正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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(HP作成は正定寺閑栖:小原壽山)
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境内はキンモクセイの香りが満ちています。

2015年09月24日 | 日記
境内にあるのですが、なかなか気づかない直径1M程の「キンモクセイ」があります。
高さは7~8M程の大きなキンモクセイです。

このキンモクセイが一斉に花付いて、広い境内に甘い香りを漂わせています。





窓を開けて漂ってくる香は、心が落ち着きます。

お彼岸のお墓参りを家族でしたのですが、写真の左正面が
キンモクセイです。

写真を凝らして見ると、キンモクセイの下に私がいます。




明治になって最初に正定寺に嫁いだ寺庭の墓です。
施餓鬼で供養された水塔婆が置かれています。


秋季彼岸会無事に終わりました。

2015年09月23日 | 日記
修行道場で修行僧(雲水)の食事が足らなくなったら、
典座という食事当番が頭を下げて謝罪します。
これを低頭(ていとう)と言います。

平身低頭の事です。


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お腹をすかせた修行僧が、台所にある全てのご飯を平らげると
食事係は「しまった!計算違いだった」と不覚をとります。

この低頭は、悪いことをして詫びる「頭を下げろ」という意味合いではなく
互いに敬意を払っての仕草です。

出来の悪い坊さんは、この低頭を「謝罪の頭をさげろ」と勘違いしている
方がいます。
反社会集団の「ワビを入れろ」と勘違いしているようです。


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実は、今年の秋彼岸はまさに「低頭」でした。お接待のお弁当や饅頭が足らず
申し訳なくただただ平身低頭でした。





でも、行き渡らなかった参拝者は、口々に「お参りが多かったので私たちもうれしいです。」
「お弁当より大勢の方と会えたのがうれしかった」と言ってくれました。





お彼岸にふさわしい「互いに敬意を持つ」心持ちに気づきました。

詳しくはこちら


明日の彼岸法要準備

2015年09月21日 | 日記
午後1:00から女性部役員を中心に、明日行われる「秋彼岸山門大施餓鬼」の
小幣作りをしました。
明日の供養者277軒(供養574霊)の小幣を4時間をかけて丁寧に作り、
供養家の申込袋に一つ一つ詰めて行きました。






