青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

好きなものは好きと認めよう。

2011年03月31日 21時56分49秒 | 青裸々日記。
大寒桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 多かれ少なかれ、私達は演じて生きているものです。
 四六時中「立て板に水」のごとく、思ったことをなんの配慮もなく出していたら、
 人と接するたびにぶつかって仕方ありません。
 あるいは、問題がない表現でも、言い方を工夫することで気持ちがより伝わりやすくなったりもするもの。
 だからこそ、相手や状況に合わせて自分の出し方や見せ方、そして隠し方を変えるのは、
 立派な処世術なのです。
 一度は経験があると思うのですが、
 怒りや悲しみなど、ネガティブな感情を抑え込んでいる人って、
 本人の演じ方がいくら上手なものであっても、
 たとえば目つきや細かい仕種など、どこかしら漏れ伝わってくるポイントがあるので、
 結局はわかってしまうんですよね。
 しかし、ネガティブな感情をそのまま放り投げないことで、
 意気を感じて納得できたり、ネガティブな感情が伝染せずに済むわけです。



 ただし。


 相手や状況に合わせるのは大切な心掛けと言えど、
 「あれこれ我慢したり、表現を工夫する」など、
 相手や状況に合わせようと追求する気持ちが行き過ぎると、かえって摩擦の原因を作ってしまうことがあります。
 なぜなら、意識が散漫になってしまうからです。

 「感情の表現を工夫したり、なんらかの我慢をする」ということは、
 それだけ表現する力を抑えるということになります。
 心情を隠すことに力を使うということは、つまりは自分のエネルギーをも奪ってしまうことになります。
 …すると、本当に思っている気持ちはもとより、
 表に出して見せている感情も、どこか中途半端なものになってしまうわけです。
 そしてまた、感情表現の中途半端さは、感情を隠す度合いとだいたい比例してしまいます
 中途半端な感情表現が多ければこそ、伝わるものも伝わりにくくなるのは自明の理ですよね。


 ところで、我慢するのは「ネガティブな感情」だけで良さそうなものですが、
 実は「ポジティブな感情」を我慢していることも、案外多くあるものです。

 たとえば、「人に理解されにくい専門的な趣味がある」とか、
 「好きな人がいるけど、いろいろあって我慢しなければならない」とか、
 はたまた「自分だけの世界がある」とか、
 かい摘まんで言えば「好きなものを好きと言いきれないもどかしさ」をどこかしら抱えて生きているのが、
 人間というものだったりもします。
 この場合も、気持ちを我慢しないほうがよい。
 わだかまりの分だけ、やっぱり心は鈍くなってしまいます。
 そして、どこか隠すような真似をするから、
 コミュニケーションも不気味で不自然なものになってしまうわけです。


 それでは、どうすればよいのでしょうか!?

 私が思うのは、「自分に素直になること」だと思います。
 自分の気持ちを認められないばかりか、把握も出来れば、
 「感情の通り」も良くなり、結果的に伝わっては困るような気持ちも隠しやすくもなるのです。
 そうであれば、好きなものはもっと好きと認めても良いのではないでしょうか!?

 自分をいたわるのは、実は人様のためだったりもするのです。

ありがとう、gooあしあと

2011年03月31日 14時00分24秒 | 雑感、雑記
最終日に寄せて、大寒桜に寒緋桜を添えて…

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 gooブログのパソコン用ブログパーツの「gooあしあと」というサービス、
 今日でおしまいなんですねえ。

 興味のあるテーマや似たようなテーマを扱っていらっしゃる素晴らしいブログには何度もお邪魔して、
 「あしあと」を付けさせていただきました。
 「アクセス以上、コメント未満」という絶妙な立ち位置が重過ぎず軽すぎず、お邪魔する意味でも受け取る意味でも好きだったのですが、
 また形を変えて復活する日が来ればなあ、と願ってやみません。


 個人的なことを言うと、
 この「青裸々日記」というブログって、
 思いっ切り読む人を選ぶブログだと思うんですよ。
 「写真に釣られて読んでいたら、文章が重くて…」と、
 好き嫌いがハッキリ分かれるっていうか、匙を投げる方と熱心に読んで下さる方のどちらかになっていく性格だと思うんですね。
 だからこそ、「ちゃんと見てますよ」というあしあとが残ると、結構励みにもなったりしてたんです。


