正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

メインページは検索で「正定寺」
(HP作成は正定寺閑栖:小原壽山)
ブログはFacebookにリンクしています。

古くなったら捨てる

2013年04月30日 | 日記
新命(息子)が戻り、部屋が手狭にになったので、
女房の若い頃着ていた服や小さくなった服を
リサイクルショップに買い取って
もらう事にしました。


捨てないで大切にしていた服を数個の衣裳ケースに収めて、
娘に教わった大分市のリサイクルショップへ出かけました。


一番高く買い取ってもらったのが、息子が中学生時代に
かぶっていた「ジャイアンツの野球帽」でした。


洋服のほとんどが一着1円での買い取りで、
長年愛着して捨てられずにいた服は、
1.400円ほどになりました。


女房と二人で「1着1円か~」と笑いながら
明細書を見ていました。


それでも「1.400円は拾えないからね」と
女房はゴミに出さずにリサイクルショップを
利用できたことに満足したようすでした。

お寺にも長年使われなくて、
現在では利用しないモノがあります。


これは道中駕籠です。



ゴミだらけで駕籠には見えません。

中もぼろぼろになっています。



このぼろぼろになった姿を見た檀家さんが
修理に名乗り出てくれました。

そして





立派に修復されて帰って来ました。


以前、私が壊れて使い物にならないお盆を
捨てようとしていた時のはなしですが
先住(父親)がそばに来て、

父「何をしてるんだ」
私「このお盆は割れていて使い物にならないから捨てます」
父「親も盆も一緒だな」
私「どうして」
父「使い物にならなくなったら捨てられる」
私「・・・・」

それから、父親の前ではなかなかモノを
捨てられなくなりました。

「もったいない」の言葉を伝えるには
実に生々しくパンチの効いた言い方を
父はするもんだと思いました。


父は7年前に亡くなりましたが、
使い物にならなかった「道中駕籠」は
約100年ぶりに晋山式の行列で披露されました。

新命の同級生が担いでくれた駕籠を見て
父も孫の晋山式を喜んだと思います。





知らない間の出来事

2013年04月29日 | 日記
本堂の玄関を上がると右手に
正定寺の役員名簿の額があります。



総代さんや世話人さんと女性部・青壮年部の役員さんなどの
名前が堂々と書き出されています。
これを「衆名単・衆名員」と名付けています。

元々は和尚さんの名前を記すものですが
裏方でお寺を支えてる役員さんを多くの檀家さんに
知ってもらいたくて、今から20年ほど前に作りました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

この額に名前がある総代さんは「檀信徒総会」で選出されます。

世話人さんは、それぞれの小字地域から檀家さんが選びます。
年齢や回り番で順番を決めているところが多いようです。

女性部の役員さんは「女性部総会」で選出されます。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

先日、タケノコを掘りに来た青壮年部顧問さんが
「どうも青壮年部役員の選任方法がはっきりしない」と
言い出しました。


「私を含めて青壮年部は、和尚にだまされてうやむやの内に選任された」
と思い違いをしているようです。

そこでどのようにして選定されたかを発表します。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

青壮年部の役員は過去に花園会役員の経験を
なさった方の中から和尚がランダムで
お願いしています。

※何故、花園会役員になったかは詮索しないでください。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

青壮年部の役員は家族の戒名・命日は勿論のこと
正定寺の宗旨から組織に至るまで充分心得ている方々です。

会議などで青壮年部の皆さんが本堂に上がってくる
姿からして、お寺に無関心な若者と既に違っています。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

彼ら青壮年部がいずれ、寺院に無関心な若者達を
仏さまの教えに導いて下さる方々です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これが選出の方法と選出理由です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ランダムとは、「閑栖和尚の好みでお寺に向きが良い人」を無理矢理
お願いすることです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「衆名単・衆名員」は、元々はこのように、
受戒や寺院行事に参加した和尚さんの
名を記して残すものです。











正定寺の誕生

2013年04月28日 | 日記
お寺にはご開山さんやご開基さんが
おられます。

ご開山さんは、初代の和尚さんで
そのお寺を開いた(開創)方です。

ご開基さんは、お寺を作る(建立)ために
私財を投じて寄与した方です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

私たちのご本山である>京都妙心寺
ご開山さんは
無相大師さま」です。
ご開基さんは
花園法皇さま」です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

