青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

傷が癒えるとき。

2013年01月31日 23時01分52秒 | 青裸々日記。
新宿サザンテラスから(老京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「人間は、だいたいなんらかのトラウマを抱えて生きているもの」と考えると、
 自己解決する場合でも、人にアドバイスする場合でも、有効なことが多いものです。


 人間の悩みには、同じパターンが隠れている場合がほとんどです。
 たとえば、過去、困ったことを見ると、
 「なぜかいつも人に裏切られる」とか、「なぜか自分は利用されてばかりだ」などと、
 「起きていることは様々でも、どうも本質や傾向が似通っているなぁということ、人によっては、あると思うのですね。

 ということは、「環境や登場人物が違っても、起きる問題は似ている」という場合、
 自分の軸や態度がどんな傾向にあるか考えてみると、意外と簡単に解決してしまうものなのです。


 これは極端な例かもしれませんが、相手がどんなに親切で優しく、誠実であっても、
 会う人会う人に「このバカヤロウ」と言えば、明らかにみんな、離れていきますよね(笑)
 つまり、相手がどうであれ、「同じ態度(=「バカヤロウ」と言う)」を取り続けるから、「同じ問題や現象(=人が離れる)」が顕れてくる、ということになる、
 こんなことも、言えるのですね。
 もちろんこれは、「明らかに問題のある態度を取る側」がいけないのですが、
 逆もまたしかりで、会う人会う人に「親切で優しく、誠実な態度」でいれば、「放っておいても、人を引き寄せられる」ということにもなります。



 同じような問題が起きたり、同じような態度を取られてしまう時。
 それは、自分のトラウマに気付き、癒したり解消するのに、ちょうどいい時ということにもなります。


 嫌なこと、嫌な感情が繰り返し顕れるというのは、
 なぜか同じ場所が痛むと思って見たら、そこに擦り傷があったことがわかることと似ています。
 そう、つまり、「なんでこんな繰り返しが…」というのは、
 「もう少しでも、楽にできる方法、幸せになれる道があるんじゃない?」と、自分で気付くきっかけになるという側面もあるのです。


 心の傷は、見えません
 だからこそ、めちゃくちゃ痛んで、そこに擦り傷があったことがわかる…というように、
 気付くまで、なかなか時間がかかってしまうこともあると思います

 そのために、普段、どういう感情を感じやすいかという目で自分や他人を見てみると、
 見方や接し方そのものが、変わっていくこともあるのです



 同じ痛みとわかった時、傷は癒され始めるのかもしれません。
 苦しみは、長く続くとは限らないのです。

幸せの黄色い電車

2013年01月31日 06時40分01秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 コチラは新幹線の保守車両です。
 「ドクターイエロー」と呼ばれ、見かけるといいことがあるとかなんとか…


 私は去年、何にも知らずに名古屋で見かけたのですが、
 つくづく私は幸運体質なのかもしれないと思ったのでした。

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やる気を捨てる時。

2013年01月30日 23時17分51秒 | 青裸々日記。
水仙の花(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「やる気」が重んじられる世の中です。

 どんなことでも、意志や意欲を保つことが、成功には不可欠です。
 なぜなら、すべてがうまくいくことなんて、まずありえないからです。
 簡単なこと、単純なこと、レベルの低いことだけで済まされればよいのですが、
 現実には、成功までに難しいこと、複雑なことが待ち受けていることがほとんどです。
 あるいは、持続力が必要なこともあるでしょう。

 具体的な例を出すと、作曲をしているとします。
 曲の形にするには、メロディーとハーモニー、そしてリズムを決める必要がありますが、
 聞き応えのあるもの、より良いものを書こうと思えばこそ、
 それぞれに工夫を加えるわけですよね。
 しかし、一曲書き上げるまでには、思い付きだけではどうにもならないことがあります。
 あるいは、閃いたものを、すべて取りこぼしのないように音符として楽譜に書き続けるのは、
 並大抵の気力で出来ることではありません。
 つまり、いい曲の裏には、必ずアイデア力か持続力、集中力が働いている、
 こんなことが、言えると思うのですね。


 この話、余力や勢い、意欲が有り余っている状態で読めば、バカバカしいほど、簡単なことかもしれません。
 しかし、疲れきっていたり、意欲が調っていない時は、とてつもなくしんどい話に聞こえるはずなんです
 (だから、そういう皆様、ごめんなさいね)。


 やる気がないというのは、だいたい悪く語られがち。
 しかし、どんなエネルギーも有限な以上、意欲やモチベーションだって、どんなにたくさんあっても、尽きてしまうことはあるのです。


