千葉市動物公園のカピバラ(千葉県千葉市若葉区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
人間関係が上手くいかない場合、
例外なく言えるのは、「お互いのビジョンが違うか、そもそもどちらかのビジョンがなくなってしまっている」ということです。
恋愛にしろ、仲間にしろ、
「ある人間関係に挫折した」という原因でよく言われるのが
・価値観や性格が違う
・距離感が掴みずらい
・お互いに理解しようという気持ちがない
・誠意や責任感が欠けている
・思いやりや優しさがない
…など。
こんな理由、一度は聞いたことはあると思うんですね。
でも、私に言わせればそんな理由は「頭でっかち」なだけです。
結局、お互いが一致した「幸せな将来像」が描けていれば、
どんな揉め事や障壁があろうと、それを乗り越えるべく、協力的になっていくものです。
反対に、「乗り越えてみせよう」と思えなければ、
どんなに相性が良かろうと、力は出ないもの。
障壁なんてないに越したことはないわけですが、
関係に「限界」を認める場合、結局は「気持ち」の問題でしかないわけです。
たしかに魅力を上げたり、誰かを誘因するための努力は否定しません。
しかし、「好き」や「嫌い」の答えを頭で出そうとすること自体、どこか間違えているとどこかで気付く必要があるわけです。
さて。
「幸せ」って、「この世の中で最も捉え所のないもの」のひとつだと私は思います。
いつどこでどんなものを「幸せ」と認めるかは、
まさに「十人十色」という言葉が表す通りです。
そしてまた、「幸せの形が違う!」者同士がいるから、
誤解や摩擦、争い事が起こるわけです。
私達はつい、人の感情を決め付けてしまうものです。
もちろん人の気持ちを察するのは、人として大切な能力です。
しかし、お互いの幸せの形が一致しない以上、
闇雲にジタバタするよりも、
冷静にお互いにとっての幸せとはなんなのか!?を考え直すこと、描き直すことが肝要であるように私は思います。
お互いにとっての幸せが描ければこそ、
人間関係は前進していきます。
あえて抽象的に綴ったのは、「お互いの幸せを描くことが大切だ」という考え方が、
どんな人間関係にも当てはまることだからです。
どちらかが優勢とか、どちらかが我慢するとか、
そんな人間関係は勿体ないと私は思います。
「出来るだけお互いに幸せになる」という気持ちがあればあるほど、
なにかと穏やかでいられると思いませんか。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
人間関係が上手くいかない場合、
例外なく言えるのは、「お互いのビジョンが違うか、そもそもどちらかのビジョンがなくなってしまっている」ということです。
恋愛にしろ、仲間にしろ、
「ある人間関係に挫折した」という原因でよく言われるのが
・価値観や性格が違う
・距離感が掴みずらい
・お互いに理解しようという気持ちがない
・誠意や責任感が欠けている
・思いやりや優しさがない
…など。
こんな理由、一度は聞いたことはあると思うんですね。
でも、私に言わせればそんな理由は「頭でっかち」なだけです。
結局、お互いが一致した「幸せな将来像」が描けていれば、
どんな揉め事や障壁があろうと、それを乗り越えるべく、協力的になっていくものです。
反対に、「乗り越えてみせよう」と思えなければ、
どんなに相性が良かろうと、力は出ないもの。
障壁なんてないに越したことはないわけですが、
関係に「限界」を認める場合、結局は「気持ち」の問題でしかないわけです。
たしかに魅力を上げたり、誰かを誘因するための努力は否定しません。
しかし、「好き」や「嫌い」の答えを頭で出そうとすること自体、どこか間違えているとどこかで気付く必要があるわけです。
さて。
「幸せ」って、「この世の中で最も捉え所のないもの」のひとつだと私は思います。
いつどこでどんなものを「幸せ」と認めるかは、
まさに「十人十色」という言葉が表す通りです。
そしてまた、「幸せの形が違う!」者同士がいるから、
誤解や摩擦、争い事が起こるわけです。
私達はつい、人の感情を決め付けてしまうものです。
もちろん人の気持ちを察するのは、人として大切な能力です。
しかし、お互いの幸せの形が一致しない以上、
闇雲にジタバタするよりも、
冷静にお互いにとっての幸せとはなんなのか!?を考え直すこと、描き直すことが肝要であるように私は思います。
お互いにとっての幸せが描ければこそ、
人間関係は前進していきます。
あえて抽象的に綴ったのは、「お互いの幸せを描くことが大切だ」という考え方が、
どんな人間関係にも当てはまることだからです。
どちらかが優勢とか、どちらかが我慢するとか、
そんな人間関係は勿体ないと私は思います。
「出来るだけお互いに幸せになる」という気持ちがあればあるほど、
なにかと穏やかでいられると思いませんか。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
今日は一日遅く「勤労感謝の日」をいただいています。
二度寝なんて律儀なコトはせず、お昼過ぎまで何度睡魔にやられたか(笑)
そんなクダラナい話はさておき、
うーん、最近どうも気が晴れず、不穏当なコトが多いので、
神社や仏閣で身を浄めたい、という感じです。
今日は一人、心を落ち着けることをモットーにしようと思います。
今日も皆さん、ありがとうございます。
今日は一日遅く「勤労感謝の日」をいただいています。
二度寝なんて律儀なコトはせず、お昼過ぎまで何度睡魔にやられたか(笑)
そんなクダラナい話はさておき、
うーん、最近どうも気が晴れず、不穏当なコトが多いので、
神社や仏閣で身を浄めたい、という感じです。
今日は一人、心を落ち着けることをモットーにしようと思います。
