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正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

メインページは検索で「正定寺」
(HP作成は正定寺閑栖:小原壽山)
ブログはFacebookにリンクしています。

少し痩せるように

2013年05月10日 | 日記
現在の体重が96㎏です。病気を患って16㎏も
太ってしまいました。

「和尚さん体重を少し落とすように」と毎月の
内科検診で近藤先生から言われます。

太った和尚さんは怠け者しか見えません。
女房と顔を合わせては「痩せるぞ!」と
あるときは合い言葉のように
又、あるときは慰め合うように言葉にしています。

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しかし、
いくら太っていても痩せていても
成仏すると骨壺に入るだけの身になってしまいます。

お釈迦さまの遺骨は仏舎利と言います。
仏舎利は細かく粉砕しひと粒ひと粒に分け8万の
寺院に収められたとも言います。

この写真は佐伯市弥生江良の洞明寺と言う
大きなお寺の「佛器書上」と題された佛具などの
什物を記した帳面です。

※何故か帳面は正定寺に保管されています。



最初に「佛舎利 二粒」と書かれています。
お釈迦さまの遺骨が佐伯市に在った事になっています。
※現在は不明との事です。

同じように「佛舎利」が在った記録が養賢寺にも残っています。
養賢寺の古文書には「三粒」となっていて京都から拝受した由来が
細かく記されたものだそうです。

※3粒がどの寺院に配られたか、
それとも養賢寺に在るのか謎です。

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今回は「佛舎利」ではなく、その記録の最後にある
洞明寺檀徒総代(檀中惣代) 近藤元恭さんに興味がありました。



この近藤家は代々医師で佐伯藩藩医のようです。
その近藤家から正定寺に第九世として住持した
「寂水志堪和尚」がいます。



九世 寂水志堪首座 佐伯切畑 近藤氏之産 住世十四年
宝暦二壬申六月十二日於當山圓寂也
匡山之遺法 然短命故不轉位 造立鐘楼
活門和尚宝林之山植置松不残伐之 一貫二百目依之鋳鐘
安永五丙申二十五周忌也 堪首座従圓寂一年半看司

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貧乏な正定寺の住職になって苦労しながら「梵鐘」を
鋳造しました。
詳しくはこちらです。

寂水和尚は養賢寺の第10世匡山和尚の遺言により
養賢寺を嗣ぐように言われていたのですが、
正定寺での苦労がたたったのか若くして亡くなったようです。

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白衣の前身頃がきつくなっている体型に
寂水和尚の末裔でもある近藤先生の
「少し痩せるように」のお言葉が
心に深くしみます。

次回の検診でいかされるように努力します。



何でもありなので・・・・

2013年05月09日 | 日記
4年前にはじめて抗がん剤治療を行ったとき
副作用の説明を受けました。

主な副作用の説明を丁寧に受けましたが、
どんな苦しい副作用も想定内のようでした。

ようするに「何でもあり」と言うことです。

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昔は、お寺の住職になるのに朝廷の許可が必要でした。

現代で言うと僧侶は「特別職の国家公務員」の
ようなものです。

正定寺の住職も同じで写真は第16代和尚の任命書です。
「御綸旨」と言います。
詳しくはこちら




明治になると



のように「天気」の文字がなくなります。

現在では各宗派各本山が許可を出すようになりました。

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「私度僧(しどそう)」と言う言葉があります。

都から遠い地方では、自分で得度出家してどの宗旨にも属せず、
法事や葬儀を行う僧侶を「私度僧」と言いました。

報道表示だと「自称僧侶」と言うところかも知れません。


「私度僧」の中には、税の免除などの特典を目的に
農民から私度僧へとなった者もいたそうです。

現在版の「私度僧」もいます。

都会地に多く存在して品格のない葬祭屋さんと
手を組んで「宗旨宗派不問」で葬儀を行います。
当然、戒名も付けます。

きちっとした寺院や所属を持たない「現代版私度僧」は、
民間の「便利屋さん」のように、あるときは真宗僧侶・
あるときは真言宗僧侶・あるときが大僧正と「何でもあり」です。

