SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

永瀬恭一氏の違和感について その3

2006年05月12日 | Weblog
>それは作品の射程距離を「今」や「明日」などという刹那的な短さにおかずに、100年とか、500年とかの単位で考えることに他ならない。狩野永徳の政治性やジオットの経済的野心にあった「戦略」が消え去っても、彼等の作品のバリューは維持されている。「美術市場」に向けてではなく「美術(史)」に向けて製作をしてゆく、それ以外に、作品の価値を維持向上させる手段などありはしない。

 芸術作品の普遍性とは、「今」や「明日」どころか「一瞬」のなかに永遠を見ることに他ならない。そこでは100年とか500年とかの「単位」など何の意味ももたない。そもそも作品の価値を未来に向けて投企することなどできない。永瀬氏の考えには、池田孔介氏の言葉を借りれば、「私にはこれしかできません」というような未遂性なしの貧しさがあからさまに出ている。つまり未来(もしくは過去)を既にできている「既遂状態」としてのみ考えてしまっているのだ。そんな「他者」のいない「美術(史)」に向けて製作をしても仕方あるまい。(続く)