終わりに近づくと雑談も増えて、和やかな笑顔が絶えませんでした。



お近くの檀信徒の方は是非お参り下さい。


秋のお彼岸山門大施餓鬼の申込迫る

2015年09月14日 | 日記
秋の彼岸法要に供養される山門大施餓鬼の申込が迫ってきました。

各家から届けられた戒名には、思い出のある人物の戒名も
たくさんあります。

戒名はご先祖であれば、江戸時代の方であろうが、平成の方であろうが
かまいません。等しく供養されます。

昨年はおじいさんとおばあさん。
今年は両親の戒名を書きました。
毎年、父母の戒名を書いています。
主人が初めてのご先祖さまなので毎年主人の戒名を書いています。

など、さまざまな愛情で戒名を書いています。



女性部で法要の全てを行うと始まった施餓鬼法要なので、施餓鬼棚も中卓も女性部が
揃えました。





600霊近い戒名を一枚一枚水塔婆に書くのは寺庭(お寺の奥さん:女性部)です。



御幣300本も女性部がこしらえます。



施餓鬼中に読み上げされる戒名を書くのは新寺庭(お寺の若奥さん:女性部)です。




申込袋を檀家さんに配るのも取り集めるのも女性部です。

忙しい中、取り集めた施餓鬼袋を持って来る女性部からこんな話を聞きました。

檀家さんの中には

「今年は年回をしたからお彼岸はしない」と言う方がいました。
とか
「どうせお寺が儲かるためのもんだろう」という方もいました。

と話します。


2014年調べですが、直川の檀家さん233戸の中でお彼岸のご供養した檀家さんは227戸でした。

数件の家は病気などの都合で申込が出来なかった方でした。

「今年は年回をしたからお彼岸はしない」と言うお話を聞いたのが、
始めてっだたのでビックリしました。

いずれ「今年の春に祖母の7年忌をしたのでお盆はしない」という檀家さんが現れるのかも知れませんね。


もう一つは、どこのお寺の檀家さんにも必ず一人二人は見かける方です。
「どうせお寺が儲かるためのもんだろう」の考えの方です。


正定寺では、檀家さんが布施したお彼岸の施餓鬼供養料の中から、
さまざまな経費を差し引いた残高を、花園会女性部にお渡し致します。

女性部はその資金を使って研修会などの活動を行います。
それだけの費用では充分ではないので、女性部自らも年会費を積み立てています。

いくら言っても証拠がないと信用されないので、平成11年から平成26年までの
資料をアップしました。

お施餓鬼が終わると女性部役員に郵送で報告されます。

「どうせお寺が儲かるためのもんだろう」と言う方が見てくれれば良いのですが
そんな方は、大切な情報は見ないものですね。



秋のお彼岸山門大施餓鬼法要を営むために、数週間前からその準備に取りかかります。
檀家さんが参拝して「うちの寺は立派だな」と言われるように頑張っています。

残念なのは、参拝したことがない方にとってはその法要の荘厳さや
厳粛な歴史観を体験出来ない事です。

今年は参拝してみませんか? 季節も良いし本堂は全て椅子掛けです。










多様化した仏事?

2015年09月13日 | 日記
法事は斉会(さいえ)と言って、字の如くお斎(食事)を一同会して食べる事
を指します。

お斎の膳は故人の霊前に供えられた膳と同じモノを頂くのが正しい
斉会のあり方です。



仏事は精進料理となり、最初に仏さまに食して頂き次に私たちがいただきます。
間違っても、仏さまより先にいただく事はありません。

仏さまが食べる合図は、僧侶の読経になります。

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佐伯地方では葬儀でいただく「別れの膳」という風習があります。

棺を前に亡き方と最期の食事をする儀式を「別れの膳」と言います。
今では葬祭場の別室に設けられた部屋で頂く事が多くなりました。


棺のそばには故人のために「飯茶碗」に山盛りの飯と箸を立てた「盛り飯」が供えられます。
この盛り飯を「一膳飯」と言い死者専用のご飯です。

生きている我々がいただく「膳」は、二膳食べられるように、
飯茶碗には、お代わりが出来るようにと一口のご飯がよそわれています。

これは一膳飯を避ける風習の名残です。

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一見粗食のように見える霊具膳(りょうぐぜん)ですが、
昔の方にとっては贅沢な材料を使ったご馳走だったのでしょう。

しかし、最近のお斎はずいぶん多様化して、精進料理は葬儀の時しか見なくなりました。
ご法事の仏さまに供えられている霊具膳は質素なお膳なのに、参列者はじつに豪華な食事となっています。

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和尚さんが集まっての雑談で「最近の仏事で精進料理がなくなった」と話題に上ります。

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今年、94歳になるタズエさんと言うおばあさんがお寺の近くに住んでいます。

このおばあさんは、正定寺に50年以上通っていて、私をおんぶしてあやし、私の子供達のおしめまで
取り替えてくれた方です。

このおばあさんのご主人の25回忌の時のお話です。

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法事の日時を決める時に「○○ちゃん。実は兵庫や東京の子供達が孫を連れて帰ってくる。
孫達が庭先でバーベキューをしたいと言うんだけども、法事のお昼はバーベキューで良いかな?」と
聞かれました。
※○○ちゃんは私の小さい時の呼び名。

おばあさんには「バーベキューのそばでは衣に臭いが付くので、仏間で焼かれた食べ物をいただきます」と
返事をしました。

仏事のお斎で「バーベキュー」は始めてでしたが、庭先で喜ぶ孫を私と一緒に仏間で見ていたタズエさんは
とてもうれしそうでした。

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炭火の網で焼かれたお肉や野菜が私の前に置かれると「お肉はおいしい?・野菜はおいしい?」と
私を気遣いながら何度も何度も聞きます。

私が「おいしいお肉です。とてもおいしいです」と返事をするとタズエさんは上機嫌でした。

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タズエさんの法事で食べたバーベキューの事で「正定寺の和尚さんは肉が大好物らしい」という噂があっと言う間に
広まってしまいました。

