青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

もの扱い。

2013年08月13日 21時27分17秒 | 青裸々日記。
目黒天空庭園から(東京都目黒区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人をモノ扱いする人を見ると、心が痛むものです。
 まして、自分がモノ扱いされては、耐えられない気持ちにもなるのが普通です。

 だから、「人をモノ扱いするのはよくありません」というのは、どこにも間違いはありません。


 しかし、「モノ扱いする人」が、どんどん人をモノ扱いしていくと、果てにはどうなるか。
 幸せになることは、まずないのです。



 モノ扱いというのは、つまりは「自分のために利用すること、言い換えれば利己的な考えの下に人と接することをいとわない」ということですよね。
 ということは、「自分の目的さえ達成されれば、後はどうなっても構わない」ということにも繋がります。

 そして、です。
 「後はどうなっても構わない」のであれば、大切にしようという気持ちも、必然的になくなります。



 この「大切にしようという気持ちがなくなる」ということ、どれほど重いことか、ちょっと考えてみましょう。

 人間相手に「大切にしない」という場合は、簡単ですよね。
 もし皆さんが邪険に扱われるようなことがあったら、そんな人とは関わりたくなくなるのが自然でしょう。

 これ、モノであればどうなるか。
 「心がないなら大切にしなくたっていいじゃない」と言いたい人は、それでも構いません。
 しかし、大切にしないと、その物本来の特長や性質を引き出すことは出来ません。
 たとえば、同じ100円のお皿でも、洗わないままであれば一回しか使えませんが、
 きちんと洗えば、何回も使えますよね。
 そしてこれ、すべての物に言えなくはないですか。
 そう、つまり、モノすら大切にできないなら、そのモノからの恩恵すらも受けられないのです。


 今時、機械化が進む中で、「モノには作った人の心が」などと話すのは、どこか時代錯誤だと受け取る向きもあるかもしれません。
 しかし、心がどうのと考えなくても、モノすら大切にできないということは、回り回って自分にも不利益が忍び寄るのです。


 まして、人をや、というわけです。



 だから、人をモノ扱いする人は、結局は幸せになれない可哀想な人なんだと理解してください。
 そして、幸せになるために必要なのは、利己的な発想で動くことではなく、普通に良心に従うこと
 これこそが、本当のところなのですね。



 ここに気付くまで、利己的な人は、自分も他人も消耗させていくのです。


 そして、綺麗事でもなんでもなく、良心に従う人が増えるほど、世の中は幸せになるのです。

お世辞。

2013年07月02日 23時11分48秒 | 青裸々日記。
白山神社の擬宝珠(東京都文京区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 お世辞を言う人は、本質的には誠実な人ではありません。
 お世辞は嘘だからです
 「機嫌を取っている」という大義名分があっても、嘘をついてまで機嫌を取るなど、本心からの言葉ではないのですから、
 相手を見下しているということにもなりかねません。
 いわゆる「厄介な人や場面」であれば方便になるかもわかりませんが、
 お世辞は基本的にやめたほうが、身のためです。



 ちょっと毒があったでしょうか。
 でも、自分がお世辞を言われて気持ちがいいかと言えば、おそらく「本当にそう思ってないならいいよ」と、
 少し悲しい気にもなりませんか。
 そう、お世辞って、人を悲しませるものなのです。


 もう少し、一緒に考えてみましょう。
 自分が嘘ばかりついていたら、他の人の言うことも、本当のこととも、
 あたかも全部嘘であるかのように見えてもくるのです。
 そして、「お世辞=嘘」なのですから、
 自分がお世辞ばかり言うような人になってしまうと、人の褒め言葉すら受け取れなくなってしまう。
 これって、幸せなことなのかなと思うのですね。

 ただでさえ嘘をつく人、気を持たせて人を欺く人、人をモノとしか考えていない人が、いくらでもいる世の中なのです。
 普通に生きているだけで疑心暗鬼になるそんな中で、自分からわざわざ猜疑心を強めてどうするんだという話です。



 それでもお世辞が好きだとか、止むをえないというのなら、好きにすればいい。
 でも、褒める部分を見つける努力ぐらいはしましょう。
 それもせずお世辞に逃げるなら、相手と向き合いたくないと言っているも同然です。