正定寺の
ご開山さんは「利翁益公禅師」と言うお方です。

利翁益公大和尚は延徳2年(1490)に現在の徳島県で
生まれて鎌倉の建長寺で長く修行して33才の
大永3年(1523)に正定寺を開創しました。

利翁益公禅師の木像



利翁益公禅師のお墓



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

正定寺の
ご開基さんは「 春山源右ヱ門 」と言うお方です。

春山源右ヱ門さんは現在の佐伯市直川赤木の
生まれで「赤木殿」と言われる豪族だったそうです。

平成24年に修理されたご開基さんのお位牌



春山源右ヱ門さんのお墓(宝篋印塔)
この塔は赤木中津留にあったものを
昭和4年に正定寺の祖師墓地に移転したものです。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

正定寺歴代の和尚さんはこちらからどうぞ。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

立派な和尚さんと篤志の檀家さんで
お寺が誕生します。

佐伯の「養賢寺」では
ご開山さんは「大観慈光禅師」と
諡号された三関宗要和尚さんです。

ご開基さんは
佐伯藩主の「毛利高政公」です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

因みに、お坊さんと私財を投じる方の二人が揃えば、
お寺の「ご開山さんとご開基さん」が誕生することに
なりますが、
そこには「立派な和尚さんと立派な檀那さん」の
条件が必要のようです。

佐伯市の臨済宗妙心寺派のご開山さんは
こちらからご覧下さい。



知っているようで知らない菩提寺の風景

2013年04月27日 | 日記
境内のあちこちに石像の仏さまが
おられます。

このお地蔵さまは「目開き地蔵」と言います。
山門をくぐった右手に立っています。
この立像のお地蔵さんは佐伯町の赤岩又三さんが彫ったと
書いています。



一般的にはお地蔵さんは目を閉じています。

しかし、このお地蔵さんは違います。
目が開いているので、闇夜も見えて
夜な夜な境内をピョコピョコ飛び跳ねていると
昔の方は思っていたようです。

この話は、柚の原で育った「林嘉二郎さん」のご子息から
お聞きした話しです。
仁田原の80才以上の方は、「目開き地蔵」の
噂を知っているかも知れません。

昭和初期の子供達は
「正定寺の夜は、目が光るお地蔵さまが飛びはねている」と
噂して、暗くなってからは正定寺には、
絶対行きたくないと思っていたそうです。


父親の使いで暗くなった石段を登って正定寺へ行くときは
山門をくぐると一目散に玄関のベルを鳴らしたと「林嘉二郎さん」のご子息が
言っていました。

そのことを本人が寺報にも投稿しています。

その「夜な夜な歩くお地蔵さん」の横に
「善光寺如来」があります。



中央の後光(光背)があるのが阿弥陀さま、両脇に観音菩薩と勢至菩薩を一枚岩に
彫り込んだものです。

江戸の後期に作られたもので、石工の名も彫られています。
天保6年4月15日に横川村の石工 弥平さんが彫ったと書いています。

その他にも座像のお地蔵さん



この座像のお地蔵さんは肥後熊本の瑞祥寺というお寺のお弟子さんで
玄禮さんと言う方が建立したと書いています。


等身大よりも大きな立像のお地蔵さん




40才代以下の檀家さんで、
正定寺に石段の参道があることを
知らない方もたくさんいます。

石段を登り山門をくぐるとすぐにお地蔵さんに会えますが、
案外知っていて知らないのが菩提寺なのかも知れません。





随分頂きました

2013年04月26日 | 日記
蒲江町畑野浦に福泉寺という妙心寺派の
お寺があります。

84・5才の閑栖さんは、若いころから陶芸を
されていて本格的に登り窯を作り50年にわたり
福泉寺窯として陶器を作成してきました。





窯を開ければ電話があり、好きなのを持って
行きなさいといってくれます。

遠慮を知らない私は欲にかられて
たくさん頂きます。

昨年も頂きました。

展示された部屋には、見事な品が並んでいます。







正定寺で使っている抹茶茶碗は全て福泉寺窯作です。

有り難いものです。



記録で分かる歴史

2013年04月25日 | 日記
寺院に保管されている古い和綴じ本は、
高僧の言葉が記されている語録や
法要などの手引きが記されたものなどがあります。

正定寺でも蔵の奥に時代やけした何冊もの
和綴本があります。

中には重ねていたせいで、板木のようになっている
本もあります。

一般の方が耳にする「過去帳」なども和綴じで
保管されています。

過去帳には、亡くなった順に戒名や命日・氏名・続柄などが
記されています。
明治以前は苗字が記されていません。

檀家さんの中には「家のご先祖を調べてください」と
簡単に依頼してくる方がありますが、数百年前にさかのぼる
過去帳から、依頼者のご先祖様だけを検索する事は
なかなか難しい作業です。