数ヶ月後に行われた同じ地区の「ノリちゃん」のところの法事では、特大のステーキが私だけに用意され、
ご法事のお斎に出されました。


法事が終わりいざステーキを前に、衣姿の私がナイフとフォークを使い始めたら、
座っていたご主人が「最近の坊さんは仏事でも平気に肉を食べるのですね」と皮肉タップリに私に向かって言いました。

私も家人の「おもてなし」にうっかり手を付けてしまった軽率な行動だったと反省しましたがあとのまつりです。

そのお家のご主人が言い放った「最近の坊さんは・・・」の話が人から人に広まり、「正定寺の坊さんは法事でステーキしか食べんらしい」とか
「正定寺の和尚は、肉を出さんと法事をせんらしい」とまでうがった噂話好きな方々の恰好な的になってしまいました。

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確かに私は見方によっては少々デブです。
容姿で判断されるとぐうの音も出ないのが現状です。

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タズエさんの法事と一般の法事は少し違います。
タズエさんは私があまりお肉を好まないのを知っていました。

ですから、遠くから帰ってきた子供や孫の喜ぶ顔が見たくて
私に「お肉はおいしい?・野菜はおいしい?」と何度も気遣ったのです。

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私が肥満に見えるのは「お肉」のせいではありません。

私は出された食事を人一倍感謝していただいています。だから人一倍栄養が身についただけです。

あなたとは違います・・・・・。






お坊さん泣かせ

2015年09月10日 | 日記
「核家族」と言われて久しい社会ですが、
ご法事も徐々に昔とは様子が変わってきました。


20年ほど前までのご法事は、祖父母・夫婦・子供から姉弟親族までが
一同仏間に会して行っていました。



最近のご高齢のご夫婦は「息子達には迷惑を掛けたくない」と言って
老夫婦だけでご先祖さまの法要を営みます。

和尚は、その老夫婦の子供さんとあったことがないので顔を知りません。

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そのような家は、実はきわめて希です。

めったに里帰りしない息子や娘も法事となれば戻って来ます。
正定寺の檀家さんの中には九州圏内遠くは関西・関東からも、いとわずに戻ってくる子供さんもいます。

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10代の子供なら仕方ないのですが、出来れば20代以上の大人の子供は
その家の先祖法事には是非参加して欲しいと願います。

ましてや40代・50代の息子は、跡取りとして自覚して頂きたいものです。


葬儀の喪主に対して「初めまして」とお坊さんに言わせないで下さい。

とても悲しくなります。


佐伯市内の和尚さんの話。







第21回 花園会女性部研修会

2015年09月10日 | 日記
研修テーマ「おかげさま」で別府市の亀の井ホテルで259名の
参加者を迎え「第21回 花園会女性部研修会」が行われました。

正定寺から飛河浩美女性部事務局・大竹琴美前女性部顧問・戸高タカヨ女性部監査と
閑栖寺庭の4名が参加致しました。



午前中は大分市万寿寺 佐々木道一老大師の講話をいただき
午後からは九州東教区花園会女性部総会が行われました。

佐々木道一老大師の講話





偉人がいた事を伝えたい。

2015年09月09日 | 日記
正定寺は大分県佐伯市直川に在ります。
この直川には3ケ寺があり、2ケ寺は真宗大谷派の寺院です。

一つは上直見の専念寺(センネンジ)
一つは横川の善正寺(ゼンショウジ)です。

この善正寺のご院家さんの姓は「横川」と言い
現在のご院家さんは私が中学生の時に習った英語の先生です。

ご紹介するのは、このお寺で生まれた現在のご院家さんのお父さんの
事です。

横川顕正さんと言って、京都大谷大学の教授でした。

ここにネット上にある横川顕正さんの記事を紹介して
ご門徒さんに伝えたいと思います。


ごゆっくりどうぞ

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大谷大学図書館・博物館報(第23号)
一郷正道教授(仏教学)投稿文