 お世辞は求められた時だけ。
 どうせ持ち上げるなら、心からの言葉のほうが、お互い何倍も気持ちいいのです。

標準装備。

2013年06月27日 22時37分48秒 | 青裸々日記。
紫陽花の花(東京都文京区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 写メールは、今や、携帯電話の必須ツールになりました。
 しかし昔は、カメラなんてないのが当たり前でした。

 また、携帯電話といえば、色々なアプリも充実していますが、
 これもまた、昔は考えられなかったものではないでしょうか。


 さて。
 いずれの機能も、優れていて便利だから、携帯電話の標準装備になった、ということですよね。
 これ、携帯電話のみならず、全てのことに言えると思うんです。



 世の中の時流を追っていくと、一時的に広まったものと、広まったのち、市民権を得て定着したものとがあります。
 このうち、定着していったものには、必ず人の要求なり心なりを満たすだけものがあったから残っていった、
 こういうことが、言えたりはしないでしょうか。


 つまり、長い目で見れば、いいものほど残りやすいということなのです。
 いいものは自然と残っていくし、どんなに良かれと思っても、間違ったものは自然と減って、さらにはなくなっていくことにはならないでしょうか。



 価値観の多様化が叫ばれる中で、流行に乗る人が多いのも現実です。
 しかし、大切なのは、流行っているかどうかではなく、人の心に届いているかどうかです。


 そしてまた、この「いいものは自然と残っていく」というのは、人間の性格についても言えることです。
 よく「あの人は丸くなった」などといいますが、
 見方を変えれば、「いい部分がうまい具合に残った」とも言えなくはないでしょうか。



 周りがどうあろうと、長い目で見れば、全ては必ず良い方向に向かっているのです。
 信じる場所を守りましょう。

ダメダメ啓発法。

2013年06月23日 23時00分18秒 | 青裸々日記。
紫陽花の花(東京都文京区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 自分を律することは、大切です。
 何事も自分勝手にしていては人に疎まれ、
 気分で行動が左右されてはなせるものも難しくなってしまいます。


 しかし、です。

 自分を律するあまり、かえって人に疎まれたり、成功が遠のいてしまうことも、場合によってはあるのですね。



 自分を律するということは、自分を縛るということでもあります。
 当然、人間は縛られれば縛られるほど負荷がかかり、気分も重くなっていきます。
 俗に言う「義務感」というものです。


 そして、です。
 自分を縛る目的がわかっていればいいのですが、義務感が先行してしまう、言い換えれば自分を律する目的を見失ってしまった時、
 それはもう、自分で意味がわかっていないのですから、相当な徒労感に襲われるのも、当たり前というものなのですね。



 最近、どうも意欲に欠ける。
 楽しかったはずのことが、楽しくない。

 そんな時は、一度、義務感から自由になってみるといいでしょう。


 具体的には、どんどんやる気をなくしてみるのです。
 それが無理なら、「体裁をつくろうこと、自分を律することは疲れる!」などと、
 いかにもダメダメなことを口に出して言ってみるのです


 この世の中、そんなに綺麗事ばかりで出来ているわけではありません
 そして、義務感と意欲は、全くの別物です
 そんな清濁併せ呑むような世の中で、理想や綺麗事ばかり言っていては、本当の純粋な心そのものが、見えにくくなってしまいます


 疲れた時は、堂々と疲れていい。
 そうやって心を解放するから、本来の前向きさも、息を吹き返すのです。

「不安定」という安定。

2013年06月20日 23時50分42秒 | 青裸々日記。
白山神社・紫陽花祭りから(東京都文京区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「心が安定している人は付き合いやすいし、物事も上手くいきやすい」と言われます。
 それはそうでしょう。
 たしかに、心がしっかりしていればこそ、上手に立ち回れることも増えるでしょうし、好感や安心感を覚えることも、自然な話ではあります。



 しかし、です。

 「安心感」にこだわるのは、そもその心がしっかり安定していないから・・・という心理が見え隠れもしようかというものです
 自分が不安定だから、安定している人や安定した精神状態をうらやむわけで、
 心の平和が保たれてさえいれば、別に安定なんてものは特段に飛び抜けて魅力的にも映らないはずなのですね。


 こういうわけで、「安定を望む人ほど不安定」という図式が出来上がるわけです。


 そうです。
 不安定な人が安定感を求めても、不安定な状態を立て直すこと自体が難しいのですから、
 安定感もなかなか手に入りにくい。
 だから、自分の不安定さ加減が、ますます嫌にもなってくる。
 これ、なかなかの曲者ではないでしょうか。