幕張テクノガーデン(千葉県千葉市美浜区)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
「なるべくなら欠点が少なく魅力が多い、ステキな人間になりたい」と思うのは、
多かれ少なかれ、人間として誰もが持っている気持ちです。
誰かに笑顔になってもらいたい。
人を傷つけたくない。
祭り上げられたい。
褒められたり大切にされたい。
自分を尊重してほしい。
こういう気持ちがあってこそ成長があるのなら、
そんな自分を恥ずかしく思ったりするのもまた、考えものです。
さて。
短所を治したい、克服したいという場合、
「その短所が長所に変わることもあるんだから、活かす方法を考えましょう」とするアドバイスが散見されます。
しかし私は、あまり現実的とは思えません。
「関わる人間が変わる」など、環境が変わった時にこそ、ネックになっていた性格が重宝されるというもの。
逆に言えば、その環境に相応しくない性格だからこそ、
「短所を肯定する」といった考えが難しくなるのです。
だいたいの話、
「粗野粗暴で挨拶が出来ず、身なりもいい加減」
「人の痛みが少しわからないし、わかろうともしない」
こんな「社会的に生きていく上で、人として決定的に欠けているもの」があるなら、
「長所として捉え直す」などという悠長なことをやっているうちに、
「本人の評価が下がり、また人も傷ついていく」という、
誰も得しない構図が出来上がってしまうのです。
あるいはまた、「理想に合う自分」にそぐわない短所があるのなら、
放置すればするほどフラストレーションが溜まるのは、ごく当然のこと。
こういうわけで、克服し得る短所があるのなら、
それはもう、治すに越したことはないのです。
さて。
問題は、短所を克服する考え方です。
「人の短所」は、発見方法と克服方法が真逆なのです。
「出来ないこと」に着目しつつ、「出来る」ようにしていくには、
どうしたって、「出来ているところ」だって認めていかなければならないからです。
たとえば、赤ちゃんが立って歩けるようになるには、
まず「ハイハイ」をして、
次になんとか立てるようになり、
そして、はじめてたどたどしくも一生懸命に歩く、
こんな過程をたどるわけですよね。
そうであれば、「段々と立てるようになる」ことを、
「短所の克服」に当てはめて考えるのです。
99%のできなかったことよりも、
1%のできたことに注目する。
そして、その1%を育てて2%、5%、10%…と押し広げる考え方が重要なのです。
「できている部分」だけを見ていては、成長はありません。
しかし、「できていない部分」だけを見ていても、
なんにも積み重ねられるものはありません。
誰かからの要求水準に応えようと、つい「減点」のやり方で見てしまうのが、
私達の弱さであり、また愛らしさでもあります。
人間の短所の克服にはなにが大切か、ここを読んだ皆さんに考えていただければと思います。
こんにちは。
今日もありがとうございます。
「なるべくなら欠点が少なく魅力が多い、ステキな人間になりたい」と思うのは、
多かれ少なかれ、人間として誰もが持っている気持ちです。
誰かに笑顔になってもらいたい。
人を傷つけたくない。
祭り上げられたい。
褒められたり大切にされたい。
自分を尊重してほしい。
こういう気持ちがあってこそ成長があるのなら、
そんな自分を恥ずかしく思ったりするのもまた、考えものです。
さて。
短所を治したい、克服したいという場合、
「その短所が長所に変わることもあるんだから、活かす方法を考えましょう」とするアドバイスが散見されます。
しかし私は、あまり現実的とは思えません。
「関わる人間が変わる」など、環境が変わった時にこそ、ネックになっていた性格が重宝されるというもの。
逆に言えば、その環境に相応しくない性格だからこそ、
「短所を肯定する」といった考えが難しくなるのです。
だいたいの話、
「粗野粗暴で挨拶が出来ず、身なりもいい加減」
「人の痛みが少しわからないし、わかろうともしない」
こんな「社会的に生きていく上で、人として決定的に欠けているもの」があるなら、
「長所として捉え直す」などという悠長なことをやっているうちに、
「本人の評価が下がり、また人も傷ついていく」という、
誰も得しない構図が出来上がってしまうのです。
あるいはまた、「理想に合う自分」にそぐわない短所があるのなら、
放置すればするほどフラストレーションが溜まるのは、ごく当然のこと。
こういうわけで、克服し得る短所があるのなら、
それはもう、治すに越したことはないのです。
さて。
問題は、短所を克服する考え方です。
「人の短所」は、発見方法と克服方法が真逆なのです。
「出来ないこと」に着目しつつ、「出来る」ようにしていくには、
どうしたって、「出来ているところ」だって認めていかなければならないからです。
たとえば、赤ちゃんが立って歩けるようになるには、
まず「ハイハイ」をして、
次になんとか立てるようになり、
そして、はじめてたどたどしくも一生懸命に歩く、
こんな過程をたどるわけですよね。
そうであれば、「段々と立てるようになる」ことを、
「短所の克服」に当てはめて考えるのです。
99%のできなかったことよりも、
1%のできたことに注目する。
そして、その1%を育てて2%、5%、10%…と押し広げる考え方が重要なのです。
「できている部分」だけを見ていては、成長はありません。
しかし、「できていない部分」だけを見ていても、
なんにも積み重ねられるものはありません。
誰かからの要求水準に応えようと、つい「減点」のやり方で見てしまうのが、
私達の弱さであり、また愛らしさでもあります。
人間の短所の克服にはなにが大切か、ここを読んだ皆さんに考えていただければと思います。