人しらず)
が、この句に遠くから匂ってくる。こういう古典の背景を感じとることはよいが、それゆえに、この句が体験を踏まえての発想であることを、見落としてはならない。
季語は「橘(の花)」で夏であるが、「ほととぎす」も強くはたらいている。橘の花の現実体験と、古典的雰囲気がみごとに滲透しあった作である。なお、「ほととぎす」の異称として、「橘鳥(たちばなどり)」がある。
「橘の花の香がする中、ほととぎすが鳴き過ぎていった。ふと、同じように
ほととぎすを、いつか、どこかの野中で聞いたような遠い感覚が、この花
の香の立つ中で、ほのかに蘇(よみがえ)ってくる」
橘の花のけぶれる塔のかげ 季 己