 私が思うに、本当に不安定な時は、もうどうしようもないのだと思います。
 どうにかできたらどうにかしているのが人間ですが、
 それができないってことは、本当に不安定で二進も三進も(にっちもさっちも)いかないとしか言いようがありません。
 だから、本当にどうにもできない時は、本当にどうしようもないのです。


 でも、どうしようもなくても、どうにかできたらどうにかしたいですよね。



 簡単です。
 不安定でもいいや!と、自分が不安定であることを許すのです

 突飛に聞こえるかもしれません。
 が、無理なことをやろうとするから、余計に不安定になる。
 ということは、無理をしないことが、そのまま安定感を確かにする手がかりにはならないでしょうか?



 安定感なんて、もうどうでもいいや!と言えた時、
 きっと、その状況にも勝てているのだと思います。

怒っている人。

2013年06月17日 23時02分01秒 | 青裸々日記。
ポンポンダリアの花(東京都小金井市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 たとえ理不尽な扱いを受けたにしても、機嫌はなるべく保つほうが、結果的に得策な場合が多い
 これ、覚えておくと、結構得する法則です。


 人間、なんでも完璧にこなせる人なんていません。
 言い換えれば、誰しも間違いはあるわけです。

 そして、間違えたこと、悪いことをしたら、皆さんは小さい頃、なんて言いましょうと教わりましたか?
 そう、「ごめんなさい」ですよね。


 馬鹿にしてるのかと思われた方は、すみません。
 でも、この「ごめんなさい」こそが、この話の肝なのです。



 経験ある方も多いと思うのですが、
 自分に落ち度があればあるほど、実は、謝るのもきついもの。
 もちろん罪悪感もありますし、自責の念だってある。
 しかし、謝りにくいもうひとつの原因として、「相手の機嫌を損ねてしまって、自分が悪いとはいえ、やっぱり怖いから」というものも、
 見逃すことはできないはずなんです。

 そうすると、です。

 怒っている側からすれば、頭にくる度合いが強いだけ謝罪も強く求めることになりますが、
 まさにその怒りの影響で、かえって謝罪と和解が遠のいてしまうことになる、
 こんな連立方程式ができたりはしませんか。
 謝ってほしければほしいほど、謝ってくれない・・・という、
 自分で自分の望みをなくすのに近いことになってしまうのです



 つまり、です。

 もちろん、怒りは怒り、権利は権利、尊厳は尊厳として、
 どんなことを思ってもかまわないし、口に出てしまうことがあってもいい。
 でも、謝ってほしいとか、仲直りしたいと思うのなら、
 相手が謝りやすい環境を変えられるのは、ほかでもない自分自身ではないでしょうか
 そもそも、話のわからない人が相手というなら、それはもう謝る以前の問題です
 そこらへん、一度考えてみると、頭の整理もつきやすく、
 変な言い方にはなりますが、許し甲斐、尽くし甲斐があるというものではないでしょうか



 頭にきた時こそ、本当は未来を見つめるべき時なのかもしれません。
 相手を受け容れる器量こそが、未来を拓く力なのです。

因果の法則。

2013年06月15日 23時42分48秒 | 青裸々日記。
ダリアの花(東京都小金井市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 霊的な話に、「因果」というものがあります。
 にわかには信じがたい話ですが、いわく、「前世の償いは、今世嫌なこととして出てくる」というものらしいのですね。



 ・・・と、そんなオカルトじみた話をするから、真実が伝わらないんじゃないかな?と、私は残念に思うのです。


 結論から言うと、論理的かつ物質的な世界で考えても、因果というものは必ず存在しています。


 簡単な例で考えてみましょう。


 訳あって、人にたくさん嘘をついてしまったとします。
 そうすると、今度は人に言われた話が、だんだん嘘っぽく聞こえてくるわけです。
 なぜなら、自分が嘘をついているから、人も当然、嘘ぐらいつくんじゃないの?という頭になってしまうからです。
 そしてこれ、嘘をついた回数が多ければ多いほど、嘘に聞こえる度合いも酷いものになってしまう。
 だから、人にやったことは、必ず自分にも返ってくるのです。
 それも、自滅という形でです。