菩提寺とあまり親しくない方は、いざ葬儀となると
葬儀社の手配で「現代版の私度僧」を紹介されます。

人が亡くなったから、お坊さんを呼ぶ。
お坊さんの格好をしていれば誰でも良い。

ごちゃごちゃ言うお坊さんよりも「便利屋の和尚さん」の方が
後腐れがなくて良いと喪家は感じます。

そこが、問題です。


祖師から法脈を受け継いだ私たちが、
「何でもあり」の「現代版の私度僧」とは一味違うところを
見せなければならない時が来ているようです。


名もなき ムササビ 実は・・・・!

2013年05月08日 | 日記
平成9年に故河村清村長の時代に編纂された
「直川村誌」があります。

分厚い本ですが、「随分調べたものだ」
と言うぐらい直川村の事が綴られています。

直川振興局の教育委員会には、まだ在庫が
あります。

直川在住の方であれば確か3.000円前後で
手に入ったと思います。

村外の方も購入出来ます。

その「直川村誌」の「自然と環境」の
記事に「ムササビ」の調査結果が
載っていました。

次の文章がそれです。
(原文)
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ノウサギと近縁のムササビは、村内の古い神社の
本殿や拝殿の天井裏などを利用している事例が
多いが、老齢の樹木の枝折れ跡などに穴をあけ、
樹洞などを利用して生活している例も多い。


直川村のムササビ個体群のうち特異な群れは、
正定寺のムササビ個体群である。

山門や、本堂裏手の森などが主要な
行動圏になっていて、個体の夜間飛翔距離は平均40m。


村内の外の個体群の飛翔距離、平均60mにくらべて
短いようであるが、正定寺のムササビの生息環境が、
それだけ安定条件に恵まれていた
ことを物語っている。

村内で子供たちの行動の安全性が確保できて、
かつ、野生動物であるムササどの行動圏に対して、
恵まれたアプローチを備えているという
観察上の条件を検討すると、正定寺のムササビ個体群は
「観察会の対象」に最適の条件を備えている。

ムササどの行動圏が狭く生息条件が安定しているだけに、
夜間観察のためのスポット照明による刺激条件に配慮すれば、
すぐれた自然観察の県南拠点として有効である。


ただし、
正定寺周辺の森林に対する伐除、地形変更などの
開発行為が展開される気配もあり、
正定寺のムササビ個体群は、外の自然林との
連続性が断たれるおそれがある。

