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青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

幸せの形はいくつですか!?

2010年11月24日 17時23分09秒 | 青裸々日記。
千葉市動物公園のカピバラ(千葉県千葉市若葉区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 人間関係が上手くいかない場合、
 例外なく言えるのは、「お互いのビジョンが違うか、そもそもどちらかのビジョンがなくなってしまっている」ということです。

 恋愛にしろ、仲間にしろ、
 「ある人間関係に挫折した」という原因でよく言われるのが
 ・価値観や性格が違う
 ・距離感が掴みずらい
 ・お互いに理解しようという気持ちがない
 ・誠意や責任感が欠けている
 ・思いやりや優しさがない
 …など。
 こんな理由、一度は聞いたことはあると思うんですね。

 でも、私に言わせればそんな理由は「頭でっかち」なだけです。
 結局、お互いが一致した「幸せな将来像」が描けていれば、
 どんな揉め事や障壁があろうと、それを乗り越えるべく、協力的になっていくものです。
 反対に、「乗り越えてみせよう」と思えなければ、
 どんなに相性が良かろうと、力は出ないもの。
 障壁なんてないに越したことはないわけですが、
 関係に「限界」を認める場合、結局は「気持ち」の問題でしかないわけです。
 たしかに魅力を上げたり、誰かを誘因するための努力は否定しません。
 しかし、「好き」や「嫌い」の答えを頭で出そうとすること自体、どこか間違えているとどこかで気付く必要があるわけです。


 さて。

 「幸せ」って、「この世の中で最も捉え所のないもの」のひとつだと私は思います。
 いつどこでどんなものを「幸せ」と認めるかは、
 まさに「十人十色」という言葉が表す通りです。
 そしてまた、「幸せの形が違う!」者同士がいるから、
 誤解や摩擦、争い事が起こるわけです。


 私達はつい、人の感情を決め付けてしまうものです。
 もちろん人の気持ちを察するのは、人として大切な能力です。
 しかし、お互いの幸せの形が一致しない以上、
 闇雲にジタバタするよりも、
 冷静にお互いにとっての幸せとはなんなのか!?を考え直すこと、描き直すことが肝要であるように私は思います。


 お互いにとっての幸せが描ければこそ、
 人間関係は前進していきます。
 あえて抽象的に綴ったのは、「お互いの幸せを描くことが大切だ」という考え方が、
 どんな人間関係にも当てはまることだからです。


 どちらかが優勢とか、どちらかが我慢するとか、
 そんな人間関係は勿体ないと私は思います。
 「出来るだけお互いに幸せになる」という気持ちがあればあるほど、
 なにかと穏やかでいられると思いませんか。

川崎大師

2010年11月24日 16時05分43秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 今日は一日遅く「勤労感謝の日」をいただいています。
 二度寝なんて律儀なコトはせず、お昼過ぎまで何度睡魔にやられたか(笑)
 そんなクダラナい話はさておき、
 うーん、最近どうも気が晴れず、不穏当なコトが多いので、
 神社や仏閣で身を浄めたい、という感じです。

 今日は一人、心を落ち着けることをモットーにしようと思います。

短所の克服方法。

2010年11月24日 13時14分05秒 | 青裸々日記。
幕張テクノガーデン(千葉県千葉市美浜区)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 「なるべくなら欠点が少なく魅力が多い、ステキな人間になりたい」と思うのは、
 多かれ少なかれ、人間として誰もが持っている気持ちです。

 誰かに笑顔になってもらいたい。
 人を傷つけたくない。
 祭り上げられたい。
 褒められたり大切にされたい。
 自分を尊重してほしい。

 こういう気持ちがあってこそ成長があるのなら、
 そんな自分を恥ずかしく思ったりするのもまた、考えものです。


 さて。

 短所を治したい、克服したいという場合、
 「その短所が長所に変わることもあるんだから、活かす方法を考えましょう」とするアドバイスが散見されます。
 しかし私は、あまり現実的とは思えません。
 「関わる人間が変わる」など、環境が変わった時にこそ、ネックになっていた性格が重宝されるというもの。
 逆に言えば、その環境に相応しくない性格だからこそ、
 「短所を肯定する」といった考えが難しくなるのです。
 だいたいの話、
 「粗野粗暴で挨拶が出来ず、身なりもいい加減」
 「人の痛みが少しわからないし、わかろうともしない」
 こんな「社会的に生きていく上で、人として決定的に欠けているもの」があるなら、
 「長所として捉え直す」などという悠長なことをやっているうちに、
 「本人の評価が下がり、また人も傷ついていく」という、
 誰も得しない構図が出来上がってしまうのです。
 あるいはまた、「理想に合う自分」にそぐわない短所があるのなら、
 放置すればするほどフラストレーションが溜まるのは、ごく当然のこと。
 こういうわけで、克服し得る短所があるのなら、
 それはもう、治すに越したことはないのです。


 さて。

 問題は、短所を克服する考え方です。
 「人の短所」は、発見方法と克服方法が真逆なのです。
 「出来ないこと」に着目しつつ、「出来る」ようにしていくには、
 どうしたって、「出来ているところ」だって認めていかなければならないからです。
 たとえば、赤ちゃんが立って歩けるようになるには、
 まず「ハイハイ」をして、
 次になんとか立てるようになり、
 そして、はじめてたどたどしくも一生懸命に歩く、
 こんな過程をたどるわけですよね。
 そうであれば、「段々と立てるようになる」ことを、
 「短所の克服」に当てはめて考えるのです。
 99%のできなかったことよりも、
 1%のできたことに注目する。
 そして、その1%を育てて2%、5%、10%…と押し広げる考え方が重要なのです。

 「できている部分」だけを見ていては、成長はありません。
 しかし、「できていない部分」だけを見ていても、
 なんにも積み重ねられるものはありません。

 誰かからの要求水準に応えようと、つい「減点」のやり方で見てしまうのが、
 私達の弱さであり、また愛らしさでもあります。
 人間の短所の克服にはなにが大切か、ここを読んだ皆さんに考えていただければと思います。

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