 もちろんこれは、反対のことも言えます。
 心から人に親切にしたら、気持ちを受け取る側になった時に、
 素直に喜ぶことができる。
 だから、本気で人を幸せにできた人だけが、本当に幸せになれるのです。



 どうでしょう。

 もちろん、完璧な人間なんていませんから、たまに間違いはあるし、気付けないこともある。
 でも、やったことはやりっぱなしではないと知ったら、
 その影響だって、無視はできませんよね。
 裏切りしかり、人を傷つけるようなことしかり、
 「自分にも悪いし、誰も得はしないからやめておこう」という発想になるはずです。



 出来る限りでいい。
 人に優しく親切にしたほうが、自分にも優しい世界が出来上がるようですよ。

古傷があると・・・。

2013年06月11日 23時56分30秒 | 青裸々日記。
ムクゲの花(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 心配性な人、用心深い人というのは、堅実で信頼できる人でもあります。
 それに、図に乗って人に不誠実を働くこともありませんから、
 人付き合いでトラブルを起こすことも少ないでしょう。


 しかし、です。

 自分の好きで慎重にしているのなら問題はないのですが、
 気がつくと不安に襲われオロオロしてしまうとか、消極的すぎて自分からなんにも行動を起こせないという場合、
 昔、不安になった時の古傷が疼いているのだと考えることで、
 不安感を和らげ、自分の感情と上手く付き合うことができるようになることも多いのです。



 たとえば、人を信じていたのに、裏切られてしまったとします。
 そうすると、人を信じることが怖くもなりますよね。

 そこでなんですが、裏切られてしまった後というのは、「人というのはみんな、裏切るものなんだなあ」と、
 少しでも疑わしいことがあれば、悲観的に考えたり、疑いの目を向けて考えたりということをしてしまうようになるのです。
 そう、本当は相手の考えていることなんてわかりっこないのに、裏切るつもりもない人まで「最初に裏切った人」と同じに見えてしまうのです。


 「裏切る話」を例に出しましたが、これ、全てのネガティブな考えに当てはまります。
 現実とは関係なく、最初に受けた嫌な思いを忘れられないがために、
 どんな相手にも、「どうせ悪さをするんでしょ?」と、疑いの目を向けて回るわけです。


 人に対して、なかなか信頼を預けられないという皆さん。
 その不信感は、本当は目の前の相手が原因とも限りません。

 ・・・というより、不信感を持ったり悲観的に考えることで、
 昔、嫌な思いをさせた相手に対して、
 「あなたのせいで、こんなつまらない考え方しかできなくなったんだ」と、無意識では心で憂さを晴らしているのかもわかりません




 なんでも信じればいいとは言いません。
 しかし、悲観的に考え、どこか屈折したところはないか、
 自分を振り返ることも大切です。

 自分の本心から疑い、本心から信じましょう。

休むのも仕事のうち。

2013年06月10日 23時25分01秒 | 青裸々日記。
ムクゲの花(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 いくら綺麗事を言っても、人間、いつもいつも同じ考え、同じ気持ちでいられる人はいません。
 やっぱり、疲れもあれば、割り切れない思いもある。
 あるいは、いいものは色々な角度から味わいたいということもあるでしょう。


 何を言っているかと言うと、同じこと、同じ考えでいたいなら、休みなく頑張るのかえって非効率だったりもする、
 こんなことを、お話ししたいのですね。


 たとえば、私はこうやって文章も書けば写真も撮るし、作曲もします。
 そしてまた、くだらないことを考えることもあれば、本当にだらしなくだらけている時もあります。
 もし仮に、24時間同じ創作ばかりやっていたら、反復に嫌気がさすだけでやっていられません(笑)
 そしてまた、張り詰めた気持ちでは、アイデアを生む余地も許されないでしょう。



 「好きなこと、やりたいこと」とか、「熱意、意欲、情熱」といった、
 いかにも前向きで、エネルギッシュなことが求められがちで、
 普通にマイペースで生きることは、いかにも悪いかのごとく語られるものです。


 もちろん、気持ちについていけている時は、それで上手くいくのかもしれない。
 しかし、全く眠らずに過ごせる人間がいないように、
 人間ならば、気乗りしないこともあって当然ですし、
 たまに休むからこそ、さっきの「情熱」とかいう題目だって、続けていけるのです。



 休むから育つ気持ちや力もあるのです
 普通にやって伸びているならいいのですが、疲れたのなら、休ませるという方法で伸ばす時が来たのだなあ・・・と、
 観念して、手を止めましょう