 さて、そんな「やる気が欲しいけど、使い果たしてしまった」という時です。
 「疲れる」というのは、突き詰めて言えば、「自分の純粋な意欲以上に求められる」ことで起こります。
 たとえば、5km走りたい人は、1kmでも楽しく頑張れますが、
 これが10kmともなると、5kmも多く走らなくちゃいけないので、そこに疲れを感じるわけです。
 「余計に頑張らなければいけない」、そう、疲れと義務感は、必ずセットになってやってくるものではないでしょうか



 ということは、疲れを癒すには、この逆を考えればいいわけです。
 「疲れ」の根源が義務感なら、その義務感をなくしていけばいい
 /U>あるいは、「義務感に追いまくられていたんだ」と気付くだけでも、癒しが得られるかもしれません。



 「疲れる時=心が理性に負けている時」です
 そもそも、純粋な意欲は、自由な発想から生まれます
 ということは、形に囚われ、窮屈な発想でいると、いつまでも義務感の奴隷になり、
 意欲が息を吹き返す機会が減ってしまいはしないでしょうか



 わかります、義務感がいかに辛いかということを。
 でも、だからこそ、ちょっとでいいですから、「やる気ない」とか「疲れた」などと、
 「本音」や「自由」を感じる時間も、「やる気」と同じく大切にしていただきたいのです。

スピリチュアリズム。

2013年01月29日 22時38分19秒 | 青裸々日記。
和田倉公園から(東京都千代田区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 精神世界、かみ砕いて言えばスピリチュアルな考え方が、ここ数年で流行りだしました。
 科学で証明しきれないものを、何か霊的なものが作用して働いているかのように説明がなされ、
 だからこそ、その霊的なものと上手く付き合っていきましょう…というのが、だいたいの要旨です。


 しかしこれ、盲目的に信じるとか、精神世界のことに全てを入れ込むのは、いささか危険な気がします。

 目に見えないことでも、信じれば救われたり、幸せになったりできることは、たしかにあるでしょう。
 たとえば、宗教では、科学的には不可解なことが語られたりします。
 しかし、そこで信仰をするから、正しい道を歩いたり、人に優しくできたり、真面目に生きる素晴らしさがわかったり、
 つまり、たとえ科学的な裏付けがなくても、宗教は人に多くの幸せをもたらしてきたのは事実ですよね。
 だから、究極的には、「本人が幸せになれるかどうかは、科学的な裏付けの有無は、実はあんまり関係ない」ということが、言えると思うのです。


 さて。

 これ、逆のことも言えなくはないですか。
 科学的にどうなのかは、幸せにはさほど問題でないことがわかりました。
 しかし、だからこそ、人を傷つけたり、「幸せ」を破壊するような考え方は、厳に慎むべきではないでしょうか。


 たまに、「スピリチュアル的にはいいことだから」と、現実に適応できなくなってしまったり、
 そうでなくても、人との意思のやり取りが上手くできなくなってしまう人がいます。
 しかし、本来、精神的だろうとなんだろうと、それは幸せになるためにやっていることで、
 目の前にある、与えられた幸せや恵み、豊かさを壊すようなら、果たしてそれはなんのための「精神世界」なんだろうかと思います。

 自分の世界なり、価値観なりは、それはそれで、個人の自由だし、大切にしたほうがいいものです
 しかし、現実を壊すのは、結局は「精神世界」で言うところの「恩恵」なりを壊すことと同義で、
 本質的には、全然「スピリチュアル」ではないのです



 どうやったら、幸せになれるか。
 それは個人の自由ですが、人のテリトリーに踏み込むのは、結果として誰も幸せにはなれません。


 自分の世界は、賢く強く、しなやかに深めましょう。

大井車両基地から

2013年01月29日 06時24分28秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 先日、大井埠頭にある、新幹線の車両基地に行ってきました。

 私は新幹線が大好きで、子供みたいにはしゃいで撮っていました(笑)
 たまに行きたくなるスポットのひとつです。


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北風と太陽。

2013年01月28日 23時26分08秒 | 青裸々日記。
夕陽(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「北風と太陽」という話、皆さんはご存じですか!?