検索ソートするには、実家の仏壇にお祀りしている
ご先祖さまの命日・戒名が必ず必要になります。

江戸時代は苗字が無いので、命日と戒名で探すしか
手がありません。

この写真は末庵(正定寺を本寺として統制管理されている寺)の
記録です。
江戸末期から明治にいたる資料です。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
寺の広さは10坪で
仁田原大鶴にある長原庵は
誰がいつ頃建てたか詳細は分かりません。

今は
慧竺という僧が住んでいます。

慧竺和尚は57才で佐伯藩横川村の
森河善佑さんの次男です。

1857年12月に正定寺で得度して
お坊さんになりました。
1861年10月に長原庵の住職になりました。

と書いてあります。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

この「長原庵」は現在ありません。
大鶴から川沿いに黒岩にいたる地域を「長原」と言いました。
民家もたくさんあって、昔は神の原から大鶴・仁田原に行く幹線だったと
聞きます。

この「長原庵」は大鶴の「延命庵」と合祀(合併)して
現在は大鶴の中心部山手に建立されています。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

下の資料は正定寺が配置した東西南北(四方庵)の
当時の資料です。









∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
古い記録で分かる歴史があります。

仁田原杭の内に在る「東光庵」には
現在の佐伯市古市生まれの
「佐脇」と言う苗字の全慧和尚という方がいました。
後に苗字を変えて「小原全慧」となりました。


※「佐脇」言う名の檀家さんが
「杭の内」に在りますが、
「東光庵」の庵主さんの末裔(子孫)が
現在お住みの「佐脇さん」では在りません。
又、正定寺の小原姓でも在りません。

現在の「佐脇さん」は、お墓の数や古さで
上記の資料よりはるかに昔から「杭の内」に
すんでいる事が分かります。

「杭の内」は佐伯藩(佐伯惟治時代)の家臣(飛田姓)で
構成された集落とされています。

その佐伯藩家臣の先祖より以前に住んでいた
方が「佐脇家」です。


「○○村農」の「農」は「士農工商」の身分を表して
いるのではないかと思います。

中には「士族」と書かれている方もありますが、
いずれの僧も妻帯(結婚)していないので
末裔(子孫)はいません。

末庵の記事はこちらから見ることができます。

間違っても関係者が士族などと誤解しないで下さい。

雨乞い

2013年04月24日 | 日記
昨日から雨が降っています。
竹林の筍がこの雨で又出てくるのでしょうか?

境内の竹林にはあちこち筍が伸びていて
親のカタキのように見つけては掘っています。

家内だけでは追いつかないので、
知り合いに電話をして「筍はいりませんか?」と
声を掛けます。

筍は一雨で急成長します。

これから農繁期を迎える方々に
とっては雨は大切な天の恵みです。

昔は干ばつが続くと「雨乞い」をしていました。

直川仁田原の雨乞いは「於利宇・於流(オリヲ)」と言う
山のてっぺんに安置されている石像の「龍神さま」に
大勢でお参りして正定寺から和尚さんが龍の掛け軸を
持って雨乞い法要をしたそうです。

その時の龍の掛け軸がこれです。

字は「龍」の一文字です。
書いた方は、明治4年に初代妙心寺派管長と
なられた鰲巓道契和尚です。



「於利宇(オリヲ)」と言う山は、頂上が平らな原っぱに
なっていて、50才以上の川原木小学校・直川小学校の卒業生は
遠足で登った事があると思います。

今では、竜神をお祀りしている場所は、
藪の中になってしまっています。

この「於利宇(オリヲ)」の峠は、
今から200年前に百姓5000人が
集結して佐伯藩最大の一揆が
起こった場所でもあります。






月に一度の熊本通い

2013年04月22日 | 日記
月に一度の診察で熊本に出かけました。
平成23年からお世話になっている
「熊本放射線外科病院」です。



ノバリスTXという九州に一台しかない
優れものの放射線治療の機械があります。
脳への治療は保険適用です。

私は昨年の秋から放射線治療を
行っていません。
今回は脳のMRI検査だけの熊本通いでした。

帰りには阿蘇駅に隣接する道の駅で
蕎麦を買って帰りました。

阿蘇駅



阿蘇道の駅



目に青葉とグチ

2013年04月15日 | 日記
境内の草木に花や新芽が目立つように
なりました。

風情のある風景ですが、
和尚さんや寺庭さんにとっては
「草むしり」シーズンの到来です。

参拝者は、
「お寺はいつ来ても綺麗ですね」と
お寺の境内があたかも自動的に掃き清められて
草一本・塵一つ無いようになっていると
思っている方・・・・

たばこのポイ捨てをしても、自動的に吸い殻が
無くなると思っている方・・・

そんな事、あるはずがない!