 まあ、元が元で自分に言い聞かせるのが主旨だったりもするので、
 今から一年前くらいはコメントもなかったし、
 変わらずマイペースに更新していきます。

 多くの皆さんやこのあしあとサービスにもらったエールを、
 ありがたく大切に、胸にしまっておこうと思います。

やめられないとまらない

2011年03月31日 11時23分03秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 先日の代々木公園では、500枚撮りました。
 なんかこう、惚れたら一直線!じゃないですけど、
 絵にしたいものを見つけると、気が付いた時にはもうシャッターを切っていた…という感じなんです。

 いつもありがとうございます。

被害者意識が被害を呼ぶ!?

2011年03月30日 23時20分32秒 | 青裸々日記。
大寒桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 感受性の強い人は、人の感情やニーズを読んだり、それに対して細やかな気配りを出せるという、
 人を幸せにする貴重な資質を持っているものです。
 しかし一方で、どんなものも人一倍響いてしまうだけに、
 心労や心のダメージ、あるいは心が傷つく頻度も多くなってしまいます。
 そしてまた、元の性格が繊細かどうかは別にして、
 「精神的に疲れている」度合いが大きいほど傷も付きやすくなったり、
 あるいは傷ついた部分に意識が集まって、余計に疲れを悪化させてしまいがちなのが、人間というもの。


 もちろん休める時は休むに越したことはありません。
 しかし休む以外にも、とりあえず疲れを軽くする方法があります。
 それが、「被害者意識を捨てる」という考え方なのです。

 「なんだ、疲れているのに痩せ我慢をしろと言うのか!」と思った皆さん、
 あなたは正しい。
 普通に考えて、「疲れているならそれ以上ダメージを受けないように」というのが自然な態度ですよね。
 …というわけで、「ああなるほど、できるかも知れない」と思ったらで構わないので、
 とりあえずお付き合い下さい。


 ところで皆さん、誰かと手を繋いだことはありますか!?
 「記憶がおぼろげだ」という方は、右手と左手を繋いでみて下さい。
 多分、どちらかが冷たくて、どちらかが暖かいハズです。
 さて、「暖かい」か「冷たい」か、
 手を繋いでみて感じるのは必ず意識を向けたどちらか一方だけで、
 両方同時に感じられるという人は、余程の訓練を積んだ人でなければありえません。

 この原理から言えることが、ひとつあります。
 それは、「与える意識か受ける意識、どちらかしか取れない」ということです。
 具体的には、与える方の意識が強ければ感受性は鈍り、
 受ける方の意識が強ければ自分の影響力に関心がいきにくくなる
んですね。
 「傷ついた…」とか言っているような場合、つまり「受ける」ほうに意識が向いていると、
 その自分を傷つけるような嫌なものにどんどん意識を向けることになりますから、、
 余計に感情を悪化させてしまいやすいのです。
 そこで「与える」方に意識をシフトすることで、
 それ以上変に傷つかないよう、感受性のスイッチをオフにできるのです。


 もちろん、鈍感であれば人を傷つける場面も多くなる。
 それに、他人の言動や反応から自分を省みることは、人とうまくやっていくためには欠かせません。
 また、あからさまに誠実でない言動に出られた時は、毅然とした態度を取る必要もあります。
 だからこそ、冒頭でお話ししたように、感受性の強さも大切なのです。
 しかし、その感受性もたまに調整していないと、
 ネガティブでつまらない気分に飲み込まれてしまいます。

 自分が人に与えている影響はなんなのか!?という意識。
 「与える意識、なんらかの発生源である意識」を持つことも、感受性を磨くことと同じくらい大切なのです。


 意識を何回かシフトさせてみれば、感受性はそのままに、だいぶ楽になれるハズですよ。

震災情報について

2011年03月30日 17時38分18秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 ちょっとまあ、もどかしい気もします。

