宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

「羅須地人協会時代」の賢治の農業指導(後編)

2017年01月10日 | 常識でこそ見えてくる






















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 指導の実際
 そこで次に、【リスト1】からこれらの信頼度の低い部分を除くと、それは以下のようなリストになる。
【リスト2】(「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したであろうことを裏付けてくる資料等)
③ 飯豊の役場近くになつた田圃道にさしかゝつたとき、頰かむり懐手して馬に手綱を頸にかけて、呑氣に馬をひいて來る五十歳許りの親爺さんに出逢つたのです。通りかゝるとき、
「おまへさんの田コ、この近くだんすカ」
 雪溶けの水でザンブと浸つてゐた田に手を突込んで、眞黑な土を取り出して、指でこすつてみたり、水洗ひして、掌でよく觀察してをつたやうですが
「去年の稻なじょだつたス」
「…………………………」
「肥料何々やつたス
 金肥なじよなのやつたス」
「…………………………」
 尚も掌の土をこまごまと調べてをつたのですが、
「それぢア、今年の肥料少し考へだほーよがんす」
「………………………………」
「………………………………」
汚くなつた手をザブザブと無雜作に洗ひ流してゐました。
 親爺さんは、
「おまへさん、どこの人だんス」
「近くの町の人ス」
 先生はかうして一百姓に、今年の取るべき稻作方法を教へたのですが、懇ろに教へ導いて行く樣子は、誠に快い感じを與へてくれるのでした。気障ではなく、心の奥底から迸る誠意の言葉であつたのです。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年)409p~所収
「宮澤賢治先生(照井謹二郎)」>
⑤ 五日間ほどでその相談所を閉ぢましたが、苗が水田に移されて大分經つた頃、賢治さんはこの地方の稻草の状況を視察に來たらしく、ひよつこり教え子の菊田の家に立ち寄りました。
「この邊を濟まないが案内して下さい。」
 焦げ穴のあるヅボンにゴム靴を履いた賢治さんは、行く先々でゴム靴を脱いで田の中に入り、手をつゝこんで水溫地中溫を調べ、莖をたはめて稲の強さを計り、その缺點を指摘し、處理すべきことをいひ付けて行きます。その後は九月まで一人で來て、その地方の田を幾囘見廻つたか判りません。大變な責任をもつたものです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年)、178p>
⑥ 賢治氏は稲作の指導といふよりはもつと根本的な土壌の改良、肥料の設計、勞働の能率等について、農村自體の向上のために非常な努力を拂はれました。齋藤彌惣さんの家にも年々二度位づゝわざわざ出かけて行き、その直接の指導にあたりました。
 鍋倉は町から近道を行けば約一里半ですが、賢治氏は志戸平温泉へ行く方の道、つまり縣道を眞直ぐに行つて、途中上根子や二ツ堰のの人たちを訪問し、その足で鍋倉へ行きました。鍋倉を終ると、湯口村の隣の湯本村へ行つて、小瀬川などを訪問して歸るのであります。…(筆者略)…
 賢治氏はそれから齋藤さんと畠へ出て行きそのへんの土を手にとりながら、土壌改良法に就いて、齋藤さんに解り易い言葉を以て叮寧に説明します。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版、昭和18年)、3p~>
⑦ 羅須地人協会ができるとともに、宮澤先生のお仕事は、ひろくふかくなつて來ました。花巻の町や、花巻の近くの村に、肥料相談所をつくりました。みんなただで、稻のつくり方の相談所をひらいたのです。そこで相談しただけでありません、來たひとびとのたんぼは秋のとり入れのときまで、見てまはつて、これはああすればよい、これはかうすればよいと、教へたのです。ときには、村村へ行つて、稻作の講演会もひらきます。もちろん、ただの一銭もお金はもらひません。
<『宮澤賢治』(森荘已池著、昭和18年)、175p>
⑩ 単に肥料や土壌のことばかりではなく、出來得るだけ農家自體の内容を聞いて、善處させるやうに智恵を借(ママ)してをりました。…(筆者略)…「齋藤さんとこの苗代は、苗代の位置が惡いし、芝垣も生えて日蔭になるから苗の生長もよくない。併し苗代を變へることはさう簡単にゆかないでせうから、來年はあそこの苗代を先づ半分こちらへ移し、翌年はまたかへてゆくやうにしてごらんなさい。」と親切に教へてくれました。
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年)>
⑫ 賢治の住んでいる下根子はじめ花巻あたりでは、春に田に種もみをまいてから、四十日目くらいに田植えをする習慣があつたが、賢治は、種もみをまいてから五十日目から、五日間位で植えるようにと教えている。
 何故かというと、四十日で植えてしまうと、田によけいに肥料がいるからであると教えている。