『横川顕正遺稿集』が、ご息女の編集のも
と、旧臘、丸善出版サービスセンターから出
版された。

故横川顕正教授は、本学図書館にある「横川文庫」
(和漢書822冊、洋書358冊を蔵する)のご当人である。

教授は、あの鈴木大拙博士の後継者として嘱望され、
教授が病気に倒れると病室に布団を持ち込んで必死に
看病され、葬儀の折には「横川君、何故早く死んだ」と泣き叫ばれたほどの逸材であったが、
36才で夭逝された方である。

1921年(大拙51才)から約20年間の大谷大学での教鞭生活は、
佐々木月樵、西田幾多郎とのつながり、慫慂によるものであったが、
その間の大拙像は、数少ない学徒によって思い出話としては伝えられることは
あるものの未知の部分が多い。

故教授から大拙先生宛の書簡は、偏依大拙の一学徒が真摯に学問上の教示を仰ぐものが
大半である。

教授が急逝され、幼子5人(1人は胎内)をかかえて帰寺した若坊守の
苦悩が赤裸々につづられ、それを受けて大拙先生が親代わりになって
お世話された様子が判明する。

大拙先生の御教導によって若坊守は得度され、故教授の自坊の法灯の継承が可
能になった事実が証言されている。

1920年代の大拙先生は決して今ほど世界的名声を得た存在ではなかったと思う。

その先生を、学問上の、人生上の師と仰いだ故教授の慧眼。
その学生を受けいれ、手塩にかけ、夭逝後のご家庭の面倒まで親代わりになって
世話された大拙先生の慈愛。

かかる故教授との師弟関係に、これまで知られていない大拙の暖かい人間像の一面を
公に知ることになった

死を予感しておられたのか、絶筆ともいえる「死と佛教」の末尾(本書217頁)に、
「斯くてこそ死に涼風を吹き入れ、死をして徒らに生を毀損せしめず、
照るもよし曇ってもよしと心に餘裕を生じてくるのである」と諦観の心境を述べ、
臨終の際には大拙先生に「必死の面持で『必ず生まれかわって御恩返しをします』と
繰り返し訴え」られたそうである(本書371頁)。

真宗の伝統の中に育ち、大拙先生の薫陶を受け、豊かな語学力で西洋の文献に通じた
若き俊英の夭逝は、本学のみならず日本の、世界の学界にとって、
いかに惜しみてあまりあるものであったかを、門外漢の小生にも痛感させる数々の
論攷が収められている。

本遺稿集は、私的領域をこえ公的性格を担い、
知と情が巧にかみあった編集になっている。

抜粋


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横川顕正の『禅思想史』観 和田真二

横川顕正の禅思想に関する論考は余り多く存在しない。
その理由は若くして、逝去されたことに由来するものであるが、それでも、残された著作論文と、
新刊紹介の書評を手掛かりにして彼の禅思想について少しく考察してみたい。

知られる如く顕正は鈴木大拙の自他共に認める第一の弟子であった。
顕正自身も学生の頃から熱心に相国寺(臨済宗相国寺派本山)で参禅されたことが伝聞されている。

後には大拙にかわって禅の講義を担当している。顕正の思想的発展は概ね大拙のそれによる。

大拙著の英文『楞伽経の研究』を論評する中で「大乗仏教の経典中には、その高き仏教経験の
含まれているにも拘わらず未だその全き研究の試みられずして残されているものがある。

抜粋
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横川顕正における「禅と念仏」の問題

和田真

横川顕正の宗教学者としてのデビュー作として目される論文「宗教的神秘主義の基本的概念」 の中で
彼は神秘主義を次のように提示している。

平成元年、大拙の二十五回忌記念行事が開催された時の「大谷大学広報』に、
宗教学科の故武田武麿教授は次のように述べている。

横川先生は、まさに自他共に許した大谷大学における鈴木大拙の最初の直弟子であった。

論文の中心テーマは、「神秘主義」であった。
神秘主義的体験によって、宗教経験を表現しようとする意図が、大拙からの強い影響であったと云えよう。
この横川を初めとして、それ以後の大拙門下は、その多くが研究テーマを、 神秘主義思想に求めてきた。