許されることであれば、村指定の天然記念物指定などによって、
その積極的保全を図るべき、すぐれた個体群である。

正定寺周域に対する人為的干渉については、
この個体群に対する配慮が最大に作用するよう、
村民の「村の自然環境保全」への関心の高まりを
期待してやまない。
                  
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「正定寺のムササビ個体群」なんて知らなかった。

私は「村の自然環境保全への配慮」を無視して
境内周辺の雑木を大胆に伐採していたらしい。

でも、
「正定寺のムササビ個体群」の数匹は、
私の書斎の天井裏で元気に飛び回り
イタズラをしています。

「名もなきムササビ」と思っていましたが、
本に載るほどの有名人だとは驚きました。



天井裏のムササビを必死に捕獲して、
強制転居の執行を行おうとしている私は
まさに「人為的干渉を進める自然環境破壊者」だと
言えるのかも知れません。

でも、イタズラをする子には
「喝」を入れなくてはいけません。

大量の杉皮をすみかに運び入れた様子



透き間から壁板をかじった後



電話線や電気線をかじるムササビ





晋山式で改装された台所や客間・書院・書斎に
棲み着いているムササビを早く強制撤去したいと
考えています。

「正定寺のムササビ個体群」との戦いです。

「正定寺のムササビ個体群」の命名者は、
現在、ムササビの赤ちゃんの飼育日誌を
公開して、ムササビを愛してやまない人物では
ないかと推察しています。

※偶然見つけたFacebookからの推測では。
たぶん、私も良く知っている
「佐伯市直川間庭:東海大学:いい人:平野さん:ケンチャン」では
ないかと思います。

私も「正定寺のムササビ個体群」と
共存したいのですが、手だてが見つかりません。

先ずは、天井裏を実行支配している彼らと、
会話をしたいのですが、
会話のテーブルに着く前に「ガリガリ」と天井裏を
かじり出します。

今の時点では「お手上げ」です。








明日は検査治療で留守です

2013年05月07日 | 日記
病気とお付き合いするようになり、
いろんな薬剤・医療器具の名前を
覚えました。

CEAもその中の一つです。

癌の数値(腫瘍マーカー)を
血液検査で計った事を
CEAと言います。
※簡単な説明です。

このCEAが昨年から下がらないので
度々検査のために病院へ行きます。

数値の加減で抗がん剤投与の
継続か中断かが決まります。

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早朝の午前3:00前後に檀家さんが
亡くなり枕経で新命和尚が
お参りに行きました。

最近では午後11:00~午前5:00の間に亡くなっても、
枕経の連絡を遠慮する檀家さんが多くなりました。

隣保やお寺への配慮もあると思いますが、

斎場や火葬場の都合などは、
夜が明けて通常勤務時間でなければ
葬儀の日程が確定しないという
事情もあります。

20年程前は、隣保の協力だけで葬儀が
出来ていました。

火葬も同じく日時の融通がきいて、
喪家の要望を聞いてくれました。

最近では、葬祭社さんが全てを行い、
直川の火葬場が閉鎖されてからは
午前9:00から午後3:00まで1時間間隔の
利用となりました。

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佐伯市には4ヶ所の葬祭業社があり、
それぞれが葬儀会場を持っています。

葬儀は斎場以外にも、自宅での葬儀・お寺の本堂や檀徒会館での
葬儀などもあります。

昭和20年代までは庭先などの屋外で葬儀を行っていました。

火葬場は昭和24年に薪式のものがありましたが
昭和45年の重油式が出来るまで土葬が多かったと
聞きます。

戦後から昭和50年代までは、自宅で葬儀を行うことが多く、
昭和60年代から平成になって、
お寺の本堂を使う事が多くなりました。

それに合わせて、本堂で葬儀が出来るように
マイク設備や細かな葬儀道具を揃えるように
なりました。

平成15年頃から核家族の影響や隣保環境が
変化して、葬儀社を利用した冷暖房完備の
斎場使用が多くなりました。

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お寺を使用して葬儀を行う場合は、その準備を
寺族か葬儀社が行います。

正定寺は少しでも喪家の負担を減らすために
葬儀社に頼まず寺族で準備しています。

普段の本堂正面



葬儀の飾り付け



普段の本堂



葬儀の本堂



境内の掃除。屋内の掃除・椅子・葬儀荘厳などなど
結構準備が大変なのですよ。

これに加えて、引導・戒名なども寝ずに考えると
時間が足りません。

葬儀の場だけお参りすると、お寺=斎場と思って
しまいますが決してそうではありません。

一人の葬送を営むと言う事は
飾り付けだけを見ても簡単なものではありません。

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今朝のお家はお寺に近いので、本堂での葬儀
が良かったのですが、冒頭の理由に加えて
8日は、葬儀は出来るが斎場が空いていない。
加えてお寺も使えない。

9日は友引で葬儀を出すのをためらう。

そこで10日の葬儀となりました。

隣保の方達が寺族に代わって
葬儀の飾り付けを手伝う事も
考えられますが、

仏具の取扱や障子・襖の取り外しは、
普段出入りしていないと出来ないものです。

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お盆の飾り付け



秋のお彼岸の飾り付け



大般若の飾り付け



お正月の飾り付け



これらの年中行事を見て、一度も見たことがないな~と
思うようでしたら、飾り付けは少々無理かも知れません。

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お寺の本堂で葬儀が出来れば、お寺の布教活動にも
なるので、とても良いのですが今回は残念です。

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少し心配なのは、
お寺の都合で本堂が使えない場合は、聞き違いや思い違いで

