青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

東京大神宮

2010年09月30日 22時11分23秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 今日は所用がてら、いくつかの寺社に参拝しました。

 私は神社とか大好きなんですよ。
 やはり素直に、すがりたいと思うなら素直にお力をお借りしたほうが、
 現実問題、精神的に溜め込むこともなくなるんじゃないかなあ、
 勇気づけられて、それが行動に結びついたりもするんじゃないかなあ、
 こう思うわけです。
 参拝できるだけで、本当はありがたいコトなんですよね。

 ちなみに去年、神奈川県の東叶神社で社務所の方からおうかがいしたんですが、
 「神様はなんでも御見通し」なんですって。
 「下心があったらあったで、見透かされるからね」っておっしゃって下さいました。


 うーん。

 それを併せ考えて出た私の疑問は、
 「結局は自分でも何を考えているかよく自覚できていない」場合。
 列に並んでいざ参拝しようとすると、
 たまに頭が真っ白になってしまうんですよね(←私だけ!?)。


 ともあれ、自分自身いろいろと思うところがあるからなあ…。
 「天命を信じて人事を尽くす」、あるいは
 「人事を尽くして天命を待つ」って言葉、あるじゃないですか。
 まさにそんな自分でありたいなあ、と思っています。

傷が癒える=学び。

2010年09月30日 15時14分46秒 | 青裸々日記。
油壺にて(神奈川県三浦市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 生きていれば、信じられない位に気がおかしくなってしまうことがあります。
 挫折や失敗、深く傷ついた経験に、
 なすすべもなくこんなものに圧倒され、自分を見失ってしまう。
 「もう立ち直れないんじゃないか」というところまで行くと、
 もはや希望の光など、一つも見出だせなくなってしまうのではないでしょうか。
 逆に言えば、たとえ薄日であっても、希望の光を一つでも見出だせるようになれば、
 完全とは言えないまでも、
 もしかしたら1mmに過ぎないかもしれないものにしても、
 立ち直る契機になることがあります。


 では、その「契機」とはなんなのか。


 あくまで一個人の私見に過ぎませんが、
 人間、傷を癒している時が、一番学べる時ではないかと思うのです。
 ここに気づくかが「立ち直り」のポイントになる、
 こんな気持ちでいるんですね。

 失敗して、散々な思いをした。
 金輪際もう嫌だ。
 だから回避したい、自分を成長させたい。
 同じパターンやフェイクには引っ掛からないようにしたい。

 失敗を心から不幸なものと思う気持ち、
 あるいは、成功を心から幸せなものと再認識すること

 これを実際に修正、改善に繋がるような行動に転換することによって、
 人は学び、成長していくわけです。
 「失敗」や「挫折」と言うと大袈裟なものを思い浮かべてしまいがちですが、
 野菜の切り方、
 文章の書き方、
 友達との関わり方、
 細かく見ていけば、これら全てに言えることなのです。
 要するに、学習とは「癒し」であるという側面、
 こんな見方が出来得るというのが、私の考えなのです。


 もちろん、人間のすることです。
 「喉元過ぎれば熱さも忘れる」という諺もあるように、
 一回で全てを学び→すんなりと教訓を得て→それを活かす、
 こんな器用な真似は、望むほうが無理というものかもしれません。
 なかなか上手く成長しないことだって、
 人によって、あるにはあるわけです。



 しかし。


 なんらかのことを学ぶことで傷が癒され、次にまた傷が付きにくくなり、
 ひょっとしたら人を幸せにできるかもしれない、
 こう思えればこそ、立ち直る原動力になることも確かではないかと思うのです。


 傷を癒すと言うと、じっと立ち止まってゆっくりする方向ばかり考えがち。
 でも、自分から攻めることで、癒せる傷もあるのです。

 少しずつ、一歩ずつ。

 傷を癒せるなら、そして、なんらかの成長がそこにあるなら、
 これで構わないと思いませんか。

ストール

2010年09月30日 13時14分34秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 ここ数日、いやに冷える日がありますよね。
 しかたないんで、体が耐えられそうにない日は、
 ストールを装備するようにしています。
 私服の場合、ファッと羽織るだけで首元があったかくなるし、
 ごまかしや手抜き…もとい、「手軽な格好」でも、
 オシャレに見えるじゃないですか。
 なんかここ数日、気に入って使っています。