顕正には未発見の論文八編を含め十二の論文が認められるが、その他にも「新刊紹介」の二十一編の論考が存在する。

『盤珪の不生禅』の書評中に不生禅の説く「不生」は「仏心」で「一切事が調います」という所に、
真宗理解の上に側面的な深き暗示を与えているといい、盤珪の「不生」と真宗の「名号」の宗教体験に於ける位置に就い
予期せざる類同性を学ばしめられたと述べている。

抜粋
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すごい方がいたものですね。




















花園地方研修大会・・第34回

2015年09月08日 | 日記
研修テーマ「おかげさま」・・社会の恩 生かされ支えられ・・
の花園地方研修大会が別府市の亀の井ホテルで行われました。

九州東教区の花園会運営部の279名が参加して花園会本部長 鮎川搏道師の
講演をいただき10:00から14:00までの研修を無事に終えました。

正定寺から女性部役員の河野豊美部長・廣瀬芳子副部長・柳井久美子副部長が参加
致しました。



写経筆やワッペンなどのお土産と管長さまの色紙に
参加者はひときわ喜んでいたそうです。

妙心寺派管長 嶺 興嶽老大師 御染筆 


徳は孤ならず 必ず隣あり  布袋画
(徳のある人は孤立することはなく、必ずそれに賛同する人たちが集まる)

秋のお彼岸申込

2015年09月07日 | 日記
数日前から秋の水塔婆の申込が始まりました。

ご先祖の戒名を施餓鬼袋に記して申し込む方法です。

申込の施餓鬼袋


この施餓鬼袋に各家で戒名を書いていただくのですが、戒名の字が判りづらかったり
戒名の字が抜けていたりするお家もあります。

水塔婆と読み上げをこしらえる二人の寺庭は、首をひねりながら私に尋ねて来ます。

水塔婆(経木塔婆)


施餓鬼読み上げ用


私はまず「申込の檀家さんは、どこのお家ですか?」と聞きます。
そうするとそのお家の様子が判ります。

おおかたは出来のやや悪いお嫁さんがいるところです。

その申込袋を取ってじっくりと見ました。

申込の字はわかりづらいですが、一生懸命に書いている事がうかがえます。
たぶん、このお家の80歳を過ぎているおばあさんが位牌を見ながら書いたのだろうと
想像できます。

その檀家さんの家は、
長男さんもそのお嫁さんも同居しているのですが、秋のお彼岸は二人にとって人ごとなのかも知れません。
お母さんに任せっきりで協力もしないのでしょうね。
明らかに字は高齢のおばあさんが書かれたものだと判ります。


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80歳を過ぎた方々の中には、初等教育を終えると家の田畑や山林の労役に従事した者も多いので
字を書くのが苦手な方々が大勢います。

その点、若い夫婦は親から高等教育まで学校に通わせてもらっています。
戒名に記されている漢字のおおかたは見て書けます。

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目も不自由で高齢の姑さんに代わって同居のお嫁さんが申込の戒名を
書いてあげればと思うのですが、出来のやや悪いお嫁さんは知らん振りなんでしょうね。


なのに、おばあさんは申込の施主名を長男の名前にしています。
供養料も年金から出したのかも知れません。

表に書かれている戒名は、おばあさんの亡きご主人の戒名と若夫婦の間に生まれて
3歳でなくなった最初の子供の戒名でした。

若い夫婦は、知っているのでしょうか?。

おばあさんがどのような思いを込めて申込袋に戒名を書いたのかを
想像しながら寺庭に話すと「私は良い嫁になります」と新命和尚の嫁が手をあげて宣言していました。

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昔はお寺の和尚さんが媒酌人をする事が多く見受けられました。
それは、檀家さんの中の良い娘さんと出来の悪い娘さんがわかるのではありません。