「田の草は一箇月のうちにみなとつてしまつて、あとは田んぼの中にはいつてはいけない。稻の根を切つてはいけない。一本でも稻の根を切ると、もう一粒だけ、實の入らない粒が出る。」
 と、いふように、まつたくこまかなところまで、ていねいに教えている。
 水が冷たいので、どうしても思つたよりも米の収穫の少ないといつて指導をうけにくる農民には、
「苗をうすくまいてね、つよくそだてて、三本くらい一株にしてやつてみて下さい。」
 と懇切な指導をしてくれるのである。
 田んぼに、硫安を使うひけつを質ねると、
「ああ、それは雜作もないことですね。硫安を土に混ぜ、その土を田にまけば、硫安は土と共に田の底に沈み、田に水のある場合も流れず、まきちらした硫安の効果は充分にあがるわけです。もちろん、田植えをした後の田にまくのですね。」
 こうした技術指導が、手にとるように行われたのである。賢治が、花巻近郊の農民から「肥料の神さま」といわれるようになつたことは當然なことであろうとおもう。
<『宮澤賢治 作品と生涯』(小田邦雄著、新文化出版、
昭和25年)、227p~>
⑬ 「齋藤さん、今年の稻の丈は去年よりどうですか。」と聞くと、齋藤さんはあいまいな面持ちをして、「どうもそこまで計つて見たこともありません。」といひますと、賢治氏は面を柔らげ「それは困りますね、農村人が他の文化より遲れてゐるやうにいはれたり、事実割の惡い貧乏に甘んじなければならなかつたりすることは、色々の社會的な關係もありませうが、農村自体がもつと聰明にならなければならない。唯昔からありきたりの習慣制度を守つただけで年月を過ごすやうでは、いつまでたつても、不遇の位置から逃れることは出來ません。それには心を、土壌にも肥料にも天候にも又農業に必要な知識へぴつたりと向けて、一日々々を大事な日として良い方へ向けてゆくより外に仕方がないのです。…(以下略)…」
<『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、酪農学園出版部、
昭和25年)、192p~>
⑭「昨年の稲作は案外よくまことに安心いたしました。それはあの天候に対して燐酸と加里が充分入つてゐたのが効いたのでせう。
 今年も昨年通りでいゝと思ひますが、なにぶんどの肥料も高くなつてゐますから、もしもつと安くしやうと思へば次の通りになります。但し結局は昨年通りが得でせう。」
 ◎肥料も大事ですがだんだん深耕してまだまだとる工夫をしませう。
<『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、酪農学園出版部、
昭和25年)、205p~>
 さてこの【リスト2】には、「羅須地人協会時代」の賢治が、いつ、どこで、誰に対してどんな稲作指導動をしたのかということが全て明らかになっている項目は一つもないとはいえども、少なくとも、それらの要素のうちの複数の要素が具体的である項目ばかりだからその信憑性は低くないと判断できるし、しかもそのような複数の項目があるということから、
「羅須地人協会時代」の賢治は飯豊の「五十歳許りの親爺さん」や鍋倉の齋藤さん、そして石鳥谷の菊田(実は菊池信一のこと)らに対して農繁期にも熱心に稲作指導をしたことがあるとほぼ断定できる。
ということがまず導ける。よって、「羅須地人協会時代」の賢治が農閑期には肥料設計に熱心に取り組んだことがあったということは「塚の根肥料相談所」についての証言等からもともと事実であったと私も判断できていたが、それだけではなく、
「羅須地人協会時代」の賢治は農繁期においても、稲作指導のために東奔西走したとまで言える裏付けは見つからなかったものの、熱心に取り組んだことがあったということはこれでほぼ明らかになった。
ということもまた導かれるだろう。逆に言えば、そのようなことであったということはこれでわかったのだが、それが「羅須地人協会時代」の農繁期全般に亘って行われ、そのために賢治が東奔西走していたのかとなるとそこまでの裏付けは見つからなかったから、
「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期に農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走したとまでは言い切れない。
ということもまた導かれたと言えるだろう。

 周囲からの評価
 すると思い出すのが以下の事柄である。その一つ目は、
(1) 羅須地人協会の建物のあった西隣に住んでいた協会員の一人伊藤忠一がいみじくも、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんの「構想」だけは全く大したもんだと思う。あの時代に今の農業改良普及所や、農業協同組合のやっているようなことを考えたんですから、たしかに賢治さんの構想はすばらしいものだと思う。
      <『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)、35p>
と語っていることである。つまり、「協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかった」と、直ぐ隣に住んでいた忠一が証言していたことになる。