「お寺が本堂を使わせない」とか「お寺の寺族がいやがっている」とか
トンデモナイ噂話が出ることがあります。

そこで、あらかじめブログで事情を告知しています。

取越し苦労だと良いのですが。

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正定寺周辺で「ブログ愛読者」や「ブログのぞき見隊」の
皆さまは、是非ご承知していただきたいと
存じます。

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お寺の都合や斎場の都合・火葬場の都合に友引も
重なり、三晩の間を経て葬儀となります。

※都会では火葬が中々出来なくて、葬儀が済んだ後
1週間たって火葬と言うこともあると聞きます。



故人は温厚で人からの信頼も厚い方で
お寺の役員も何度引き受けてくださいました。


家族にとっては、大切な故人とゆっくり
お別れが出来るのかも知れません。

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地元は案外知らないものですね

2013年05月05日 | 日記
佐伯市の人口は約77.000人です。
そのうち旧直川村の人口は約2.400人。

その中で市民が良く知っている
有名人は何人いるのか気になります。

佐伯市の名誉市民は元日本経済団体連合会会長
(キャノン)の御手洗冨士夫さん(蒲江出身)。

実業家ではキャノン創業者の御手洗 毅さん(蒲江出身)
や小野田セメントの安藤豊禄さん(宇目出身)を良く
耳にしました。

二人とも菩提寺が臨済宗妙心寺派なので
菩提寺の和尚さんから話しを聞く機会がありました。

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我が村にも自慢の方がいますが
村民2.400人の内で知名度があまり
ないのでここにご紹介致します。

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写真の額は観音堂(位牌堂)の正面に掛かっています。

70代の作品 (将允敬書とあります。)


書いた方は「森神紫陽」書家さんです。
出身は佐伯市直川赤木神内です。

佐伯市で最初の日展作家(書)です。

日展作品の3作品を
「佐伯市文化会館・佐伯市役所・直川振興局」に
それぞれ寄贈しています。

・・・でも知名度が今一歩ありません。

そこでこちらを紹介します。

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私たちは金持ちや小金を貯めた人物を、
興味とねたみで噂話を交えて有名人や名士に
仕立てます。

その一方で利害が少ない文化や教育に
あまり興味を持たないのは、今に始まった事では
ないのかも知れません。

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写真の書は、すでに病床にあり、
筆を持つことさえできなかった先生が
「菩提寺の依頼なので書き上げねば」と
無理をして書かれたものです。

出来上がって受け取りに行くと奥さまが
「いくら菩提寺の和尚さんの頼みでも
先生もどうかしています」と少し不機嫌で応対された
事を思い出します。
※本当に申し訳なかったと思っています。
右の落款は先生が亡くなったと奥さまに頂きました。

先生の絶筆(92才の作)となった正定寺玄関正面の書


この書を見たお弟子さん達が
「字は力がなくて少し寂しいけども、最後の作品がお寺さんにあって本当に良かった」と涙ぐんでいました。

お弟子さんのお一人が寺報に投稿しています。

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最後までお金や欲とは無縁で、飄々として
生まれた郷土を愛して、先祖が眠る菩提寺を想い
93才で逝かれました。