 北風と太陽が、何に血迷ったのか旅人の服を脱がせる競争を始めて、
 力付くの北風より、ニコニコした太陽が勝った、
 だから、強引なやり方は良くないんだよー、っていうストーリーですよね。


 でもこれ、私の解釈は、ちょっとだけ違うんです。

 太陽って、照らす面積が非常に大きいじゃないですか。
 だから、どれぐらい光を浴びようか、自分で決められたりしますよね
 好きなだけ受け取っていいよ…というのが、太陽のやり方なわけです。

 一方、北風は、吹く面積は狭い上に、力付くですから、太陽のように、日傘や日陰など、簡単に防ぐ手段もない。
 つまり、押し付けがましいのが、北風の特徴です


 さて。

 皆さんは、北風のようなやり方で、無理をしたり、自分を強く見せて偽ったりして、人間関係を営むほうですか。
 それとも、太陽のように、自然体でいて、相手に受け取り方を委ねるほうですか。


 私は太陽のやり方が好きなので、太陽を贔屓した書き方になってしまいましたが、
 だいたい、わかりますよね(笑)
 力付くがいかにいけないかというのは、本当は物語の「効率」という意味だけでなく、
 「相手を尊重する」という側面も強いのです。
 「北風と太陽」という名前が示しているように、この話は「冷たい/あったかい」の二面性で語られがちですが、
 本当は、「相手を力付くで動かす/相手の自由を尊重する」という、別な見方もできるのです。



 人と接する時は、必ずこの「太陽」のようにありたいものです。
 もちろん、人に対してあたたかくするのは基本です。
 しかし、その意図は必ずしも伝わるとは限らないのが、この世の中でもあります。
 そんなとき、北風のように「力付く方式」に豹変するのではなく、あくまでもさんさんと輝く太陽を続けていかれるか
 ここが、重要になるのですね。
 そしてまた、自由を認めているので、無理矢理受け取らされるより、お互い何倍も幸せになれるのです


 力付くで解決する問題は少なく、また限界もあると思います
 しかし、ゆったりじわ~っと解決していくと、いい意味での転びも起きてくるもの
 なぜなら、人は、尊重されてはじめて、動く生き物だからです


 嘘だと思ったら、両方やってみればいい。
 いかに太陽でいたほうが、自分も人も、ラクに幸せにできるかがわかるはずです。

久々の加工画像

2013年01月28日 10時08分41秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 久しぶりに、加工したものを載せてみます。

 昨日とほぼ同じものに、色調をいじってダイナミックに仕立てました。
 壁紙や素材にでもどうぞ(^^)/

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リラックス。

2013年01月27日 23時58分27秒 | 青裸々日記。
アロエの花(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 基本的に、何事も抜ける力は抜いておくことに尽きます。

 こう言うと、かなり不真面目な感じがするでしょうし、また、力を抜きたくても抜けない状況の人からは、お叱りを受けてしまうかもしれません。


 それでは、どうして力を抜くといいのか、試してみましょうか。
 ペンで字を書くでも、ケータイで文字を打つでもいいですが、一回ずつ力を込めて字を書き進めても、普通は疲れるだけですよね。
 書き進めるスピードは遅くなって、でも、その割には綺麗に書けるわけでも、上手なことを思い付くわけでもないと思います。
 リラックスするから、指の滑りがなめらかになり、上手に早く書けるんですよね。
 だから、力を入れるメリットなんて、実はあんまり、ないわけです。


 早さを求めるなら、緊張はご法度です
 もちろん世の中、早さだけでなく、正確さや丁寧さ、優しさが求められることがほとんどで、
 だからこそ、リラックスをしたほうがいいとわかっていても、現実にはなかなか難しいのでしょう。


 しかし。

 リラックスすることで、力のバランスを整え余力を捻出できることは事実です。
 むしろ、力を出すから、流れが詰まる側面はないでしょうか。
 力を抜くから、エネルギーの詰まりがなくなり、
 軽やかに早く、色々と物事をこなせるようになっていく
 これは、何に関しても言えることだと思うのですね。



 頑張りは大切です。

 でも、頑張りは硬直を生み、その硬直が良い方向に作用することが一体どれだけあるのかは、はたして疑問です。
 それに、「頑張ったら上手くいく」というのなら、
 成功者と呼ばれる人達は、押しなべて、みんな頑張り過ぎで体調に障害をきたしていなければおかしいことになってしまいます。
 「頑張らない人に成功はない」と言って煽るのは簡単ですが、
 頑張ることが成功を阻害する要因になることも、知っておく価値があるのではないでしょうか



 リラックス、ゆるゆる感もたまには味方になること、
 私達は、この現実を、もう少し知っておく必要がある気がします

 力を入れるのではなく、力を抜くことで得られることもあるのです


 「力を入れる」話は聞きますが、「力を抜くこと」を称賛する話は、意外に少ないもの。
 リラックスの効用を知るためにも、気を抜ける場面は、積極的に気を抜く考えがあってもいいのです。