 その二つ目は、
(2) 先にも引用した、花巻農学校での同僚で、当時花巻市農業共済組合長であった阿部繁の森荘已池の質問に対する、
森 賢治の肥料設計は古いんだと、とくとくとして言っているのを聞いて淋しいと思ったことがありましたが。
阿部 その通りです。科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。宮沢さんの場合、岩手県の農業を進歩させたとか、岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません。宮沢さんは試験場長でも育種研究家でもないのですから――。そして農業技術の方から見た場合は低くて貧しく、そしてまずい稗貫あたりの農業のやり方を幾分でも進歩させ、いくらかでも収穫量を高めたいということで、一生懸命やったので、岩手県の農業全般を高めたなどということはありません。そんなことではなくて、宮沢さんの場合、もっとも大事なことは、技術の根本にある、隣人を愛すという深い愛情にあることの方が、はるかに重大なことと信じます。
   <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)、82p~>
という回答である。当然農業に詳しくて賢治のこともよく知っているはずの阿部が、「宮沢賢治の農業というのは……岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません」という、巷間農聖とか老農とさえも云われているような賢治評とは逆の、専門的な立場から見た冷静な評価である。
 それから三つ目は、
(3) 吉本隆明がある座談会で、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
          <『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)、18p >
というように、「「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまった」と評価していることだ。
 そして最後の四つ目が、
(4) 板谷栄城氏の、
 賢治が健康を犠牲にしてまで行った農民への献身というのは、顔を見たり声を聞いたりできるという身近な範囲にとどまっていたのです。
     <『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)、190p>
という、賢治の献身は限定的なものであったという断定だ。
 そこで、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したであろうことを裏付けてくれそうな【リスト2】と、これまでの考察結果とを併せて得られる結論は、
 「羅須地人協会時代」の賢治は農民たちに対しての肥料設計・稲作指導のために奔走したこともあったとは言えるが、その時代全般に亘ってそうだったというわけではなく、少なくとも同時代の農繁期における賢治の農民たちに対する指導は、そのために東奔西走したと言える程のものではなく、案外限定的なものであった。
とするのが合理的なようだ。そしてこの結論が妥当であろうことは、
・下根子桜に移り住んだ最初の年である大正15年は当初から旱魃の恐れがあったし、実際にそのことによって米は不作だったのだが、そのことに対しての賢治の稲作指導があったという証言等は皆無なようだ。
・まして、同年の隣の紫波郡内は未曾有の旱害だったのだが、全国から陸続と届く義捐や救援活動をよそ目に、賢治は一切の救援活動をしなかったどころか、その惨状に関心すらなかったと判断される。
・そして昭和3年6月の農繁期の「約三週間ほど」の上京。
などからも裏付けられることに気付く。

 そしてまた、ここまでの考察によって、
 賢治の稲作経験とは花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではないのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽132号を、ただし同品種は金肥に対応して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやるという指導法であった。
ということが分かる。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、常識的に判断して、当時の大半を占めていた貧しい自小作農や小作農にとっては、現実的にはふさわしいものではなかったということになる。
 つまり、賢治の稲作指導には初めから限界があったということであり、とりわけ、当時の貧しかった小作農家にとっては賢治の稲作指導はほぼ現実的なものではでなかったと判断できよう。しかも、出来高の半分以上も「搾取されるような小作料(〈註一〉)」であれば、小作農たちにそれ程の意欲が湧かなかったのは当然だったであろう。そのあげく、当時米価は年々急激に下がっていった(〈註二〉)から、金肥に対応して開発された品種に頼って増産を図ろうとした場合に、シェーレ現象に見廻れてしまった中農もあったであろう。
