寺院に保管されている古い和綴じ本は、
高僧の言葉が記されている語録や
法要などの手引きが記されたものなどがあります。
正定寺でも蔵の奥に時代やけした何冊もの
和綴本があります。
中には重ねていたせいで、板木のようになっている
本もあります。
一般の方が耳にする「過去帳」なども和綴じで
保管されています。
過去帳には、亡くなった順に戒名や命日・氏名・続柄などが
記されています。
明治以前は苗字が記されていません。
檀家さんの中には「家のご先祖を調べてください」と
簡単に依頼してくる方がありますが、数百年前にさかのぼる
過去帳から、依頼者のご先祖様だけを検索する事は
なかなか難しい作業です。
検索ソートするには、実家の仏壇にお祀りしている
ご先祖さまの命日・戒名が必ず必要になります。
江戸時代は苗字が無いので、命日と戒名で探すしか
手がありません。
この写真は末庵(正定寺を本寺として統制管理されている寺)の
記録です。
江戸末期から明治にいたる資料です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
寺の広さは10坪で
仁田原大鶴にある長原庵は
誰がいつ頃建てたか詳細は分かりません。
今は
慧竺という僧が住んでいます。
慧竺和尚は57才で佐伯藩横川村の
森河善佑さんの次男です。
1857年12月に正定寺で得度して
お坊さんになりました。
1861年10月に長原庵の住職になりました。
と書いてあります。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
この「長原庵」は現在ありません。
大鶴から川沿いに黒岩にいたる地域を「長原」と言いました。
民家もたくさんあって、昔は神の原から大鶴・仁田原に行く幹線だったと
聞きます。
この「長原庵」は大鶴の「延命庵」と合祀(合併)して
現在は大鶴の中心部山手に建立されています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
下の資料は正定寺が配置した東西南北(四方庵)の
当時の資料です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
古い記録で分かる歴史があります。
仁田原杭の内に在る「東光庵」には
現在の佐伯市古市生まれの
「佐脇」と言う苗字の全慧和尚という方がいました。
後に苗字を変えて「小原全慧」となりました。
※「佐脇」言う名の檀家さんが
「杭の内」に在りますが、
「東光庵」の庵主さんの末裔(子孫)が
現在お住みの「佐脇さん」では在りません。
又、正定寺の小原姓でも在りません。
現在の「佐脇さん」は、お墓の数や古さで
上記の資料よりはるかに昔から「杭の内」に
すんでいる事が分かります。
「杭の内」は佐伯藩(佐伯惟治時代)の家臣(飛田姓)で
構成された集落とされています。
その佐伯藩家臣の先祖より以前に住んでいた
方が「佐脇家」です。
「○○村農」の「農」は「士農工商」の身分を表して
いるのではないかと思います。
中には「士族」と書かれている方もありますが、
いずれの僧も妻帯(結婚)していないので
末裔(子孫)はいません。
末庵の記事はこちらから見ることができます。
間違っても関係者が士族などと誤解しないで下さい。
高僧の言葉が記されている語録や
法要などの手引きが記されたものなどがあります。
正定寺でも蔵の奥に時代やけした何冊もの
和綴本があります。
中には重ねていたせいで、板木のようになっている
本もあります。
一般の方が耳にする「過去帳」なども和綴じで
保管されています。
過去帳には、亡くなった順に戒名や命日・氏名・続柄などが
記されています。
明治以前は苗字が記されていません。
檀家さんの中には「家のご先祖を調べてください」と
簡単に依頼してくる方がありますが、数百年前にさかのぼる
過去帳から、依頼者のご先祖様だけを検索する事は
なかなか難しい作業です。
検索ソートするには、実家の仏壇にお祀りしている
ご先祖さまの命日・戒名が必ず必要になります。
江戸時代は苗字が無いので、命日と戒名で探すしか
手がありません。
この写真は末庵(正定寺を本寺として統制管理されている寺)の
記録です。
江戸末期から明治にいたる資料です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
寺の広さは10坪で
仁田原大鶴にある長原庵は
誰がいつ頃建てたか詳細は分かりません。
今は
慧竺という僧が住んでいます。
慧竺和尚は57才で佐伯藩横川村の
森河善佑さんの次男です。
1857年12月に正定寺で得度して
お坊さんになりました。
1861年10月に長原庵の住職になりました。
と書いてあります。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
この「長原庵」は現在ありません。
大鶴から川沿いに黒岩にいたる地域を「長原」と言いました。
民家もたくさんあって、昔は神の原から大鶴・仁田原に行く幹線だったと
聞きます。
この「長原庵」は大鶴の「延命庵」と合祀(合併)して
現在は大鶴の中心部山手に建立されています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
下の資料は正定寺が配置した東西南北(四方庵)の
当時の資料です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
古い記録で分かる歴史があります。
仁田原杭の内に在る「東光庵」には
現在の佐伯市古市生まれの
「佐脇」と言う苗字の全慧和尚という方がいました。
後に苗字を変えて「小原全慧」となりました。
※「佐脇」言う名の檀家さんが
「杭の内」に在りますが、
「東光庵」の庵主さんの末裔(子孫)が
現在お住みの「佐脇さん」では在りません。
又、正定寺の小原姓でも在りません。
現在の「佐脇さん」は、お墓の数や古さで
上記の資料よりはるかに昔から「杭の内」に
すんでいる事が分かります。
「杭の内」は佐伯藩(佐伯惟治時代)の家臣(飛田姓)で
構成された集落とされています。
その佐伯藩家臣の先祖より以前に住んでいた
方が「佐脇家」です。
「○○村農」の「農」は「士農工商」の身分を表して
いるのではないかと思います。
中には「士族」と書かれている方もありますが、
いずれの僧も妻帯(結婚)していないので
末裔(子孫)はいません。
末庵の記事はこちらから見ることができます。
間違っても関係者が士族などと誤解しないで下さい。