先生とお目にかかる度に
「直川の村長さんから米寿のお祝いを頂きました」と
うれしそうに話していました。

後に漢詩や古書を読むのが好きだった、
故小野春雄村長の粋なはからいだったと伺いました。


平成20年に遷化した二人の老師

2013年05月04日 | 日記
佐伯の養賢寺専門道場の師家
安藤秀峰老師(黄龍窟)は昭和22年生まれ

黄龍窟筆「櫛栗横担不顧人 直入千峰万峰去」


京都の相国寺専門道場の師家
田中芳州老師(拈華室)は昭和24年生まれ

拈華室筆「山水有清音」



二人の老師は同じ平成20年(2008)に遷化(亡くなる)したと
記憶しています。

平成8年頃、梶谷宗忍老大師(止止庵)の生家がある
佐伯市蒲江の西野浦で止止庵老師の一周忌に合わせた
分骨法要がありました。

その導師を拈華室老師が勤められ、
その夜は別府で一泊した想いでがあります。
こちら

平成20年は黄龍窟老大師が60才・拈華室老大師は58才。

二人の遷化した年齢に私も近づいて来ました。

但し、近づいたのは年齢だけですが・・・。


見るより聞くも良いと思いました。

2013年05月03日 | 日記
老眼が進み、パソコン・本を読む・車の運転と
用途に合わせてメガネも取り替えるようになりました。

乱視も加わり、年齢とともに「見る」と言う行為が
実に面倒になりました。

本を読むとメガネを掛けていても、
疲れます。

パソコンも徐々に度の強いメガネに
なってきました。

隠居したので少しは勉強しようと思い、



を買って、化学治療の間に読もうとメガネ持参で
ベットに横になり開いて読み始めました。

本の「内容の難しさと字の小ささ」で
10分読んだら休憩。又10分読んだら休憩

看護師さんとたまに会話をしないと
治療がつらくなるので、本を読む間に
20分会話。本を読んで又会話。

「無分別なる分別」などと訳の分からぬ
文脈が続くと目が悪くなるより、
病気が悪化するのではと心配で本を開くのを
諦めました。

でも、人間は懲りないものですね。

読むのがだめなら、これしかないと



CDを購入して行き帰りの車で女房と一緒に
聞くことにしました。

見るより聞くも良いと思いました。

施煙(せえん)

2013年05月02日 | 日記
大きな行事や法要には、近隣の和尚さんが手伝いに
来てくれます。

車もない時代は、数日間泊まりがけで手伝いに
来てくれていました。

たばこを吸う和尚さんもいるので
各部屋には「煙草盆(莨盆)」が置かれていました。

今は倉庫の棚に眠る「煙草盆」



四角い灰のところに炭火が入っていて
竹筒は灰皿です。
キセル用なので煙草は刻みタバコだと思います。

このように手伝っていただく和尚さん方に
煙草でもてなしをしました。
これを「施煙」と言っていました。

私が戻った30年前はフィルター付きの煙草を1カートンずつ
和尚さんの控え室に置いていました。

施煙・・「煙を施す」情緒がある言葉ですが、今では
いかにも健康を害するネーミングとなってしまいました。

このタバコですが、昔は貴重なものでお酒と同様に、
接待などでは欠かせないものだったのかも知れません。

正定寺に存る160年ほど前(嘉永年間)に記録された
年中行事記録には、お歳暮(歳尾)にタバコ(莨)を
1斤(600グラム)今だとタバコ30箱ほどを
「岸の上」という集落の庄屋エ届ける旨が記されています。



庄屋さんや寺社奉行への進物も年中行事帳には
記されています。






昔は筆で今パソコン

2013年05月01日 | 日記
寺院には「過去帳」というものがあります。
過去帳には檀家さんの戒名・命日・続柄・地域などが
記されています。

正定寺の古い過去帳は340年ほど前から
代々の和尚さんが筆書きして保管されています。
現在も変わりません。

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過去帳とは別に「現在帳」というものがあります。

この「現在帳」というネーミングは最近のものだと
思いますがようするに「檀信徒名簿」の事です。


会社で言う「顧客名簿・会員名簿」というものかも知れません。

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正定寺には、
「檀中名竒(檀家の皆さんの名前を寄せた一覧)」
「結社帳(正定寺を支える会員帳)」などと言う表題で残っています。





中は筆書きされた氏名が載っています。
いずれも江戸末期から明治初期に直川に居た
方々です。







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150年前と今では地域環境も違って、中には近隣の寺院へ
移り変わった檀家の方々もいます。

正定寺から他の寺院へ、又他の寺院から正定寺へと
明治の初期はこのような資料がたくさん残っています。



この名簿も「これより前は離檀」と書かれ正定寺の檀家さんが
他の寺院へ移った事が記されています。

明治以前は、菩提寺を変えるには、役所への手続きが必要でした。

明治になると役所への届け出がいらなくなったので
菩提寺や宗旨を変える事が容易になりました。

今風だと「規制緩和」でしょうか?

