壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

橘の花

2010年08月01日 22時48分33秒 | Weblog
        橘やいつの野中のほととぎす     芭 蕉

 「ほととぎす」と仮名書きに直したが、芭蕉は「郭公」と表記している。「郭公」は現在「かっこう」と読み、「ほととぎす」とは読まないので、仮名にした次第。

 橘の花のほのかな匂いの中に、ほととぎすを聞く。時も処もほのぼのとして、今は遠くうすれ去っている。しかし、その声を聞いた折の感じが、ほのかに匂ってくるというこの心の動きの微妙さは、みごとなものである。
 橘の花は古来、昔を思い出させるものとして、しばしば歌に詠まれてきた。有名な
        五月待つ 花橘の 香をかげば
          昔の人の 袖の香ぞする  (『古今集』・よみ人しらず)
 が、この句に遠くから匂ってくる。こういう古典の背景を感じとることはよいが、それゆえに、この句が体験を踏まえての発想であることを、見落としてはならない。

 季語は「橘(の花)」で夏であるが、「ほととぎす」も強くはたらいている。橘の花の現実体験と、古典的雰囲気がみごとに滲透しあった作である。なお、「ほととぎす」の異称として、「橘鳥(たちばなどり)」がある。

    「橘の花の香がする中、ほととぎすが鳴き過ぎていった。ふと、同じように
     ほととぎすを、いつか、どこかの野中で聞いたような遠い感覚が、この花
     の香の立つ中で、ほのかに蘇(よみがえ)ってくる」


      橘の花のけぶれる塔のかげ     季 己