 まさに、陸羽132号の普及に伴って、もともと「肥料に適合する品種改良という、逆転した対応にせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった(〈註三〉)」と『岩手県の百年』(山川出版)が指摘するような皮肉な結果を招いたということもあるようだ。あげく、賢治の肥料設計や稲作指導に従った農家であっても、その結果は上手くいったことももちろんあったであろうがそういかなかったこともあったことは当然で、いかな賢治の指導といえども予想を裏切る自然現象の前では如何ともし難かったであろうことは自明なことだ。

 ところで、賢治が石鳥谷に「塚の根肥料相談所」を開いて(『新校本年譜』によれば)4日目の日の、昭和3年3月18日付『岩手日報』に次ような記事が載っていた。
 和賀郡に變わった團体二つ
  宮田式と松((ママ))山式 農民の目を引く
和賀郡には郡農會並びに町村農會の指導支持と全然關係なく全く獨立して郡下農民の注目を引いている農事團体が二ヶ所に設立されてある、即ち一つは一昨年縣會で大分問題となった更木村を中心とする宮田式養蚕法であり他は岩崎村根拠とし藤根、江釣子兩村にかなり根強い團体を持つ杉山式農事改良組合のそれである。…(筆者略)…また杉山式に於ても右三ヶ村で三百名から會員を擁し漸次他町村まで進出して行く有樣で郡下に於ては農民も餘程注意の目を傾けるやうになつたので、郡農會では今さらながら此の二つの農事團体の指導方針および生産技術に注目を與へ本年から實際に調査を進め果たして有利なるものか効果的であるかを詳細に硏究し郡下からの紹介に對してまごつくやうな事はないやうにすると技術員は語つている。
 そこでこの新聞報道から窺えることは次の三点である。まず第一点目が、当時は賢治のみならず宮田や杉山のように、個人的に農事を率先して指導し、農村の発展のために献身しようとしていた人物がいた時代だったということである。
 そして第二点目が、この「杉山式農法」はかなり広範囲に知れ渡っていたし、多くの農家がその農法を取り入れていたであろうということである。なお、賢治の詩「〇九二  藤根禁酒会へ贈る 一九二七、九、一六、」は「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが」で始まっていることから、賢治も遅くとも昭和2年9月時点でこの「杉山式農法」のことを知っていたということになろう。
 そして最後の第三点目が、この頃であれば賢治が下根子桜に移ってから約二年半も経っているのだし、この年昭和3年3月15日からは大々的に石鳥谷で「塚の根肥料相談所」を開設したというのだから、当時「肥料の神様(〈註四〉)」といわれていたともいう賢治なれば、この記事「和賀郡に變わった團体二つ」と同様なニュースバリューがその相談所の開設にはあったはずだが、実際にはその開設を含む賢治の稲作指導法等は一切報道されていなかったということである。
 ということからは逆に、上述したような賢治の稲作指導法は「杉山式農法」と比べて当時の地域社会からはそれほど認知もされていなかったし、評価もされていなかったということが導かれそうだ。よって、巷間、「塚の根肥料相談所」の開設及び実践は非常に高く評価されていると思うのだが、その再検証が必要だと言えそうだ。
 ちなみに、梅木万里子氏の論文「「藤根禁酒会へ贈る」をめぐって」によれば、花巻農学校の賢治の教え子の佐藤栄作氏は次のように話していたという。
 私は羅須地人協会へ行って宮沢先生から稲作指導は受けなかった。その当時、茨城県から杉山善助という翁がやって来て稲作の実施指導を各地で行っていた。「天は父であり、地は母である。」という杉山善助からは農業の実施を学び、宮沢先生からは農業の基礎を学んだ。
       <『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』、177p>
 一方で、杉山善助の稲作の実施指導、いわゆる「杉山式農法」について梅木氏は同論文において、
  杉山式
   稲作法
    成績最も良好
 和賀郡岩崎村にては本年より杉山式稲作法を試みつゝあるが、従来の耕作法に比し金肥三分の一を減じたるにも拘はらず成績良好にて反当四石以上の収穫を得る見込みで此の試みは本県に於いて同村はこうしであると
                      <同、179p>
というように昭和2年8月21日付『和賀新聞』で報道されていたということを紹介していて、同農法は「金肥三分の一を減じたる」ものであることがわかる。したがって、賢治の稲作指導法の持つもともとの「限界」ゆえに、他の指導法である「杉山式農法」に奔ったという人もあるのは当然のことである(し、誰もそのような人を責められない)。
 また森荘已池は、『宮澤賢治』(小学館、昭和18年)の中で「十五 肥料の神様」という項を立て、
 そのころ、「杉山式增収法」といふのがはやつて、その式は、うんと肥料にお金をかけるのでした。それで失敗した人たちは、北海道や樺太に逃げ出しました。宮澤先生は、できるだけお金をかけないで、どんなに天候のわるいときでも、安全に毎年とれるやうに教へてゐました。ですから、めつたに失敗する人がありませんでした。村村の人たちは、宮澤先生を、「肥料の神様」といふやうになりました。