 ウケがよかったら買い揃えようかしら。

心底。

2010年09月30日 00時51分40秒 | 青裸々日記。
朝顔(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 2年で14kg。

 私がこの2年で減らした体重です。
 2年前、体重に対しては嫌に色気がなく、
 昼夜構わず、栄養バランスなどどこへやら、
 油物や肉々しいものを食べていたわけです。
 ところが、お腹に付いた肉を見て、


 …もうこんな腐った姿、嫌だ!!!!!

 と思ったんですね。
 どこか投げやりになっている自分が、もろに嫌いに、そしてもったいなく思えたんです。
 以上のようなわけで、その日から即、ダイエットが始まりました。
 現在、私の体重は標準体重より8kg少ないとかで、
 痩せやすい体質に変えていったからか、
 さらに減らせないか考えなくてもどんどん減ってくれています。



 ちょっとした自慢、もとい前置きが長くなりましたが、
 私がお話ししたいことが、少しおわかりになったでしょうか!?

 人間、「まあよいか」位のレベルにいると、
 なかなか変われないものなのです。
 大きな不満がなければ、変わる理由なんてありません。
 だからこそ、同じ習慣、同じ環境、同じ考え方、
 そして、同じ満足感で人生を推移させていくわけです。
 同じレベルにいて、いつまでも同じ満足感でいれば、
 なんの苦労もありません。


 …ということは。

 逆に考えれば、「同じレベルのことを繰り返す」ことに対する満足感が薄くなればこそ、
 「変わりたい!」と思えるようになるわけです。
 そして、「変わりたい!」からには、
 強い不満がなければいけません。
 それまで満足していたレベルなんですから、
 変わった先の将来像や自分に、大きな魅力を感じなければいけません。
 ちょっとやそっとの変化では、結局はその程度の不満なんて、
 怠け癖には到底、敵いません
 「面倒くささ」や「手抜き」>「変わる努力」という図式になってしまうのです。
 別に誰を責めたりしているわけではなく、人間、弱さや怠慢さの一つや二つ位、
 誰だって抱えているからです。


 「変わりたい!」という原動力。
 それは、怒りにも似た、
 言いようのない感情です。
 たとえるなら、苦労して取った最高級のレストランの食事を、
 出てくる順に残飯として捨てるようなものかもしれません。

 あえて非常にわかりにくい例にしてしまいました。
 私が言いたいのは、
 「変わりたい!」という時は、
 「自分はまだやれる、勝てる見込みがある!」と、
 無意識にでも思っている時

 つまりは、自分のポテンシャルを捨てていると思い知った時だと思うのです。


 人間、完全ではありませんから、どこまで変われるかは未知かもしれません。
 それでも変わりたいと思える心、
 これを持てた人が、「伸びていく人」と言えるのではないでしょうか。

しゃっくりが止まらない…

2010年09月30日 00時08分21秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 さっきまで、珍しいコトにお夜食を食べていました。
 もう食べなきゃ眠れない位に、胃が空っぽになっていて。
 なんだかカレーがすごく食べたくなって、
 引き締めたいと言えどワガママを優先してしまいました。


 で、おいしく食べていたわけなんですが、
 途中からしゃっくりが止まらなくなってしまい…。

 なんですかね、喜んじゃったんですかね、横隔膜とやらが。
 ホントは桃かみかんの缶詰で済まそうと思っていただけに、
 幸せな気分だったのは間違いありません(笑)


 たまに食べるから、スゴクおいしいんですよねえー。

永遠のアニキ肌

2010年09月29日 23時11分03秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 以前ちょこっと触れたんですが、
 私には妹がいるんですよ。
 私なんかよりずっとしっかり者でしかも気が強いので、
 真っ正面から口喧嘩にならないようにかわしたりあしらう術が、
 かなり身につきました。


