正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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最初の鞋資(あいし)草鞋銭の包み

2013年06月12日 | 日記
京都御所の北に位置する
臨済宗相国寺派本山の相国寺は
京都市内の中央にあります。

山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)
があります。

この相国寺の第6代管長さんが
梶谷宗忍老師と云うお方で
佐伯市蒲江西野浦の出身でした。

佐伯市海崎戸穴の願成寺住職であった
龍淵芳洲和尚のもとで得度出家して
住み込みの小僧生活をおくりました。

昭和10年に京都建仁寺専門道場に掛錫して、
竹田頴川老師・その後は梅谷香州老師
相国寺の大津櫪堂老師の法嗣となります。

梶谷宗忍老師(1914~1995)室号を止々庵(ししあん)



私は学校を卒業すると同級生と話し合って、
この相国寺専門道場に掛搭(入門)しました。

この専門道場の師家(修行僧を指導する高僧)が
同郷佐伯市出身の老師とは知らずに掛搭しました。

なんともいい加減な話しです。

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道場に入ってしばらくして、副司寮(修行年数が多い先輩の僧)が、
「これを頂いたのでお礼の手紙を書いて送りなさい」と手渡されたのが
下の写真の「鞋資(あいし)」です。



表には「艸鞋(ワラジ) 堅道和南」と書いています。

この堅道和尚が龍淵芳洲和尚の実子で、
当時の願成寺住職でした。

梶谷宗忍老師とは兄弟弟子になります。

堅道和尚は、僧堂の梶谷宗忍老師に会いに
来たついでに、正定寺の弟子にと老師に鞋資を
預けたそうです。

宗忍老師は5年以上の雲水しか覚えていません。

新頭(新入生)の私の顔などなおさらです。

それで老師は堅道和尚から預かった鞋資を三応寮へ
そこから副司寮にと考えられない人の手を介して
私のもとへ届きました。

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鞋資は修行僧が行脚するための草鞋銭の事です。

この鞋資には「しっかり修行しなさい」という
意味も込められています。

私は34年前にいただいた最初の鞋資包みを
大切に持っています。

(中身の金銭は使いました)

京都から戻って、願成寺の堅道和尚に挨拶に行くと
「相国寺に行ってくれて、ありがとう」と云われました。

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梶谷宗忍管長さんが願成寺小僧時代には

「太鼓をたたかせば馬が踊って出てくるような太鼓をたたき、
お経を唱えれば何を言ってるのか、かいもく分からない」

「おまえみたいな出来そこないの小僧は庵主でもなれ」と
云っていたら管長さんになったと笑いながら堅道和尚が話していました。

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その堅道和尚もすでに亡くなっています。

「しっかり修行しなさい」という気持ちと共に最初に
頂いた鞋資は今でも私の宝物になっています。

今一度、鞋資をいただいた最初の心に
立ち戻る時が来たと感じています。 


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1 コメント

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懐かしい思い出 (小原碧翠)
2017-08-03 19:35:39
梶谷宗仁老師を好いて止まなかった様子が、文章の中から湧き出して見えて来ます。今頃は、あちらで老師と会っているのでしょう。やっぱり憶えていては貰えてないのでしょうかね。
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