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有り難いことに、正定寺では菩提寺への
信仰を規制と思った方々は少なかったようです。

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これは明治以前の檀家さんがお寺を変わるときに
役所に提出していた「払い手形」です。



詳しくは正定寺ホームページのここからどうぞ

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現在正定寺では、この「現在帳(檀家名簿)」はパソコン
での管理になっています。

昔の和尚さんが見たら驚くでしょうね。

檀家名簿は本山へ届けて、役員などは
毎年所轄庁に届けでる事になっています。

名簿に限らず収支決算書や財産目録
など普段お寺で常備しているものを
所轄庁に提出します。

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宗教法人の中には反社会的活動や宗教教義と称して
悪さをするヤカラもいますので少々厳しく取り締まるのも
良いのかも知れません。

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古くなったら捨てる

2013年04月30日 | 日記
新命(息子)が戻り、部屋が手狭にになったので、
女房の若い頃着ていた服や小さくなった服を
リサイクルショップに買い取って
もらう事にしました。


捨てないで大切にしていた服を数個の衣裳ケースに収めて、
娘に教わった大分市のリサイクルショップへ出かけました。


一番高く買い取ってもらったのが、息子が中学生時代に
かぶっていた「ジャイアンツの野球帽」でした。


洋服のほとんどが一着1円での買い取りで、
長年愛着して捨てられずにいた服は、
1.400円ほどになりました。


女房と二人で「1着1円か~」と笑いながら
明細書を見ていました。


それでも「1.400円は拾えないからね」と
女房はゴミに出さずにリサイクルショップを
利用できたことに満足したようすでした。

お寺にも長年使われなくて、
現在では利用しないモノがあります。


これは道中駕籠です。



ゴミだらけで駕籠には見えません。

中もぼろぼろになっています。



このぼろぼろになった姿を見た檀家さんが
修理に名乗り出てくれました。

そして





立派に修復されて帰って来ました。


以前、私が壊れて使い物にならないお盆を
捨てようとしていた時のはなしですが
先住(父親)がそばに来て、

父「何をしてるんだ」
私「このお盆は割れていて使い物にならないから捨てます」
父「親も盆も一緒だな」
私「どうして」
父「使い物にならなくなったら捨てられる」
私「・・・・」

それから、父親の前ではなかなかモノを
捨てられなくなりました。

「もったいない」の言葉を伝えるには
実に生々しくパンチの効いた言い方を
父はするもんだと思いました。


父は7年前に亡くなりましたが、
使い物にならなかった「道中駕籠」は
約100年ぶりに晋山式の行列で披露されました。

新命の同級生が担いでくれた駕籠を見て
父も孫の晋山式を喜んだと思います。





知らない間の出来事

2013年04月29日 | 日記
本堂の玄関を上がると右手に
正定寺の役員名簿の額があります。



総代さんや世話人さんと女性部・青壮年部の役員さんなどの
名前が堂々と書き出されています。
これを「衆名単・衆名員」と名付けています。

元々は和尚さんの名前を記すものですが
裏方でお寺を支えてる役員さんを多くの檀家さんに
知ってもらいたくて、今から20年ほど前に作りました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

この額に名前がある総代さんは「檀信徒総会」で選出されます。

世話人さんは、それぞれの小字地域から檀家さんが選びます。
年齢や回り番で順番を決めているところが多いようです。

女性部の役員さんは「女性部総会」で選出されます。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

先日、タケノコを掘りに来た青壮年部顧問さんが
「どうも青壮年部役員の選任方法がはっきりしない」と
言い出しました。


「私を含めて青壮年部は、和尚にだまされてうやむやの内に選任された」
と思い違いをしているようです。

そこでどのようにして選定されたかを発表します。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

青壮年部の役員は過去に花園会役員の経験を
なさった方の中から和尚がランダムで
お願いしています。

※何故、花園会役員になったかは詮索しないでください。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

青壮年部の役員は家族の戒名・命日は勿論のこと
正定寺の宗旨から組織に至るまで充分心得ている方々です。

会議などで青壮年部の皆さんが本堂に上がってくる
姿からして、お寺に無関心な若者と既に違っています。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