 どういうことかって言うと、
 私は頼られると弱いんですよ。
 すっとこどっこいのくせにどうもお節介を焼くのが大好きらしく、
 甘えてばかりでなければ、少しでも力になりたいとか変に思っちゃいます。
 ある種まあ、「人から必要とされないと自分の意義を見いだせない、場合によっちゃめんどくさい奴」なのかも。
 歯車がマトモに回ればこの上ないんですが…。

 なんだろう、無理が大好きだから痛い目を見るのか(笑)
 もう少し人に甘えられたいこの頃です。

奮起しちゃうなあ!!

2010年09月29日 22時58分20秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 ここ最近、PV数が伸びていて、素直にうれしいです。
 自分に言い聞かせる言葉が時に人の心を打つ、
 勝手気ままに、わがまま放題に書いているこのブログで、
 もしそんな風に感じて読んでいただく方々がいるならば、
 こんなにステキなことはないと思うんですよ。


 書きたいことは沢山あります。
 明日の、未来の、自分のために。

大変。

2010年09月29日 11時28分53秒 | 青裸々日記。
朝顔(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 「毎日、大変でしょう!?」
 「いえいえ、そんなことありませんよ」
 「でもまあ、細かく見ると大変なこともあるんじゃないですか!?」
 「まあそうですね、たとえば…」

 これ、私の話術のひとつなんです。
 端から見れば滑稽そのものですが、
 白状してしまうと、私も同じ手に引っ掛かって(?)か、
 ついついポロっと愚痴や弱音、そして弱みを吐いてしまったことがあります。


 人間は「大変でしょう!?」という言葉にはいたく弱い生き物ですが、
 これはなぜなのでしょうか!?

 私達は毎日、目の前のことに対処して、そしてそのことに様々な思考や感想、考察を加えて、
 心の葛藤を抑えたり、行動をしています。
 そうすると、目まぐるしく展開していく流れの前に、
 自分の思考の限界、対処できるキャパシティー、
 感じ切れる心の余裕を越えてしまうのです。
 それが「大変だ」という、いわば便利な言葉で片付き、整理されてしまうというわけです。
 「大変だ」という人の行き着く先には、誰しもこんな側面があるのではないかと思うわけです。


 私は別に、「大変だ」ということをことさら敵視する必要はないと思っています。
 とりあえず処理しきれないなら「大変だ」といって心をごまかしておけばよい。
 そして、「ごまかし」を「ごまかし」で終わらせない、
 こんな心掛けを持つのです。


 誰にだって、キャパシティというものはあります。
 それがたまたま人より小さいとか、自分を情けなく感じるものだったとしても、
 「ないものねだり」は出来ません。
 自分に無い物は「無い物」として、
 「大変だ」と思ってしまった感情をいかに解放し、
 今度はそれに対処するキャパシティをいかに上げるかが大切
なのです。


 誰しも自分を最大限に活かして生きていたいものです。
 したがって、それがために、処理しきれないことを放置してしまいます。
 そして、「大変でしょう!?」という投げ掛けがあると、
 ついついそれに迎合してしまいがち。


 迎合することを悪いと言うのではありません
 「人間はそれだけ抱え込みやすい生き物なのだ」と知っていることが、
 「大変」な毎日を生き抜く上で、大切なことなのです。
 そうですね、皆さん!?

男磨き(笑)

2010年09月28日 22時42分09秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 入浴道具を新調しました。
 私はボディーソープやシャンプーにはある程度お金を掛けたいので、
 こういうAXEのようなステキな洗い用品を買えてよかったです。
 田中宥久子さんは著書で「お風呂場は戦場だ」とおっしゃっていましたが、
 うーん、わかる気がします。


 一つでも多く、自分を磨きたいです。

生きている。

2010年09月28日 11時07分13秒 | 青裸々日記。
ヤマノミ(東京都品川区)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 皆さんは、人を愛おしく思ったことはあるでしょうか。
 …別に変な意味ではありません。
 恋人はもちろん、家族、友達、お世話になった恩人、
 こんな人を思うほどに、
 「生きている」
 「そこにいる」
 これだけで幸せになるんですよね。

