正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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記録で分かる歴史

2013年04月25日 | 日記
寺院に保管されている古い和綴じ本は、
高僧の言葉が記されている語録や
法要などの手引きが記されたものなどがあります。

正定寺でも蔵の奥に時代やけした何冊もの
和綴本があります。

中には重ねていたせいで、板木のようになっている
本もあります。

一般の方が耳にする「過去帳」なども和綴じで
保管されています。

過去帳には、亡くなった順に戒名や命日・氏名・続柄などが
記されています。
明治以前は苗字が記されていません。

檀家さんの中には「家のご先祖を調べてください」と
簡単に依頼してくる方がありますが、数百年前にさかのぼる
過去帳から、依頼者のご先祖様だけを検索する事は
なかなか難しい作業です。

検索ソートするには、実家の仏壇にお祀りしている
ご先祖さまの命日・戒名が必ず必要になります。

江戸時代は苗字が無いので、命日と戒名で探すしか
手がありません。

この写真は末庵(正定寺を本寺として統制管理されている寺)の
記録です。
江戸末期から明治にいたる資料です。



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寺の広さは10坪で
仁田原大鶴にある長原庵は
誰がいつ頃建てたか詳細は分かりません。

今は
慧竺という僧が住んでいます。

慧竺和尚は57才で佐伯藩横川村の
森河善佑さんの次男です。

1857年12月に正定寺で得度して
お坊さんになりました。
1861年10月に長原庵の住職になりました。

と書いてあります。
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この「長原庵」は現在ありません。
大鶴から川沿いに黒岩にいたる地域を「長原」と言いました。
民家もたくさんあって、昔は神の原から大鶴・仁田原に行く幹線だったと
聞きます。

この「長原庵」は大鶴の「延命庵」と合祀(合併)して
現在は大鶴の中心部山手に建立されています。

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下の資料は正定寺が配置した東西南北(四方庵)の
当時の資料です。









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古い記録で分かる歴史があります。

仁田原杭の内に在る「東光庵」には
現在の佐伯市古市生まれの
「佐脇」と言う苗字の全慧和尚という方がいました。
後に苗字を変えて「小原全慧」となりました。


※「佐脇」言う名の檀家さんが
「杭の内」に在りますが、
「東光庵」の庵主さんの末裔(子孫)が
現在お住みの「佐脇さん」では在りません。
又、正定寺の小原姓でも在りません。

現在の「佐脇さん」は、お墓の数や古さで
上記の資料よりはるかに昔から「杭の内」に
すんでいる事が分かります。

「杭の内」は佐伯藩(佐伯惟治時代)の家臣(飛田姓)で
構成された集落とされています。

その佐伯藩家臣の先祖より以前に住んでいた
方が「佐脇家」です。


「○○村農」の「農」は「士農工商」の身分を表して
いるのではないかと思います。

中には「士族」と書かれている方もありますが、
いずれの僧も妻帯(結婚)していないので
末裔(子孫)はいません。

末庵の記事はこちらから見ることができます。

間違っても関係者が士族などと誤解しないで下さい。