 そして、また起き上がりたくなったら、何事もなかったかのように、また始めればいいだけです



 休むから、頑張れる力が出る。
 当たり前のことですが、皆さん、休むということをもう一度見直して、考えてみませんか。




絶好調。

2013年06月09日 22時29分23秒 | 青裸々日記。
代々木公園から(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「絶好調」って、誰もが喉から手が出るくらい、欲しい状態だと思います。
 なにせ、バイタリティーがあるし、運の回りもいいし、なにより、機嫌も大変よいままでいられるからです。


 でもこれ、ある程度は、自分で作り出すこともできるのです。
 嘘みたいだと思ったら、ちょっとだけ読んでくださればと思います。



 人間、バイタリティーに溢れる時は、だいたいエネルギーの周りがよくなるものですよね。
 ということは、身体でも考え方でも、なんでも流れを良くしておけばいいわけです。
 具体的には、身体であれば基礎代謝を上げるとか、血の巡りをよくしておくと、身体も軽くなりますよね。
 心で言えば、なるべくわだかまりや頭の重しがないほうが、
 考えも早くスマートなものになり、結果として、より鋭く正確な選択をできるようになるのです。


 つまり、です。
 「よりスマートでいられる体調や考え方をでいられればこそ、絶好調に近づけたり、機が回ってきたとき、調子も上げやすくなる」ということにはならないでしょうか。



 ・・・といっても、コンディションを整えることは、そうそう容易ではないこともあるでしょう。
 あるいは、理屈ではわかるけど、なかなか実践となると難しいという場合もあるでしょう。



 そのために、日頃から「絶好調」というものを意識して過ごすことが大切なのです。




 なるべく身体の力を抜きましょう。
 そしてまた、変に考える癖も、できるだけなくしていく。
 リラックスして自然体な状態であればこそ、無理のない力の入れ方ができる、
 言い換えれば、「絶好調」を手に入れやすくなるのです。


 自然体でいること、すなわちそれが、絶好調に近づく方法なのです。
 意気込むことは大切ですが、自分を追い込まず、自由な状態にしていくことが、
 調子を上げる近道なのです。

成長を諦めた人たち。

2013年06月05日 23時43分47秒 | 青裸々日記。
フレンチラベンダーの花(東京都江戸川区


 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 レストランでもなんでも、一般に、経験があって成長してきた人ほど、
 ソツなくスマートで、それでいて気持ちよく丁寧な対応ができるものです。
 対応がよろしくない人は、入ったばかりで経験が浅いか、極端に不向きなのか、
 あるいは、ただ漫然と・・というレベルにも届かないくらい、手を抜いた仕事しかしてこなかった人ですよね。



 これ、レストランの仕事に限った話でしょうか?


 人間関係でも、コトの次第は基本的に同じだと思うのですね。

 ソツなくスマートで、それでいて気持ちよく接してくれる人ほど、
 私達は、好感を抱くものではないでしょうか。
 そしてまた、仕事でよい対応ができる人ほど「成長した人」とみなされるように、
 対人関係で、人の機嫌や居心地まできちんと気にかけ、改善できる人ほど、
 「人間的に成長してきた人」ということになると思うのですね。



 世の中、「なんでそういうことができるかなぁ?」と思ってしまうほど、
 人に対して、ぞんざいでいい加減な態度を取る人がいるものです。
 しかし、「人間的成長」という目で見ると、悪態をつく人というのは、
 自分を成長させたくない、ただのもったいない人・・という見方だってできるのです
 横柄なこと、人を傷つけるようなことをやっていると、
 ちょっとだけ楽はできるかもわかりませんが、その分、魅力が磨かれない。
 そういうことを、損失だと知るのが、大切なことなのです。



 さらに、です。
 「成長」という目で見れば、人間関係では、「見返りがあるのかどうか」という、
 器量や余裕度に欠ける考え方をとる必要もなくなります。
 ただし、「自分の成長のために」と善意を押し売りすれば、心のない奉仕の仕方になりますから、
 結果的に、成長もできない。
 あくまでも、自分を勘定に入れず、人の幸せをたゆまず考えているから、
 人間的に成長できるのです。