       <『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館)、181p>
と賢治のことを褒め称え、「肥料の神様」とまで譬えているのでそれが事実だったと思いたいが、森荘已池の記述はそのまま額面どおりに受けとることができないことは過去の多くの事例が示しているところであり、注意を要する。
 例えば、森は賢治の稲作指導については「できるだけお金をかけないで、どんなに天候のわるいときでも、安全に毎年とれるやうに教へてゐました」と書いている一方で、「杉山式農法」を「うんと肥料にお金をかけるのでした」とくさしているが実際にはそうとばかりも言えないだろう。実は、それこそ賢治の稲作指導法はお金がかかる、つまり金肥に対応して開発された品種陸羽132号による増収法であった。しかも、いかな賢治といえども「どんなに天候のわるいときでも、安全に毎年とれる」ということは土台無理なことであることは常識なのだから、である。
 そこで私は、これまで「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導を過大評価してきたということを認めざるを得ないのだが、何故そうなったのかといえば、それは「賢治年譜」等を少しも疑わずに信じてきたこととか、巷間言われていいる賢治像を素直に信じてきたからだ。それでは私のかつての賢治像はどんなものだったのかというと、それは、先に引用した谷川徹三があの講演で、
 その地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稻作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床までもちこんだのであります。
と聴衆に語った、まるで老農や聖農ようなこの賢治像だった。
 しかしその現実は、「羅須地人協会時代」の賢治の農民たちに対する稲作指導を通じての献身はそれ程徹底していたものでもなければ、継続的なものでもなく、まして貧しい農民たちに対してのものではあり得なかったということであり、どうやら吉本隆明が「やっては止めでおわってしまった」と言い切っていたあたりがその献身の実態だったということになりそうだ。

<註一> 昭和14年に出版された『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治先生」の中で照井謹二郎は、
 近村の百姓達は先生を「農民の父」と仰ぎ、「肥料の神様」として、尊敬してをつたことも偶然ではないでせう。
と述べている。

 「羅須地人協会時代」の農業指導の悔い
 そして一方の賢治自身もしかりであり、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡における、
根子ではいろいろとお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
     <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
という記述からその「献身の実態」が容易に窺えるし、それも己の「慢」が招いたものであったことを悟り、「根子」における自分自身の営為が完全に失敗だったことを吐露して恥じ、それを悔いて謝ったのであろうと、私自身は解釈している。だから、昭和6年の11月にあの手帳に書いた、
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
のここまでは、基本的には賢治とすれば「根子」でできなかったり、そうでなかったり、はたまたそうしなかったことばかりであり、だからこそ最後に、
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
   <共に『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
と締め括って悔恨し、懺悔して願ったのだと私には素直に理解できた。
 それは、例えば下根子桜における賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」しようとしたこともなければ、しようと思っても土台無理だったことは既に以前検証したところであるし、そこまで検証せずとも、「小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」の一つとっても直ぐ納得できることであろう。あの羅須地人協会の建物がどんなものであったかを思い浮かべればそれは全く逆の建物であることからそれはいともたやすく了解できるだろう。あるいはまた、「塚の根肥料相談所」の開設にしても、己の「慢」の為せる業であり、自分の思いつきの、継続性のないものであったことを悔い、恥じていたに違いなく、それ故の先の忠一宛の謝罪の書簡となったということは充分にあり得たであろう。
