正定寺は大分県佐伯市直川に在ります。
この直川には3ケ寺があり、2ケ寺は真宗大谷派の寺院です。
一つは上直見の専念寺(センネンジ)
一つは横川の善正寺(ゼンショウジ)です。
この善正寺のご院家さんの姓は「横川」と言い
現在のご院家さんは私が中学生の時に習った英語の先生です。
ご紹介するのは、このお寺で生まれた現在のご院家さんのお父さんの
事です。
横川顕正さんと言って、京都大谷大学の教授でした。
ここにネット上にある横川顕正さんの記事を紹介して
ご門徒さんに伝えたいと思います。
ごゆっくりどうぞ
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大谷大学図書館・博物館報(第23号)
一郷正道教授(仏教学)投稿文
『横川顕正遺稿集』が、ご息女の編集のも
と、旧臘、丸善出版サービスセンターから出
版された。
故横川顕正教授は、本学図書館にある「横川文庫」
(和漢書822冊、洋書358冊を蔵する)のご当人である。
教授は、あの鈴木大拙博士の後継者として嘱望され、
教授が病気に倒れると病室に布団を持ち込んで必死に
看病され、葬儀の折には「横川君、何故早く死んだ」と泣き叫ばれたほどの逸材であったが、
36才で夭逝された方である。
1921年(大拙51才)から約20年間の大谷大学での教鞭生活は、
佐々木月樵、西田幾多郎とのつながり、慫慂によるものであったが、
その間の大拙像は、数少ない学徒によって思い出話としては伝えられることは
あるものの未知の部分が多い。
故教授から大拙先生宛の書簡は、偏依大拙の一学徒が真摯に学問上の教示を仰ぐものが
大半である。
教授が急逝され、幼子5人(1人は胎内)をかかえて帰寺した若坊守の
苦悩が赤裸々につづられ、それを受けて大拙先生が親代わりになって
お世話された様子が判明する。
大拙先生の御教導によって若坊守は得度され、故教授の自坊の法灯の継承が可
能になった事実が証言されている。
1920年代の大拙先生は決して今ほど世界的名声を得た存在ではなかったと思う。
その先生を、学問上の、人生上の師と仰いだ故教授の慧眼。
その学生を受けいれ、手塩にかけ、夭逝後のご家庭の面倒まで親代わりになって
世話された大拙先生の慈愛。
かかる故教授との師弟関係に、これまで知られていない大拙の暖かい人間像の一面を
公に知ることになった
死を予感しておられたのか、絶筆ともいえる「死と佛教」の末尾(本書217頁)に、
「斯くてこそ死に涼風を吹き入れ、死をして徒らに生を毀損せしめず、
照るもよし曇ってもよしと心に餘裕を生じてくるのである」と諦観の心境を述べ、
臨終の際には大拙先生に「必死の面持で『必ず生まれかわって御恩返しをします』と
繰り返し訴え」られたそうである(本書371頁)。
真宗の伝統の中に育ち、大拙先生の薫陶を受け、豊かな語学力で西洋の文献に通じた
若き俊英の夭逝は、本学のみならず日本の、世界の学界にとって、
いかに惜しみてあまりあるものであったかを、門外漢の小生にも痛感させる数々の
論攷が収められている。
本遺稿集は、私的領域をこえ公的性格を担い、
知と情が巧にかみあった編集になっている。
抜粋

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横川顕正の『禅思想史』観 和田真二
横川顕正の禅思想に関する論考は余り多く存在しない。
その理由は若くして、逝去されたことに由来するものであるが、それでも、残された著作論文と、
新刊紹介の書評を手掛かりにして彼の禅思想について少しく考察してみたい。
知られる如く顕正は鈴木大拙の自他共に認める第一の弟子であった。
顕正自身も学生の頃から熱心に相国寺(臨済宗相国寺派本山)で参禅されたことが伝聞されている。
後には大拙にかわって禅の講義を担当している。顕正の思想的発展は概ね大拙のそれによる。
大拙著の英文『楞伽経の研究』を論評する中で「大乗仏教の経典中には、その高き仏教経験の
含まれているにも拘わらず未だその全き研究の試みられずして残されているものがある。
抜粋
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横川顕正における「禅と念仏」の問題
和田真
横川顕正の宗教学者としてのデビュー作として目される論文「宗教的神秘主義の基本的概念」 の中で
彼は神秘主義を次のように提示している。
平成元年、大拙の二十五回忌記念行事が開催された時の「大谷大学広報』に、
宗教学科の故武田武麿教授は次のように述べている。
横川先生は、まさに自他共に許した大谷大学における鈴木大拙の最初の直弟子であった。
論文の中心テーマは、「神秘主義」であった。
神秘主義的体験によって、宗教経験を表現しようとする意図が、大拙からの強い影響であったと云えよう。
この横川を初めとして、それ以後の大拙門下は、その多くが研究テーマを、 神秘主義思想に求めてきた。
顕正には未発見の論文八編を含め十二の論文が認められるが、その他にも「新刊紹介」の二十一編の論考が存在する。
『盤珪の不生禅』の書評中に不生禅の説く「不生」は「仏心」で「一切事が調います」という所に、
真宗理解の上に側面的な深き暗示を与えているといい、盤珪の「不生」と真宗の「名号」の宗教体験に於ける位置に就い
予期せざる類同性を学ばしめられたと述べている。
抜粋
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すごい方がいたものですね。
この直川には3ケ寺があり、2ケ寺は真宗大谷派の寺院です。