近所の世話役さんやおばさんたちが
手伝ってくれるので、なんとか参拝者の皆さんに
「綺麗ですね」といっていただく程度には
境内も維持できていまが、寺族は大変なんですよ!

コンクリートの町で育った女房は、
30年経って上品なお嬢さまから小麦色の「草取りのプロ」になって
しまいました。

お陰で手足には立派な筋肉が付いて・・・・

まあ、その話は次回にして


その女房と境内を歩きながら
上品に今から咲く花を愛でました。









※寺族が境内を掃き清めるのは当たり前の事ですが、
ここしばらくは、一年で一番外掃除に時間が費やされます。




甘茶はいかがですか!

2013年04月08日 | 日記
4月8日はお釈迦さまのお誕生日です。
灌仏会(かんぶつえ)とも言います。

他にも降誕会(ごうたんえ)・仏生会(ぶっしょうえ)・浴仏会(よくぶつえ)
花祭(はなまつり)などの名称で行事が行われています。



皆さんは「甘茶(あまちゃ)でおなじみだと思います。

お釈迦さまの誕生に合わせて、龍が天から飛来して、
香湯(ソーマ、アムリタ)を そそいだという言い伝えで
昔から甘茶を誕生佛にそそぎます。

甘茶はお釈迦さまの産湯です。
この甘茶を無病息災のために飲んだり、
硯の水に使うと「習字が上達する」とか
家の周りに撒くと「まむし除け」になると言われたりします。

今年から甘茶作りの担当が新住職になりました。
大鍋に甘茶・甘草を入れて作ります。
薄からず又濃いからずの甘茶は少々年季がいる仕事です。

朝からペットボトルや一升ビンを抱いて
檀家さんが貰いに来ています。

檀家さんは、誕生仏に甘茶をそそいで
手を合わせていました。




病院通い

2013年04月06日 | 日記
臨済宗の始祖(創始者)である「臨済禅師(中国の和尚さん)」の
卓越された語録(言葉を集めた書物)の臨済録に
「病在不自信処(病ハ不自信の処に在り)」とあります。

今日は外科・内科と二つの病院を掛け持ちしました。

外科は別府市にあります。
立て替え工事の最中です。
大方は工事が終了しているようです。

現在通っている病院



昨年までは大分市の病院だったのですが、
主治医の移動で別府まで付いて来ました。
大分市の病院も私が治療に通う間に新築に
なりました。

内科は佐伯市で代々続く医院で
ご先祖さまは藩医だったようです。
この医院のご先祖さまのご兄弟が
正定寺の第9世住職になっています。
元文4年(1739)に晋山していますから
300年程前の祖師になります。

内科の医院



外科で抗がん剤を3時間かけて投与して
内科では血圧をはじめ諸々の点検を
していただきます。

内科の先生から「和尚さん。痩せませんか」とお会いする度に
促されますが、体重計に上がると今回も2KGほど
成長していました。
「病ハ不自信の処に在り」の言葉を見透かされているようで、
何とも返答に困りました。

いつかお目にかかりたい

2013年04月04日 | 日記
お名前の読みが同姓同名のお二人が
出会いました。

珍しいお名前の二人は数年前から会うことを
お互い楽しみにしていました。

一人は正定寺花園会女性部部長さんの
「矢野侃可さん」

一人は県水連のシンクロナイズスイミング
監督の「矢野直香先生」

二人とも産まれた時から
「ヤノ ナオカ」さんです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

矢野直香先生のお名前は、
息子が水泳大会に参加していたので
知っていました。

二人のお名前が同じであることを
8年前のブログに書いたのが
きっかけで、今日のご対面になりました。

そのきっかけのブログがこちら

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

矢野直香さんを見て、矢野侃可さんの第一声が「私の孫娘にとてもよく似てる」
でした。

それを聞いた女房も「ほんとですね」と
驚いていました。

お互いの身の上話に花を咲かせる中で、
時代は違いますが二人とも「なおか」と言う字の
名付け親が神官さんであったり、
「侃可の侃も、すなお」・「直香の直も、すなお」と
読む事など不思議なえにしを感じました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

新命も加わって、時の経つのを忘れるほど
楽しい時間を過ごさせていただきました。

いつかお目にかかりたいと願った二人の記念ショット