SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

池田のアニキと『国家の品格』

2006年05月08日 | Weblog
 池田信夫氏による『国家の品格』への批判が止まらない。池田のアニキほどの人がどうしてこんなに低級な議論を続けているのだろうか。何度でも繰り返すが『国家の品格』は漫画であり、その限りにおいて読まれるべきだし、また実際そう読まれているはずだ(まさか違うのか?)。『少年ジャンプ』や『コロコロコミック』の内容を「論理的にデタラメだ」といって怒ってみても「情緒的に大人気ない」だけだろう。それでも我慢ならないのであれば、たとえば『国家の品格の嘘』といったような暴露本をやはり新書で刊行し、同じ土俵で相撲を取ってみせるしかない。藤原正彦氏のふんどしで相撲が取れるのは池田のアニキしかいないし、あるいは『国家の品格』の半分も売れれば、いったいどれほどの印税が入ることか。

備忘録1

2006年05月08日 | Weblog
「ある関係性を表現過程の中に作為的、意識的に仕込むことはできない。何故なら、もし相互の了解の中でこれが成立するのであれば、本来の意味からずれ、予定調和の出来事として成立してしまう」(川俣正 『先端芸術宣言!』(岩波書店)より)

「しかし私は、自分の議論の数を十八に限らなくてはならない。この討論の規約の一つは(最終の審級においては、それは最も限定力の弱い規約だとは限らない、とSecは言っている)、この討論が、もし起こる=場をもつのなら、主に音声的なタイプの書記法、そしてより正確にはアルファベット・タイプの書記法(graphie)という境位において起こる=場をもつということである。これは、恣意的な部分をもっている。その恣意性の効果はこうである。私は、もはや十八文字あるいは十八発しか手元にもっておらず、それで済ませなければならない、ということ。何とつまらない=偶然的な(contingente)制限なのだ、とひとは言うだろう。何と作為的で外的な制限なのだろう、と。今度は、テクストのなかにこれらの縁を統合し、これらの枠を考慮に入れていくのだろうか? これらのすべての寄生物=雑音(parasites)を、この言説のエコノミーのなかに体内化していくのだろうか? 計算のなかに、紙の面積や使える時間の内容等を統合していくのだろうか? そして、なぜタイプライターの残量ではいけないのか? どうしていけないのだろうか? これこそが問いなのである」(ジャック・デリダ『有限責任会社abc...』(法政大学出版局)より)