 そしてこの「悔恨し、懺悔して」はやはり同じ頃に書かれたであろうといわれている『グスコーブドリの伝記』(『グスコンブドリの伝記』)にも垣間見られる。ただし私の場合は、ブドリが「ありうべかりし賢治」とは思っていない。そうではなくて、ブドリのような状況にかつてあったにもかかわらず全くそうできなかったあるいはしなかった己を悔い、これからはブドリのようにありたい(サウイフモノニ/ワタシハナリタイ)という懺悔と願いと祈りが賢治をして『グスコーブドリの伝記』を書かしめたのだと思っている。つまり、〔雨ニモマケズ〕と「グスコーブドリの伝記」は通底しているのだと、私はやっとそのことに気付き始めている。
 つまるところ、「羅須地人協会時代」の賢治の農業指導については、
 「羅須地人協会時代」の賢治の農民たちに対しての稲作指導や肥料設計を通じての献身は過大評価されてきたようだし、ましてそれが貧しい農民たちのためであったということはほぼなかったと判断するのが合理的な判断であり、「羅須地人協会時代」の賢治は巷間いわれているほどには農民たちのために東奔西走していたわけではなかった。
というのが実際であり、真相であったということを私は覚るしかなさそうだ。
 そなお最後に言っておきたいことがある。それは、だからといって賢治の作品の輝きが色褪せるということでは全くないということである。賢治の多くの作品は相変わらず燦然と輝いているはずだし、今後も賢治ほどの作品を書けるような人物はそう簡単には現れないであろうことはほぼ明らか。
 しかし、かつてとは違って賢治作品の素晴らしさは万人のほぼ認めるところなのだから、何も彼がそうでもないのに「聖人」や「聖農」に祭り上げておく必要はもはやなかろう。そんな偽りの《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》もうそろそろ戻してやることが賢治のためでもあるのではなかろうか。そうすれば、これからの若者たちはより一層賢治と賢治作品に惹かれるようになるのではなかろうか。
 そして私自身はといえば、例えば『春と修羅 第三集』所収の「和風は河谷いっぱいに吹く」等には以前ほど感動しなくなってしまったが、相変わらず「春と修羅」は全くといっていいほどには解らないものの、あの「雛子剣舞」を基にしてよくぞここまで勇壮な詩に詠んだものよと賢治のそのずば抜けた創造力に感心する「原体剣舞連」や、私から見ればそれこそ「第四次」の研ぎすまされた感覚がなければ書けないだろうと思われる童話「おきなぐさ」や「やまなし」は、今でもそしてこれからも大好きな賢治作品であり続け、何度読んでも感動は薄れることはないだろう。

<註一> 『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)によれば
『大正十年府県別小作慣行調査集成』―農林省調査・土屋喬雄編―によると、我が国の小作農家(純小作と自作兼小作農家)の合計戸数は、総農家戸数の約七割を占め、小作地面積は、総耕地面積の約四割七分をしめていた。また収穫高に対する現物納の小作料の割合は、岩手県を例にとると、
  高収穫田  五十六パーセント
  普通収穫田 五十四パーセント
  低収穫田  四十七パーセント
ということである。
 あるいは、大正15年7月29日付『岩手日報』によれば、
 花巻税務署管内の稗貫、和賀郡下の小作料は全部纏まらねば確定的に判明しないが大体において小作料徴収の歩合が地主小作とも五分々々の割合になつてゐるらしい。
ということだから、
 大正末期昭和初期に稗貫の小作料は約5割程度であった。
という蓋然性が高かろう。
<註二> 『宮沢賢治の農業と文学』(大島丈志著、蒼丘書林)の218pの「グラフ⑤ 岩手県の米穀収穫高と米価の変動」等を参考にされたい。
<註三> 『岩手県の百年』(山川出版)によれば、
 ところが大正末期から「早生大野」と「陸羽一三二号」が台頭し、昭和期にはいって「陸羽一三二号」が過半数から昭和十年代の七割前後と、完全に首位の座を奪ったかたちとなった。これは収量の安定性、品質良好によるもので、おりしも硫安などの化学肥料の導入に対応していた。しかし、肥料に適合する品種改良という、逆転した対応にせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった。半面、耐冷性・耐病性が弱く、またもや冷害・大凶作をよぶことになった。戦時期には、農業生産の低下と肥料の不足で、質より量の多収品種へとかたむき品種改良も頓挫した(『岩手県農業史』、『岩手県近代百年史』)。
  <『岩手県の百年』(長江好道ら共著、山川出版)、124p~>
<註四> 昭和14年に出版された『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治先生」の中で照井謹二郎は、
 近村の百姓達は先生を「農民の父」と仰ぎ、「肥料の神様」として、尊敬してをつたことも偶然ではないでせう。
と述べている。
***************************** 以上 ****************************
《鈴木 守著作案内》
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