 ためになるニュースとかを見るたび震災に関する情報を提供したくなるのですが、
 そういう投稿は自粛しているんです。
 報道機関や自治体からの呼び掛けを、一次情報として自分の目で見ていただきたいんですね。

 …というのも、大震災の特徴として「風説の流布(→つまり、デマが飛び回る)」というのがあり、
 たとえ悪気がなかろうと、十分なソースや専門知識のない私がこういう個人ブログであれこれ言ってしまうと、
 周り回って混乱に拍車をかけてしまうかと思って、していないんです。


 もちろん国やマスコミを100%信用しているわけではないのですが、
 「中途半端な発信を減らす」に越したこともない。
 せいぜい元気が出るような投稿をするのが、今はベストなんじゃないかなあというのが私の立場です。


 国やマスコミの機関の皆さんが頑張っていらっしゃることは知っているのですが、
 これを機に、なぜ国やマスコミを信用しない人が多いのかという、
 問題提起になればよいと思っています。

言わせておく。

2011年03月29日 23時10分22秒 | 青裸々日記。
大寒桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 こと人間の欠点というものは、とかく目立って見えてしまうものです。
 青い空に雲が浮かんでいると、空が晴れがましく綺麗であるほど、
 空の青さよりも、雲にばかり意識がいってしまうのと同じように、
 どんなに良い人でも、欠点に目がいってしまうのは、本当はごく自然な話なのかもしれません。
 しかも、人間には防衛心が必ずあるもので、
 それが他人の欠点の見え方を余計にゆがめてしまうわけです。



 これを踏まえて。


 どんな物であれ人であれ、文句を付けるのは簡単です。
 どんなものも個性や特徴というものがあり、
 難癖という言葉があるように、いくらでも否定が出来る。
 つまり、気に喰わないことがあったとなれば、「自分はこんなに〇〇なのに」と、
 なにかしらの粗探しをして食ってかかれば、一応は正当化ができてしまうのです。
 気に入ったものはよいが、気に入らないものは自分に非があるかどうかはさておき、適当に否定しておけば、
 とりあえず「なんにも悪くないボクやアタシ」でいられるわけです。
 そしてまた、こうして都合よい身勝手な物の見方をしているほうが、労力も要らず楽なのです。


 「心ない言葉を放り投げたり、難癖を付ける人」って、
 悲しい位に多くいるものです。
 しかし人間、いつも肩紐張ってばかりはいられません。
 そこで、少しでも労力の要らない楽なほうに流れようとするわけですが、
 それがまさに「自分を正当化するためなら難癖もいとわない」という態度なのです。


 つまり、です。

 取り立てて深くも考えていないような文句なんて無数にあるわけで、
 どんなものにも個性がある以上、難癖は防ぎようがないものと知るべき
です。
 つまり、どうせ多少の文句が出るならば、それに怯えるのはあまり意味がないのです。

 もちろん、「文句や難癖」と言っても玉石混交、
 「良薬口に苦し」という言葉もあるように、ごくたまに自分にとって身になるものもあるわけです。
 もうひとつ、「人間は放っておくと、人に対して厳しい見方をしてしまう」ということを顧みれば、
 他人の意見に対して、少しだけ謙虚に耳を傾けることは大切です。


 しかし、それも程々にしたほうがよい。
 「欠点や難癖が付かないように…」という努力は、身を滅ぼすだけです。
 「背に腹は変えられぬ」というように、個性がある以上、ある程度の弱点や欠点は必ず出てしまうものだからです。



 言いたい人には言わせておく。
 「他人がどうこう言うから」ではなく、
 自分の意見を持って、自分を磨いていく
のです。

 くれぐれも些細な他人の言葉に惑わされませんよう。

酔っ払いをおっ払う〇〇の話

2011年03月29日 20時32分26秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 「よっぱらい防止法」というのがあります。
 これ、最近知ったのですが、「~~法」というからには「方法論」のことかな?と思いきや、
 れっきとした法律なんですね。

 お酒との付き合い方を知らない人にはイタい法律かも。
 多少はハメを外すことが大切と言えど、
 だらしない付き合い方はやめましょうねヾ(*^▽^*)o

ジンチョウゲ(沈丁花)

