御廟年経てしのぶは何をしのぶ草 芭 蕉
『野ざらし紀行』に、
「山を昇り坂を下るに、秋の日すでに斜めになれば、名有る所々
見残して、先づ後醍醐帝御廟(ごだいごていごびょう)を拝む」
とあって出ている。ただし上五、異本に「御廟年を経て」とか、「御廟千とせ」とかいう句形もある。貞享元年、旅中の作。
激しい懐古の情に迫られた口調の厳しさが感じられる。古(いにしえ)を偲ぶ思いを、眼前にはいまつわる忍草の名の縁(ゆかり)で発想したもの。さらに言えば、『後撰集』の、
百敷(ももしき)や ふるき軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり (順徳院)
などが、心にあったものであろう。
しかし、「しのぶは何をしのぶ草」という、口調のおもしろさは独自のものとなっている。謡曲「夕顔」に、
「古き軒端の忍草、しのぶかたがた多き宿を」
とあり、こうした口調からの影響があるかもしれない。
「御廟」は、「ミベウ=みびょう」とも読まれていて、御霊屋(おたまや)のこと。ここでは後醍醐天皇の御陵、吉野山の塔尾御廟をさす。
「しのぶ」は、山中の樹皮や岩面あるいは古い軒端などに生える、裏星(うらぼし)科の常緑のシダ植物。忍草(しのぶぐさ)ともいう。釣忍(つりしのぶ)とは別種のものである。これが季語で秋。偲ぶ意をかけている。「しのぶ草」は、前述の「しのぶ」のことをいうが、「何を」を受けて慕い思うよすがの意で使っている。
「後醍醐天皇の御陵に詣でてみると、御廟は長い年月を経て古び、忍草が
はいまつわっている。忍草は、古を偲ぶということにゆかりのある草で
あるが、いったい何を思い出として偲んでいることであろう」
――最近、「切れ」のない句が受けているようだが、これは困りものである。
「書は余白の美」といわれるように、書においては「間(ま)」重要視する。極端に言えば、字そのものの美しさよりも、間の美しさを尊ぶのだ。俳句における「間」が、「切れ」なのである。
手にうけて確かめて雨 夕ざくら 稚 魚
中七の体言止めの心憎さ、お解りいただけるであろうか。この中七の後の「間」で、人物も夕ざくらも見えてくるのだ。(‘止め’も間を表すので、‘切れ’と同様に考えている)
冬の日の露店のうしろ通るなり 稚 魚
「日の」の「の」の使い方、並の人だと「日に」とやりやすい。「冬の日に」とすると説明になってしまう。
落葉掻(か)く音の一人の加はりし 稚 魚
「音の一人の」の「の」の使い方のうまさ、絶妙である。こういう使い方のできる人を名人というのであろう。ちなみに、『一太郎』では画面上に、「修飾語の連続」という‘おせっかい’が表示され、その都度「大きなお世話」と文句を言うのだが……。
水中に魚の目無数寒ゆるぶ 稚 魚
「水中に魚の目無数」という写生の的確さ、水中に息づいているものの生命を写している。俳句に限らず、〈ものの生命を写したもの〉に出合うと、ふるえるほどの感動を覚える。
そうして「寒ゆるぶ」という揺るぎない季語!
終戦日といふ一日を人はみな 稚 魚
中七の「を」に込められた稚魚先生の想いの深さ。このように「てにをは」が使えたら、俳句は楽しくてしようがないだろう。
俳句のうまさは、「切れ」と「てにをは」によって決まる、と言っても過言ではなかろう。
立ち尽くし御舟の『炎舞』終戦日 季 己
『野ざらし紀行』に、
「山を昇り坂を下るに、秋の日すでに斜めになれば、名有る所々
見残して、先づ後醍醐帝御廟(ごだいごていごびょう)を拝む」
とあって出ている。ただし上五、異本に「御廟年を経て」とか、「御廟千とせ」とかいう句形もある。貞享元年、旅中の作。
激しい懐古の情に迫られた口調の厳しさが感じられる。古(いにしえ)を偲ぶ思いを、眼前にはいまつわる忍草の名の縁(ゆかり)で発想したもの。さらに言えば、『後撰集』の、
百敷(ももしき)や ふるき軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり (順徳院)
などが、心にあったものであろう。
しかし、「しのぶは何をしのぶ草」という、口調のおもしろさは独自のものとなっている。謡曲「夕顔」に、
「古き軒端の忍草、しのぶかたがた多き宿を」
とあり、こうした口調からの影響があるかもしれない。
「御廟」は、「ミベウ=みびょう」とも読まれていて、御霊屋(おたまや)のこと。ここでは後醍醐天皇の御陵、吉野山の塔尾御廟をさす。
「しのぶ」は、山中の樹皮や岩面あるいは古い軒端などに生える、裏星(うらぼし)科の常緑のシダ植物。忍草(しのぶぐさ)ともいう。釣忍(つりしのぶ)とは別種のものである。これが季語で秋。偲ぶ意をかけている。「しのぶ草」は、前述の「しのぶ」のことをいうが、「何を」を受けて慕い思うよすがの意で使っている。
「後醍醐天皇の御陵に詣でてみると、御廟は長い年月を経て古び、忍草が
はいまつわっている。忍草は、古を偲ぶということにゆかりのある草で
あるが、いったい何を思い出として偲んでいることであろう」
――最近、「切れ」のない句が受けているようだが、これは困りものである。
「書は余白の美」といわれるように、書においては「間(ま)」重要視する。極端に言えば、字そのものの美しさよりも、間の美しさを尊ぶのだ。俳句における「間」が、「切れ」なのである。
手にうけて確かめて雨 夕ざくら 稚 魚
中七の体言止めの心憎さ、お解りいただけるであろうか。この中七の後の「間」で、人物も夕ざくらも見えてくるのだ。(‘止め’も間を表すので、‘切れ’と同様に考えている)
冬の日の露店のうしろ通るなり 稚 魚
「日の」の「の」の使い方、並の人だと「日に」とやりやすい。「冬の日に」とすると説明になってしまう。
落葉掻(か)く音の一人の加はりし 稚 魚
「音の一人の」の「の」の使い方のうまさ、絶妙である。こういう使い方のできる人を名人というのであろう。ちなみに、『一太郎』では画面上に、「修飾語の連続」という‘おせっかい’が表示され、その都度「大きなお世話」と文句を言うのだが……。
水中に魚の目無数寒ゆるぶ 稚 魚
「水中に魚の目無数」という写生の的確さ、水中に息づいているものの生命を写している。俳句に限らず、〈ものの生命を写したもの〉に出合うと、ふるえるほどの感動を覚える。
そうして「寒ゆるぶ」という揺るぎない季語!
終戦日といふ一日を人はみな 稚 魚
中七の「を」に込められた稚魚先生の想いの深さ。このように「てにをは」が使えたら、俳句は楽しくてしようがないだろう。
俳句のうまさは、「切れ」と「てにをは」によって決まる、と言っても過言ではなかろう。
立ち尽くし御舟の『炎舞』終戦日 季 己