彼ら青壮年部がいずれ、寺院に無関心な若者達を
仏さまの教えに導いて下さる方々です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これが選出の方法と選出理由です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ランダムとは、「閑栖和尚の好みでお寺に向きが良い人」を無理矢理
お願いすることです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「衆名単・衆名員」は、元々はこのように、
受戒や寺院行事に参加した和尚さんの
名を記して残すものです。











正定寺の誕生

2013年04月28日 | 日記
お寺にはご開山さんやご開基さんが
おられます。

ご開山さんは、初代の和尚さんで
そのお寺を開いた(開創)方です。

ご開基さんは、お寺を作る(建立)ために
私財を投じて寄与した方です。

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私たちのご本山である>京都妙心寺
ご開山さんは
無相大師さま」です。
ご開基さんは
花園法皇さま」です。

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正定寺の
ご開山さんは「利翁益公禅師」と言うお方です。

利翁益公大和尚は延徳2年(1490)に現在の徳島県で
生まれて鎌倉の建長寺で長く修行して33才の
大永3年(1523)に正定寺を開創しました。

利翁益公禅師の木像



利翁益公禅師のお墓



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正定寺の
ご開基さんは「 春山源右ヱ門 」と言うお方です。

春山源右ヱ門さんは現在の佐伯市直川赤木の
生まれで「赤木殿」と言われる豪族だったそうです。

平成24年に修理されたご開基さんのお位牌



春山源右ヱ門さんのお墓(宝篋印塔)
この塔は赤木中津留にあったものを
昭和4年に正定寺の祖師墓地に移転したものです。



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正定寺歴代の和尚さんはこちらからどうぞ。

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立派な和尚さんと篤志の檀家さんで
お寺が誕生します。

佐伯の「養賢寺」では
ご開山さんは「大観慈光禅師」と
諡号された三関宗要和尚さんです。

ご開基さんは
佐伯藩主の「毛利高政公」です。

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因みに、お坊さんと私財を投じる方の二人が揃えば、
お寺の「ご開山さんとご開基さん」が誕生することに
なりますが、
そこには「立派な和尚さんと立派な檀那さん」の
条件が必要のようです。