 「成長度」とか「成熟」というのは、人を元気に、明るく、気持ちよくしてきた量のことなのです。
 それも、結果的に得るものであって、計算してできるものではないのです。
 だからこそ、できるだけ善意で、しかも無意識のうちに人の幸せを第一に考えるから、
 ようやく自分という人間の芽が育っていくのです。
 そこを、人に不誠実にすることがどれだけ生産的でないか、
 私達は、もっと考えてもよいのではないでしょうか。



 無私の精神は、なかなか難しいもの。
 でも、だからこそ、そこに成長があるのです。

育み上げる。

2013年06月02日 23時24分23秒 | 青裸々日記。
クサノオウの花(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 冷たい水と冷たい水を混ぜると、冷たい水ができるだけです。
 あったかい水と冷たい水を混ぜると、ぬるい水ができます。
 ただし、あったかい水の温度が高いほど、ぬるいはぬるいでも、あったかいものに近くなります。
 そして、あったかい水とあったかい水を一緒にすれば、たくさんのあったかい水ができるわけです。


 これ、当たり前の話です。

 しかし、この「あたたかさ」を、人間の気持ちと考えると、
 人間の機微も、おのずとわかってくるのではないでしょうか。



 人間関係というのは、時に不公平だったり、理不尽な思いを強いられてしまうことがあります。
 水でいう、「冷たいものを差し出され、自分の温度が下がってしまう」ようなことです。


 そんな時こそ、未来を見つめていくのです。
 どんな空気を、幸せを、楽しみを作りたいのか、
 つらい時ほど、考えてみるのです


 相手とて、事情があって、元気がなかったり、たまたま気分が優れなかったりすることもあるでしょう。
 そんな時、ここの空気をどんなものにしていきたいのか、
 舵を切るのは、他でもない自分しかいないのです。



 不当な扱いを受けると、気分が悪くなるのもわかります。
 不愉快で、不公平な感じを受けるのも、無理はない話だと思います。

 しかし、人間関係というものは、そこにいる全員で作るもの。
 だとしたら、たとえ二人の間であっても、大多数の中の一人であっても、
 せめて自分だけは!という気概で、明るい空気を差し出していくことが、そこにいる人と良いものを育てる早道になるのではないでしょうか




 
 一人で無理をすることはありません。
 しかし、育てたい空気なり関係があるのなら、
 「差し出す」ことが、一番あったかくて効果的なのです。

「宗教書」。

2013年06月01日 23時04分14秒 | 青裸々日記。
バラの花(東京都渋谷区)

 こんにちは。
 いつもありがとうございます。



 自分の考え方に幅を持たせるために、色々な本を読むのはいいことです。
 そして、自分を磨く過程で宗教書を読む人がいますが、
 これ、使い方や読み方次第で、毒にも薬にもなるんです。


 よく、「世界の名言集」みたいな本を見ると、たとえば聖書や仏典など、宗教書から引用された言葉を目にはしませんか。
 なぜこういう思想色が強いものから引用があるかといえば、考えや心について究めるという点では、科学も心理学も、宗教も同じだからです。
 そして、究めた果ての境地に達した人が言うことなのですから、あながち間違いではないことだって、いくつかあってもおかしくない、
 こう考えるのが自然ですよね。

 そしてまた、色々な角度から物事を考えるから、本質がつかみやすくなる、
 だから、たまに宗教書を読むと、知識や見聞を広められ、頭も明晰になってくるわけです。



 ただし、です。
 宗教書だって、結局は人間の書いたものです。
 人間だから、偏りもあれば誇張もあるし、下手したら間違えまであるのが普通ですよね。
 そこを、ある特定の価値観が強い人が書いたものが宗教書なのですから、
 偏りが強い部分、強弁してしまっている部分があって当たり前です。


 宗教書に限りません。
 いわゆる「専門家」と言われる
レベルの人達でも、意見が分かれたり、派閥があったりで、
 結局は、どの意見がしっくり来るかは、自分次第の面もあることが多いのです。


 どんなことでも、一介の真実も、根拠に乏しい説も含まれている・・・という目で見ること、
 これこそが、本質を見抜くコツです

 そもそも、信じるか信じないかは理屈ではなく個人の感覚なのですから、
 宗教でも学問でも、嫌なものなら見なければいいだけのこと、
 楽しく気持ちよく、ためになることを吸収していけばよいのです



 宗教だろうとなんだろうと、本質が見抜ける人であれば、納得できるかできないかの感覚は分かるもの。
 たとえ非論理的でも、世の中、理屈だけで動いているのではありません。
 自分の感覚を信じて、色々なものに触れてみませんか。

3分で元気になる?