2011年03月29日 08時42分00秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 ようやく撮れました。
 私は沈丁花の薫りが好きで、フワッと匂いが漂うたびに、いつも気分が良くなるんですよ。
 でも、発生源を見ると民間の庭だったりで、
 どうも上手く撮影できなかったんですねえ。


 ちなみにWikipediaによると、花言葉は「栄光」「不死」「不滅」「歓楽」「永遠」だとか。
 素晴らしいですね、いろんな意味で。

代々木公園

2011年03月28日 23時05分05秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 昨日は代々木公園に行って、河津桜やいろんな花を撮ってきました。
 中でも、河津桜はほとんど葉桜になっていて、
 遠くから見ていると、ほとんどもう散ってしまった感じ。
 でも、ダメもとで近づいたらきちんと咲いていて、
 ホントにツイてましたヾ(*^▽^*)o
 

 ここのスポットは有名なのか、はたまた公園にいる人がたまたま見つけたのか、
 たまに桜を撮りに来る人がいました。


 この寒さで春が来るかちょびっと心配になってしまいますが、
 いろんな桜をたくさん見たいなと思っています。

「包み隠さずの関係」は現実的か!?

2011年03月28日 18時43分29秒 | 青裸々日記。
寒緋桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 「パートナーとは嘘や隠し事のない、なんでも言い合える関係でいたいです」と言う人がいます。
 もちろん、誠実かつ積極的に相手と強い関係を結びたいというなら、
 遠慮はないほうがよい。
 しかし、結論から言えば「嘘や隠し事のない関係」というのは、
 「無い物ねだり」だと思って間違いありません
 これは「人間はキタナイから、夢を見るだけムダだ」という悲観的な観測からではなく、
 ちゃんとした根拠があって、言っているんですね。


 ところで、皆さんはなんらかの過ちがあった時、
 それに至る過程を、即座に客観的に、誰かに説明できるでしょうか!?
 ところで、ご飯を食べている時、
 いちいち「このハンバーグは調味料にブラックペッパーが入っているから後味が締まって、なおかつ…」と、
 料理や食材について、毎食ごとに洞察力を尖らせているでしょうか!?
 ところで、日記や写真を人に見せている時、
 当時の心境についての全てを事細かに思い出して、全く同じ思いを引き出せるでしょうか!?

 答えは言うまでもなく、NO!の一択ですよね。
 …ということは、自分の思考や心境ですら、どんなに意識を研ぎ澄まそうが、
 毎時毎秒、向き合えているとは限らないわけです。
 しかも、自分に嘘をついてなんらかの感情を抑え込むことがあったとしても、
 「自分に対してなにかごまかしている」と自覚できないことすらあります。


 つまり、100%客観的な立場で自分と向き合うことができない以上、
 自分で自覚できていないことだって、どんな人にもたくさんあるハズ
です。
 自分に対して100%出しきれないことにもかかわらず、
 「嘘偽りや隠し事は禁止です!!」などと完璧を求めるのは、
 どこか傲慢さやあつかましさがあると知るべき
です。


 実は。

 過去に酷い騙され方をしたり、嘘をついて隠し切れずに目上の人や親から怒られて、トラウマになってしまうことがあります。
 もちろん、「うん、そうだよね、嘘や隠し事ってよくないよね」と自分に言い聞かせて学習していくことは、
 成長や向上心という意味では、とても素晴らしいことです。
 しかし、「羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)」がごとく、
 人にも同じルールや価値観を押し付け、さらにそれを厳しい基準で批判的に見るなら、
 結局、人間が出来るレベルを越えたものを相手に求めることになりかねません
 せっかくのよい心掛けもエスカレートし過ぎると、付いて来てくれる人がいなくなってしまいます。


 つまり、嘘や隠し事も、自分も他人も同じ人間であれば、
 ある程度はあるのが普通だと思っておく。
 その中で、信じられる部分を増やしたり励まし合いながら、
 ゆっくりと信頼関係を築いていけばよいのです。


 人を批判的に見るのは簡単ですが、それで生み出せるものは痴れていますよね。
 逆に、嘘や隠し事を許す大切さを知っていればこそ、築ける信頼もあるわけです。

 人間関係というのは、ある意味では完璧でないほうがよいのかもしれません。

コンタクトが…

2011年03月28日 07時50分38秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 私はまつ毛が長く、よく目に入ります。
 今日もまたまつ毛が入ったと思って、コンタクトを直そうとしたら、
 目から外した瞬間にクシャクシャになって…

 取り替える日が近くてよかったです。
 まだまだ乾燥しているんですかね!?