佐伯市の臨済宗妙心寺派のご開山さんは
こちらからご覧下さい。



知っているようで知らない菩提寺の風景

2013年04月27日 | 日記
境内のあちこちに石像の仏さまが
おられます。

このお地蔵さまは「目開き地蔵」と言います。
山門をくぐった右手に立っています。
この立像のお地蔵さんは佐伯町の赤岩又三さんが彫ったと
書いています。



一般的にはお地蔵さんは目を閉じています。

しかし、このお地蔵さんは違います。
目が開いているので、闇夜も見えて
夜な夜な境内をピョコピョコ飛び跳ねていると
昔の方は思っていたようです。

この話は、柚の原で育った「林嘉二郎さん」のご子息から
お聞きした話しです。
仁田原の80才以上の方は、「目開き地蔵」の
噂を知っているかも知れません。

昭和初期の子供達は
「正定寺の夜は、目が光るお地蔵さまが飛びはねている」と
噂して、暗くなってからは正定寺には、
絶対行きたくないと思っていたそうです。


父親の使いで暗くなった石段を登って正定寺へ行くときは
山門をくぐると一目散に玄関のベルを鳴らしたと「林嘉二郎さん」のご子息が
言っていました。

そのことを本人が寺報にも投稿しています。

その「夜な夜な歩くお地蔵さん」の横に
「善光寺如来」があります。



中央の後光(光背)があるのが阿弥陀さま、両脇に観音菩薩と勢至菩薩を一枚岩に
彫り込んだものです。

江戸の後期に作られたもので、石工の名も彫られています。
天保6年4月15日に横川村の石工 弥平さんが彫ったと書いています。

その他にも座像のお地蔵さん



この座像のお地蔵さんは肥後熊本の瑞祥寺というお寺のお弟子さんで
玄禮さんと言う方が建立したと書いています。


等身大よりも大きな立像のお地蔵さん




40才代以下の檀家さんで、
正定寺に石段の参道があることを
知らない方もたくさんいます。

石段を登り山門をくぐるとすぐにお地蔵さんに会えますが、
案外知っていて知らないのが菩提寺なのかも知れません。





随分頂きました

2013年04月26日 | 日記
蒲江町畑野浦に福泉寺という妙心寺派の
お寺があります。

84・5才の閑栖さんは、若いころから陶芸を
されていて本格的に登り窯を作り50年にわたり
福泉寺窯として陶器を作成してきました。





窯を開ければ電話があり、好きなのを持って
行きなさいといってくれます。

遠慮を知らない私は欲にかられて
たくさん頂きます。

昨年も頂きました。

展示された部屋には、見事な品が並んでいます。







正定寺で使っている抹茶茶碗は全て福泉寺窯作です。

有り難いものです。



記録で分かる歴史

2013年04月25日 | 日記
寺院に保管されている古い和綴じ本は、
高僧の言葉が記されている語録や
法要などの手引きが記されたものなどがあります。

正定寺でも蔵の奥に時代やけした何冊もの
和綴本があります。

中には重ねていたせいで、板木のようになっている
本もあります。

一般の方が耳にする「過去帳」なども和綴じで
保管されています。

過去帳には、亡くなった順に戒名や命日・氏名・続柄などが
記されています。
明治以前は苗字が記されていません。

檀家さんの中には「家のご先祖を調べてください」と
簡単に依頼してくる方がありますが、数百年前にさかのぼる
過去帳から、依頼者のご先祖様だけを検索する事は
なかなか難しい作業です。

検索ソートするには、実家の仏壇にお祀りしている
ご先祖さまの命日・戒名が必ず必要になります。

江戸時代は苗字が無いので、命日と戒名で探すしか
手がありません。

この写真は末庵(正定寺を本寺として統制管理されている寺)の
記録です。
江戸末期から明治にいたる資料です。



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寺の広さは10坪で
仁田原大鶴にある長原庵は
誰がいつ頃建てたか詳細は分かりません。

今は
慧竺という僧が住んでいます。

慧竺和尚は57才で佐伯藩横川村の
森河善佑さんの次男です。

1857年12月に正定寺で得度して
お坊さんになりました。
1861年10月に長原庵の住職になりました。

と書いてあります。
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この「長原庵」は現在ありません。
大鶴から川沿いに黒岩にいたる地域を「長原」と言いました。
民家もたくさんあって、昔は神の原から大鶴・仁田原に行く幹線だったと
聞きます。

この「長原庵」は大鶴の「延命庵」と合祀(合併)して
現在は大鶴の中心部山手に建立されています。

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下の資料は正定寺が配置した東西南北(四方庵)の
当時の資料です。









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古い記録で分かる歴史があります。

仁田原杭の内に在る「東光庵」には
現在の佐伯市古市生まれの
「佐脇」と言う苗字の全慧和尚という方がいました。
後に苗字を変えて「小原全慧」となりました。


※「佐脇」言う名の檀家さんが
「杭の内」に在りますが、
「東光庵」の庵主さんの末裔(子孫)が
現在お住みの「佐脇さん」では在りません。
又、正定寺の小原姓でも在りません。

現在の「佐脇さん」は、お墓の数や古さで
上記の資料よりはるかに昔から「杭の内」に
すんでいる事が分かります。

「杭の内」は佐伯藩(佐伯惟治時代)の家臣(飛田姓)で
構成された集落とされています。

その佐伯藩家臣の先祖より以前に住んでいた
方が「佐脇家」です。


「○○村農」の「農」は「士農工商」の身分を表して
いるのではないかと思います。

中には「士族」と書かれている方もありますが、
いずれの僧も妻帯(結婚)していないので
末裔(子孫)はいません。

末庵の記事はこちらから見ることができます。

間違っても関係者が士族などと誤解しないで下さい。