2013年05月30日 23時20分06秒 | 青裸々日記。
つつじの花(東京都江戸川区)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 「3分で前向きに」とか「一瞬で元気に」といったタイトル、
 ブログでも本でも、よく目にはしませんか?

 たしかに、インパクトを狙って売り上げに繋げようとする意図は分かるのですが、
 私に言わせれば、一瞬やつかの間ではどうにもならないこともあるのです。

 もちろん、小さなことに囚われて、そこにあるチャンスや幸せに気付けないというのは、
 非常にもったいない話ですし、後悔の種にもなりえます。
 やっぱり、明るく生きているほうが、幸せの側にいられることは、間違いないと思うのですね。


 しかし、です。
 もし仮に全てのことが一瞬で解決し、全ての感情がわずかな時間で癒されるのなら、
 そちらのほうが、どこか無理のある話だと思いませんか。

 たとえば、たとえ一時的であっても、大切なものや人と離れるのはつらいことですよね。
 そこを、離れた次の瞬間に気持ちを切り替えられるなら、
 「一体、大切に思う気持ちなんてあったのか」という気にもなりませんか。

 「悲しい」とか「寂しい」という、いわゆるネガティブな感情を持つことは、
 だらしない話、情けない話とも思われがちです。
 しかし逆に、「悲しい」とも「苦しい」とも思えないなら、そのほうが嘘くさく、
 また、人間性に疑問を持ったり、人格に浅はかさを感じませんか


 人間、嫌な感情を持って当たり前なのです
 物の見方や考え方は一瞬で変えられるかもしれませんが、
 大切に思う気持ち、愛着、重要性そのものまでは、一瞬で変えられるとは限りません。
 そして、見方や考え方を変えることが難しかったり、心の引っ掛かりか取れなかったという場合は、一瞬での解決ではなく、気長に直すのが早道だったりもするのです


 表向きの立ち居振る舞いをそれなりに調えたほうがいい場面は、表向きだけは取り繕えさえすればいい。
 でも、自分に嘘をついてまで、心の中の大切なものを、無視することもないのです。

周囲の態度。

2013年05月29日 23時29分01秒 | 青裸々日記。
深大寺の黄菖蒲(東京都調布市)

 こんにちは。
 今日も皆様、ありがとうございます。



 人間、独りよがりはいけません。
 自分のことしか考えず、利己的で、自分に酔うしか能のない人は、
 結局は人がついて来ませんし、あるいは、自分で気付く以外に道を修正する方法がありませんから、
 幸せが遠ざけることになるからです。



 しかし。
 「じゃあ、人の言うままを信じればいいんですか」といえば、
 それもまた、ちょっと違うのですね。


 たとえば、国宝級の茶器があったとします。
 しかし、もし価値がわからないか知らない人がその茶器を扱ったら、
 ぞんざいにしてしまうかもしれませんよね。
 人間であってもそれは同じで、
 いくらこちらがきちんとしていても、きちんと人を見ないよう人であれば、
 どんなにかいい加減な態度をとられるか、わかったものではありません。


 私達は、人の評価に頼ることで、独りよがりではなく、きちんとした価値観や距離感をもって、
 人と関わっていくことができます。
 だからこそ、人の評価を謙虚に受け止め、改善すべきは変えたほうがいいのです。


 しかし、人の評価がすべてというわけでもないのです。
 「邪険にされ続けたから」といって、たまたま人との接し方がなっていない人としか関われなかったというだけという場合もあるのです。
 つまり、本人の人柄や能力、実績や貢献度も、評価されたり、大切にしてもらえるかどうかは、本人の責任ではないこともあるのです
 言い換えれば、見る人が見ることで、初めて評価される場合も多分にあるのです



 ここまで話をすると、「結局、価値観をどこに置けばいいのさ?」と、疑問にもなるでしょう。
 しかし、真理は一つだけなのです。


 どうせ色々と言われるなら、のぼせない、へこまないことです
 そのかわり、「自分はこれだ」というものに、出来るだけ力を尽くしましょう
 そういう自負が、人に言われた言葉の吟味をやわらかいものにするのです


 誠実に生きましょう。
 出来るだけでいいです。
 その誠実さが、結局は生きる強さになるのです。

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