一つは上直見の専念寺(センネンジ)
一つは横川の善正寺(ゼンショウジ)です。
この善正寺のご院家さんの姓は「横川」と言い
現在のご院家さんは私が中学生の時に習った英語の先生です。
ご紹介するのは、このお寺で生まれた現在のご院家さんのお父さんの
事です。
横川顕正さんと言って、京都大谷大学の教授でした。
ここにネット上にある横川顕正さんの記事を紹介して
ご門徒さんに伝えたいと思います。
ごゆっくりどうぞ
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大谷大学図書館・博物館報(第23号)
一郷正道教授(仏教学)投稿文
『横川顕正遺稿集』が、ご息女の編集のも
と、旧臘、丸善出版サービスセンターから出
版された。
故横川顕正教授は、本学図書館にある「横川文庫」
(和漢書822冊、洋書358冊を蔵する)のご当人である。
教授は、あの鈴木大拙博士の後継者として嘱望され、
教授が病気に倒れると病室に布団を持ち込んで必死に
看病され、葬儀の折には「横川君、何故早く死んだ」と泣き叫ばれたほどの逸材であったが、
36才で夭逝された方である。
1921年(大拙51才)から約20年間の大谷大学での教鞭生活は、
佐々木月樵、西田幾多郎とのつながり、慫慂によるものであったが、
その間の大拙像は、数少ない学徒によって思い出話としては伝えられることは
あるものの未知の部分が多い。
故教授から大拙先生宛の書簡は、偏依大拙の一学徒が真摯に学問上の教示を仰ぐものが
大半である。
教授が急逝され、幼子5人(1人は胎内)をかかえて帰寺した若坊守の
苦悩が赤裸々につづられ、それを受けて大拙先生が親代わりになって
お世話された様子が判明する。
大拙先生の御教導によって若坊守は得度され、故教授の自坊の法灯の継承が可
能になった事実が証言されている。
1920年代の大拙先生は決して今ほど世界的名声を得た存在ではなかったと思う。
その先生を、学問上の、人生上の師と仰いだ故教授の慧眼。
その学生を受けいれ、手塩にかけ、夭逝後のご家庭の面倒まで親代わりになって
世話された大拙先生の慈愛。
かかる故教授との師弟関係に、これまで知られていない大拙の暖かい人間像の一面を
公に知ることになった
死を予感しておられたのか、絶筆ともいえる「死と佛教」の末尾(本書217頁)に、
「斯くてこそ死に涼風を吹き入れ、死をして徒らに生を毀損せしめず、
照るもよし曇ってもよしと心に餘裕を生じてくるのである」と諦観の心境を述べ、
臨終の際には大拙先生に「必死の面持で『必ず生まれかわって御恩返しをします』と
繰り返し訴え」られたそうである(本書371頁)。
真宗の伝統の中に育ち、大拙先生の薫陶を受け、豊かな語学力で西洋の文献に通じた
若き俊英の夭逝は、本学のみならず日本の、世界の学界にとって、
いかに惜しみてあまりあるものであったかを、門外漢の小生にも痛感させる数々の
論攷が収められている。
本遺稿集は、私的領域をこえ公的性格を担い、
知と情が巧にかみあった編集になっている。
抜粋

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横川顕正の『禅思想史』観 和田真二
横川顕正の禅思想に関する論考は余り多く存在しない。
その理由は若くして、逝去されたことに由来するものであるが、それでも、残された著作論文と、
新刊紹介の書評を手掛かりにして彼の禅思想について少しく考察してみたい。
知られる如く顕正は鈴木大拙の自他共に認める第一の弟子であった。
顕正自身も学生の頃から熱心に相国寺(臨済宗相国寺派本山)で参禅されたことが伝聞されている。
後には大拙にかわって禅の講義を担当している。顕正の思想的発展は概ね大拙のそれによる。
大拙著の英文『楞伽経の研究』を論評する中で「大乗仏教の経典中には、その高き仏教経験の
含まれているにも拘わらず未だその全き研究の試みられずして残されているものがある。
抜粋
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横川顕正における「禅と念仏」の問題
和田真
横川顕正の宗教学者としてのデビュー作として目される論文「宗教的神秘主義の基本的概念」 の中で
彼は神秘主義を次のように提示している。
平成元年、大拙の二十五回忌記念行事が開催された時の「大谷大学広報』に、
宗教学科の故武田武麿教授は次のように述べている。
横川先生は、まさに自他共に許した大谷大学における鈴木大拙の最初の直弟子であった。
論文の中心テーマは、「神秘主義」であった。
神秘主義的体験によって、宗教経験を表現しようとする意図が、大拙からの強い影響であったと云えよう。
この横川を初めとして、それ以後の大拙門下は、その多くが研究テーマを、 神秘主義思想に求めてきた。
顕正には未発見の論文八編を含め十二の論文が認められるが、その他にも「新刊紹介」の二十一編の論考が存在する。
『盤珪の不生禅』の書評中に不生禅の説く「不生」は「仏心」で「一切事が調います」という所に、
真宗理解の上に側面的な深き暗示を与えているといい、盤珪の「不生」と真宗の「名号」の宗教体験に於ける位置に就い
予期せざる類同性を学ばしめられたと述べている。
抜粋
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すごい方がいたものですね。
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