自分という土台。

2011年03月27日 22時48分30秒 | 青裸々日記。
寒緋桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 人の心配をしてあげる。
 困った人がいたら、力になってあげる。

 心の優しい人ほど、こういう気持ちを持っているものです。
 言うまでもなく、そういった気持ちは尊いものです。

 さて、気持ちを持っていることのみならず、行動に移せたら、それはもっとすごい。
 ただし、行動に移すだけでも、実はまだ詰められる要素があるのです。
 「気持ちを持っていること」と「実際に気持ちを行動に移す」こと、
 この2つだけでも大変なことですから、他に目が行かなくなってしまうのも頷ける話ですが、
 一体それは、なんでしょうか!?



 焦らすようで申し訳ないのですが、
 一緒に考えてみましょう。

 「ルームメイトや家族、恋人」といった、一緒に住んでいる人が、
 精一杯がんばって、クタクタになって帰ってきたとしましょう。
 そこで、「よし、カレーでも作ってあげようか」と思うこと、これが「気持ち」の段階ですね。
 次に、材料を買い込んでご飯を炊き、具を仕込んでおく、これが「行動」の段階です。
 さて、ただ漫然とカレーを作れば、
 相手はどんなものをどんなふうに出しても、
 喜んでくれるでしょうか?

 …違いますよね。
 ・具が食べやすい大きさや固さになっているか
 ・ルーの好みが、相手に合っているか
 ・タイミングを見計らって、出来立てを出せる時間を逆算できているか
 こだわればキリがありませんが、
 結局、料理の腕がなければ、相手の口から感謝の言葉が出ようと、
 実は「ありがた迷惑」になってしまう危険すらあるのです。


 どんなことでもそうです。
 要するに、「いくら気持ちがあろうと、それなりの財産や能力がなければ、相手にきちんとした優しさとして伝わりにくい」という点、
 ここが、とても曲者かつ見落としやすい点なのです。


 気持ちが優しい人ほど、「自分がなんとかしなければならない」とか「指を加えて見ていられない」と、
 感情が先走ってしまいがち。
 しかし、自分の未熟さゆえに、かえってその気持ちがマイナスに働いてしまうことがある、
 こんなお話をしたいのです。



 ここまでお話すると、救いようのなさを感じてしまう人がいるかもしれませんが、
 そんな場面でも「なんて小さな自分…」などと嘆く必要はありません。
 「カレーを作りたくても、料理の腕がなければ意味がない」というお話をしましたが、
 なに、差し出すものがカレーでなければならないとは、誰が決めたわけでもありません。
 もし料理の腕がなくても、お弁当屋さんに走って行くもよし、
 レトルト食品を使うもよし、
 あるいは、近くの自動販売機で飲み物を買ってくるだけでも、
 「気持ち」は伝わります。
 当面はそうやってしのぐとして、その間に料理の腕を磨き、
 いつかおいしいものを作れる日を目指していればよいのです。


 自分に出来る範囲で、精一杯出来ることはしておく
 一方で、自分が至らなくて悔しい思いをしたなら、
 その気持ちを自分を磨くために使う

 簡単なことですよね。
 「人を助けたいけど…」とうそぶいて話を難しくしているのは、案外自分自身なのかもしれませんよ!?

新しいMY箸

2011年03月27日 19時14分47秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 ついさっき、百円均一でこんなお箸を見つけました。
 私は使い勝手の良さを重視してステンレス製の箸を使っているのですが、
 平べったくて柄入りのものがあったんですね。

 結局、2つ買って楽しく使うことにしました。

 物資がなくても、こういう箸を持ち歩けば食べ物も一層のおいしさが味わえるというものです。

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