 人間、生きている時の一挙手一投足や、
 あるいは、どんな小さな思考も、
 それだけで素敵なものなんですよね。
 生きているだけで愛おしい。
 自分に命があって、息をして、歩いて、物事を考え、
 こんなものが当たり前に思ってしまいがちです。
 でも、愛おしく思う人が生きていること自体が素晴らしいというなら、
 もう少し視野を広げれば、命を持っている生けとし生きているものは全て素晴らしい、ステキだと言えるのではないでしょうか
 恥ずかしい話ですが、
 突き詰めて考えれば、人間は「自分自身が生きていること」にどれだけの価値を感じ、
 健全な意味で自分を愛おしいと思えればこそ、
 他人の中にもそれを見出だせて、幸せを感じられる生き物なのだと思います。


 私たちは目まぐるしい毎日に翻弄され、
 どうしたって、放っておくと生きている価値を見失ってしまいます。
 恋愛がいい例でしょう。
 付き合い始めは会えるだけで、一緒にいるだけで幸せなもの。
 でも、恋人と言えど元は他人です。
 だんだんとケチがついてきて、
 ついには「惚れた理由」すら、息苦しくなる原因になったりする場合があります。
 でも、最初は無条件に好きだった相手にそんな酷い視線を投げかけてしまうのは、
 やはり自分自身も「生きている」ことの価値を見失っている、という側面があるからではないでしょうか。

 自分自身に対しても同じです。
 隣に自分がいるとして、その息吹を感じられたら、
 それに対してどう思うでしょうか。
 どんなにダメ人間を自認する人でも、
 他人から見れば、その一生懸命に生きる姿が美しく映るのです。
 あるいは、捨て鉢で腐っている人だって、
 生きている喜びを忘れてしまっただけなのではないかと、私は思うわけです。
 どうしようもない現実に心を踏みにじられ、当たり前に思えることに感じられることに、価値を見れなくなってしまうからではないかと。
 だから捨て鉢になった人ほど、他人に対しても心を閉ざしてしまうのだと思うのです。

 「そのままで価値がある」
 「そのままで愛される」
 こう言うとなんだかクサいとか、甘やかしだとか、
 はたまたそれで安心し切ってしまう人がいます。
 皆さんは100万円があったら、
 それは大事に有効に使おうとしますよね。
 しかし、「生きている」価値を知ればこそ、
 それをどう使えばのか、どうしたら生き生きと使い切れるのかを考えたくなると思いませんか。


 お金やブランド品、あるいは肩書などステータスは可視化できるものだから、
 誰だって魅力を感じやすいのは事実でしょう。
 一方で「生命」や「愛情」、「性格」などは、
 その人の中にあるうちは絶対に見えない上に、
 価値基準、価値観覚が違うだけに、粗雑に扱われがちです。


 しかし。

 「生きている」
 「命をいただいている」
 これはみんな一緒。


 現実への対処で手一杯なものです。
 でも、この価値を噛み締められる人が増えれば、
 世の中はどんなに幸せで、前向きに自分自身を伸ばし、磨いていく人も、
 それに比例して増えるのだと思いませんか。

うそまもり

2010年09月28日 00時36分47秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 私は神社に参拝すると、どうしてもお守りを買いたくなってしまうのですが…、
 昨日もやはり買ってしまいました。
 亀戸天満宮で、見つけたんですよ。


 なんと「うそまもり」と言います!!

 最初は「お守りもどき」の嘘のお守りなのかな!?と思いきや、
 頂いてから、その由来がわかりました。


 これ、「悪いコトを嘘にして吉兆に転じる」との意味らしく、
 なあんだ、今の私にちょうどよい!?お守りになりました。

 嘘にしてくれ!って思うコト、たくさんありますよね(笑)
 皆さんもいかがですか??