黄金

2013年01月27日 11時26分06秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 雲がキラキラ光っていると、なんだか神秘的じゃないですか。

 私はどうも、神々しい感じが好きで、撮ってしまいます。
 元気になるんです、こういうの。

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因果。

2013年01月26日 22時58分39秒 | 青裸々日記。
アロエの花(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「ブーメラン現象」という言葉を、皆さんは聞いたことがあるでしょうか。

 人に指摘をしたつもりが、実は当の本人が全く同じ間違いをしていた、
 あるいは、本人の嫌いな人の傾向が、実はその本人自身だった…など。
 つまり、「人を悪く言う資格のない人」が、意気になって人を攻撃するわけですが、
 その攻撃こそが、周り周って、ブーメランのように、当の本人自身へと打撃を与えてしまうわけです。


 さて、人に不当に扱われたり、邪険にされたとして、
 皆さんは、どんな気持ちになりますか。
 腹が立ちますか。
 悲しくなりますか。
 または、目も向けたくなくなりますか。


 ここで、先程の「ブーメラン現象」の話を、思い出していただきたいのです。

 自分がされたことは、少なくとも、自分が人にした倍は傷つくものと相場が決まっています。
 なぜなら人間、自分の痛みには、いたく敏感な生き物だからです。


 ということは、いくら「傷つけられました」とか、「邪険にされたから」といって、
 そういう自分こそ、人を邪険にしたり、不当に扱ったこと、知らないうたにしでかしていませんか?と聞かれたら、
 自信を持って答えられない人が大半なのではないかと、私は思うのですね。
 つまり、「嫌なことをされました」というのは事実に違いないのかもしれないにせよ、
 「なんだよ、そんな酷いことをしなくてもいいじゃないか!」と思うのと、
 「いつかやってたかもしれないな…」と感じるのでは、その後、幸せになれるのはどちらかは明らかですよね。


 余裕があれば、もっと考えを進めることもお勧めします。
 人に傷つけられたとして、「そんな酷いことをする理由はなんだろう?」という見方もできます。
 そうすると、「同じような理由があったら、自分は耐えられるかな…?」と、
 傷つきつつも、少しかわいそうに思ったり、なんとかしてあげたい気持ちにもなれませんか。
 もちろん、人を傷つけることはいけません。
 しかし、世の中、立派そうな人、強そうな人はいますが、
 現に立派で強い人は、なかなかいないものです
 だから、同情してあげること、むしろ親身になってあげることもできるのです。



 人にした扱いを見直すのは、なかなか身につまされるものがあります
 しかし、自分が嫌な思いをして、反省したり、いわゆる「被害者」側の視点に立つことができれば、
 そこで、不幸の連鎖は止まるのです

 人間は完璧ではありませんが、完璧を目指すから、幸せが連鎖する側面があるのも事実ではないでしょうか


 許せないことは、許せなくていい。
 でもそれは、自分は同じことをしない人だけの話なのです。

ファッション感覚。

2013年01月26日 20時01分18秒 | 青裸々日記。
アロエの花(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 私は、「人間関係」と「ファッション感覚」は、切っても切れないものだと思います。

 といっても、私の言う「ファッション感覚」には、二通りあるんです。
 それは、「心」か「見た目や形、外聞」です。
 「ファッション感覚」や「美学」は、このどちらに置くかで、人間関係は180゜、まるっきし違うものになります。


 人間関係を営む理由は、いくらでもありますね。
 利己的に、人を道具のように見立てて使う人もいれば、
 心を共にして、楽しんで未来を拓く人もいます。
 あるいは、ハッキリと理由を言えないとか、いくつも理由があって…という人だって、当然いるでしょう。
 理由は色々、あってよいのです。



 ただし。

 人間関係に、外からの目を持ち込むと、
 結果として、不幸になるものです。

 たとえば、素敵な人と一緒にいるところを人から見れば、
 自分まで素敵に思われやすくなりますよね。
 しかし、「一緒にいる」といっても、形だけ一緒にいるのか、心を通わせているのかで、全く違うことにはなりませんか。
 どんなに素敵な人が隣にいても、心が隣にいないのなら、
 結局は一人でいることと何も違わないことにはなりませんか。
 つまり、形しかないとなると、外からの見てくれだけのために、わざわざ寒い思いをしてまで身を削ることになりますが、
 それで一体、誰が幸せになるかは、疑問ですよね。