和尚さんはその娘さんのお母さんを見ていたのです。

そうです、出来の良いお嫁さんに育ててもらった娘さんが「出来が悪い」はずがありません。

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最近、ブログがとても過激な文章になって来ています。

そろそろ皆さんとお別れする時が近づいたので、
最期の「言いたい放題」のブログになって来たのかも知れません。

まあ、もうしばらくは「言いたい放題」が続くと思います。

なので、お気に障りましたらどうかご寛容下さい。













佐伯なぜ旅漫遊記

2015年09月06日 | 日記
9月に入って佐伯ケーブルテレビの「佐伯なぜ旅漫遊記」で蒲江が放映され、
その中に、西の浦出身の高僧で前京都相国寺派管長の梶谷宗忍老師が紹介されています。



詳しいプロフィルはこちら

この梶谷宗忍老師は佐伯市海崎戸穴の願成寺で得度して仏道に入りました。

梶谷宗忍老師の兄弟子になる龍渕堅道和尚が遷化(亡くなる)した時の導師も
宗忍老師が勤められました。

津葬(葬儀)が終わり、控えの間におられた老師が「正定寺と梅南寺(蒲江丸市尾)の二人を呼べ」と言われたようで
本堂の片付けをしていた私と梅南寺さんは隠寮の老師がいる控えの間に呼び出されました。


写真でも分かるように一分の隙も無い眼光鋭い老師の前に、私と梅南寺さんはビクビクしながら正座しました。

すると老師が

「正定寺と梅南寺はよく聞け。この願成寺は立派な檀家が多く数も多い。その点おまえ達の寺は檀家数が少なく、
それほど忙しく無いので、しばらくは願成寺の新命純一和尚を手伝うように分かったか」と

一方的な命令で、しかも「おまえ達の寺は小さくて暇だから」と・・・・。

確かに老師の元で修行させていただき、私たちがあるのは老師のお蔭なのですが、
願成寺の檀家が立派で正定寺や梅南寺の檀家が田舎者のように言われたのが、少しシャクに触りました。

しかし、
私と梅南寺さんは、その日から梶谷宗忍老師が亡くなる平成7年まで、法事の手伝いや葬儀の手伝いなど
足繁く願成寺に通いました。

ある、海崎(八幡)の檀家さんの50回忌に出向いた時の話です。

法事は和尚の読経が終わり、お斎(食事)の前に施主(戸主)が挨拶するのが一般的です。

願成寺の檀家さんのその家も、食事の前に施主さんから挨拶がありました。

その挨拶は次のようなものでした。

・・・・・・・・・・・・・・

今日はお忙しい中、父の50回忌の法要にお参りしていただきありがとうございます。

私がこの50回忌を営むにあたり、父への思いを皆さまにも聞いていただきたいと思います。


私はこの八幡村から当時3人しか中学に進学出来なかった中の一人として佐伯中学に合格しました。
父は学問もしていない農家の跡取りでした。
又、私が中学に進学することをあまり快く思っていなかったようでした。

中学5年生の時に、当時の校長先生が朝礼で「諸君は父親を追い抜くような立派な人間になるように努めなさい」と
言われました。

私は既に高等商船に進学することが決まっていて、校長先生が訓じる「父親を追い抜く人物になれ」はそのとき
すでに果たしていると感じていました。


ところが、商船会社に就職するもうまくいかず、次の会社は倒産。次の職場もうまくいかず
私は自暴自棄の毎日を過ごしていました。

そんな私を見かねた父親が「帰ってこい」と救いの手をさしのべてくれました。

30代で八幡に戻った私は、会社員としてこの八幡で定年を迎えました。

そして、今日父の50回忌を迎えるにあたり、この母屋も蔵も田畑も全てが亡き父が築いたものだと気づきました。

それだけではありません、私を含め、こうしてお参りしていただいたご親戚の皆さまや姉弟も全て父が長年にわたり
大切に、はぐくんでいただいた方々です。

80歳を過ぎた今、やっと父親の生きざまにはとうていかなわない事や父の恩に何一つ報いる事が出来ていないことに
気づかされ悔いるばかりです。


今日は皆さまと亡き父の思い出を話しながら
弔いたいと思っています。

どうぞごゆっくりして行って下さい。

・・・・・・・・・・・・・・
という内容の挨拶でした。


梶谷宗忍老師が言われた「願成寺には立派な檀家が多いから・・」は本当だったと感じました。

でも、正定寺や梅南寺にも立派な檀家さんは大勢います。