亀戸天神(亀戸天満宮)

2010年09月27日 21時26分44秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 昨日はいろいろな神社をまわっていました。
 その最後に参拝したのがこちら、亀戸天満宮です。


 有名な神社ながら、私はこれが最初でした。
 入ってみると、結構広いんですよね。
 なんでも、藤の季節になると境内一面に咲き誇るんだとか。
 ちょっと楽しみです。
 笑顔で見れたらなあ、なんて思っちゃいます(笑)
 ちなみに境内からは、建設中の東京スカイツリーが見えます。
 

 御神籤も大吉だったし、昨日お話したように落としてしまった御数珠も見つかったので
 なんかいい予感がします。


 一日、一日を大切にしたいなあ…

人の痛み。

2010年09月27日 20時09分59秒 | 青裸々日記。
朝顔(東京都武蔵野市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 人として生きていくために、最低限必要なことはなんでしょうか!?
 衣食住が足りているなら、私は「人の痛みがわかること」だと思っています。

 人間、自分がかわいいものです。
 人に与えた10の痛みよりも、
 自分が受けた1の痛みのほうが、
 痛みの大きさとしてはより強く感じるわけです。
 それだけに、
 「他人の何倍も苦労してきたんだ」
 「本当の被害者は自分だ」
 こんな風に思ってしまいがちです。


 しかし。

 人に痛みや苦痛を与えてしまったのでは!?という想像力がないと、
 いずれはコミュニケーションが成り立たなくなってしまいます。
 コミュニケーションはよくキャッチボールに例えられますが、
 受け手が取りにくい球、
 受け手の方を向いていない球、
 そしてなによりも受け手に怪我をさせてしまうような球、
 こんな球を投げていては、そこに築くことの出来るハズの関係だって壊れてしまうのは、
 もはや自明の理ですよね。
 それを防ぎ、力を合わせ、心を支え合うために必要なのが、
 「人の痛みに対する想像力」なのです。

 自分の受けた傷はさておいて、
 「誰にどのくらい、どこまで深く傷を付けてしまったかな??」
 「自分に非はなかったかな!?」
 こんな想像力を持つことで、初めて人を大切にする第一歩を踏み出せるのです。

 もちろん、こんな考えを持っていれば、
 心は辛くなります。
 「罪悪感」というやつです。
 しかし、その「罪悪感」も考えようです。
 罪悪感を感じないようにするか、
 罪悪感を払拭すべく、自分に向上心を持つか、
 このどちらかで、話は全く変わってきます。
 そう、人の痛みを想像し、疑わしき言動が出たら、
 それを修正していけばよいだけの話
なのです。
 その姿勢こそが、自分を磨き、ひいては他人と上手くやっていくための貴重な指針を生み出すのです。


 誰だって、自己中心的な生き物です。
 そんな自分に待ったを掛けて、
 いかに人の気持ちをわかってあげるか。
 罪悪感に負けて、人の痛みに関心がいかなくなってしまう人がいます。
 罪悪感は厄介な感情ではありますが、
 なんのことはない、抱え込むのではなく、
 「もう二度と自分は毒にならないぞ!」との決意を持てばいいだけです。
 人間ですから、過ちはあるものです。
 それを自分なりにでも償うよう、ベストを尽くすことが求められるわけです。
 ここがポイントなのです。
 つまり、過ちを解消することではなく、
 1%でも解消しようと努力することが大切なのです。
 罪悪感は引きずるためではなく、自分を磨く砥石として使うのです


 そういう姿勢で絶えず自分の言動に修正を加え、変わり続けられる人こそが、
 つまりは「人の痛みわかる人」と言えるのではないでしょうか。

焼き鳥

2010年09月27日 07時10分57秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 昨日は友達と焼き鳥屋さんで飲んでました。
 ガンガンしゃべったなあー。
 お互いの不安からボーイズトークまで、
 ホンネでぶつかりました。
 あと、悲しいお知らせも聞かせてもらいました。
 自分なんかでも力を出さなければと思いました。
 とにかく楽しかったです。
 こういうのってホントに貴重ですよね。


 ちなみに私の大好きな焼き鳥のネタは「皮」です。
 また誰かと行きたいなあー!!

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