 少し厳しい話になりましたが、何を隠そう、昔の私がそうだったからです。
 形を追い求めると、必ず心が残らない過去があったという経験から、
 皆さんには、あたたかさを何より重視した価値観をわかっていただきたかったのです。


 さて。

 同じく「ファッション感覚」というのなら、「形」より「姿勢」に、美しさを求めてみませんか
 何も、格好をつけることはありません。
 純粋に、人の幸せを願い、考えてみる
 それだけで、行動は美しく洗練され、より琴線に触れるようになっていくものではないでしょうか
 私が現実に目の当たりにする人間関係のうち、感心するのは、
 最終的には純粋な心を持った人からだけです。
 独断かもしれませんが、どういう人間関係を築き上げるかの趣味は、こうした美学からしか生まれ得ないと、私は思うのですね。


 幸せを見てくれに求めても、結局は何にも残りません
 まず幸せがあって、そこから見てくれが磨かれていくのです
 どうしても形!というのなら、形は一旦捨てて、純粋な心を取り戻し、大切にしていくことが肝要です


 人間関係の美しさや幸福感は、
 人を自分の道具にするか、自分を人の道具にするかで、
 まるっきし、違うものになるのです

 そしてまた、自分を道具にしているうちは、いくらでも自分が幸せの源とできるのです。

海外旅行へ・・!?

2013年01月26日 09時58分19秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 先日、海外旅行に行ってきました。

 これは写真を見るか見ないかで、大きく印象の異なる記事なんじゃないかなぁと思います(笑)
 まあ、楽しかったことに違いはないのですが(^_^)

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夕陽

2013年01月25日 05時38分20秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆様、ありがとうございます。



 朝の投稿だから朝日…と思いきや、
 すみません、夕陽です。

 城ヶ島から撮ったんですが、地平線を照らす光が印象的でした。
 あぁー、キレイだったなぁ~(*^_^*)


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持つ人、持たない人。

2013年01月24日 23時14分45秒 | 青裸々日記。
水仙の花(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 基本的に、出し惜しみはいけません。
 「サボり」は、よくないことです。

 それでは、なぜ「全力を出し切らないこと」はいけないのでしょうか!?
 パッと思い浮かぶ理由としては、「見ていて腹が立つから」とか「迷惑がかかるから」というものが大半でしょうが、
 実は、もっと深い理由があるのですね。


 皆さんは、自分を情けなく思ったり、人をうらやんだこと、
 嫌というほどあるかもしれません。
 逆に言えば、自分より能力があったり、人間性の高い人を見るから、
 そんな考えが、頭や心に浮かぶんですよね。

 さて、「自分がうらやむほどの人」が、その能力や人間性を粗末にしたら、
 「粗末にするぐらいなら、ちょっとぐらい私にも分けてよ!」という気にもなりませんか(笑)
 もらえるなら手が出るほど欲しいですよね。
 でも、能力や人間性の取り替えっこは、現実には無理なわけです。


 ということは、です。

 自分が持てるものを出さないと、その自分の持っているものすら手にしていない多くの人を、悲しませることにはなりませんか
 そしてまた、いつどこで誰が自分をうらやみ、尊敬しているかもわからない以上、
 手を抜くことで、想像もしないような人が、傷つくことだってあるのです



 もちろん人間、コンディションもあれば、疲れやストレスもありますから、
 100%、自分を出しきれないこともあるでしょう。
 また、気が向かない時もあれば、全方向に力を注げないこともあるでしょう。

 しかし、大事なのは、結果ではなく、出し切ろうとする姿勢です
 力であれ人間性であれ、「無い袖は触れぬ」で、出したくても持っていない人から見れば、
 せめて、持てるものを出してほしいという声に応えることで、
 持たない人へも、気持ちよくなってもらったり、夢や希望を持ってもらえることにはならないでしょうか。



 もし、誰かが手抜きや不誠実が好きなら、やらせていればいいと思います
 「持たない人を思えば、絶対出し惜しみはできない」という、
 そんな優しい気持ちの一つもないのなら、仕方がないのかもしれません

 しかし、持てるものを出し切らない代償は、不幸というレベルでは済まないものだとしても、文句は言えないのではないでしょうか


 誤解を恐れずに言えば、誰もがヒーローであり、アイドルであり、天才なのです。
 自分ぐらいの人間でも、必ず羨んでいる人はいる、
 そう思えれば、いつかはまた前を向き、情熱を燃やしていけなくはないですか。

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