毎日メールチェックをしている。 そして、その全てを削除している。 メールアドレスは3個持って居て、どれもほぼ同じメールが届くのである。 旅行会社から、Amazonから、特定のメーカーから、その他のどうでも良い内容のメールである。
時折詐欺メールだろうと思えるような物もあるが、まっ、それはほとんど無いので、気にする程では無いだろう。 いずれにしても、毎日メールソフトを開いては削除する事が日課になって居る。 昔はメール友達とのやりとり等も楽しい時期もあったが、今はメールでのやりとりは皆無だ。 必要な要件はLINEで済ませているし、急な用なら電話で話をするし。 ただし、ギター講座の申し込みや、ネット通販などの送付や発送などのメールもある。 コンサートの申し込みのやり取りなどもそうだろう。
しかし、そんなメールはかなり少ない。 通常はどうでも良い内容のメールなので、ほとんど読む事がない。
さて、今日もバイトも無いし、天気は雨だし、洗濯物は浴室乾燥で乾燥させているが、それ以外には特にやる事は無い。 今日もギターを弾く事ぐらいだろ。 筋トレはどうしようかな?
3日間の休養日も取れて、今日はトレの日であるが、明日はバイトなので、明日の予定ではある。 ただ、なんとなく、今日はトレして、明日はバイトだがどうしようかな・・・。 まっ、夕方の気分次第と言う事にしよう。
今朝はAudibleで吉本ばなな「幸せへのセンサー」を聴いている。 2時間程度のエッセイーである。 内容は幸せとはなんだろうか? と言うテーマでの話。 彼女の思っている幸せである定義・・・なんだろう。 ただ、語り口は普段の口調で、特に定義などと言うような感じではない。 私がこれまで思っていた生き方や、考え方との共通点が多くあり、納得出来る点が多い。 ただ、これを聴いて何かが変わったりとか、何かを得たりとか・・・。 目新しい事を知ることはないだろうと思った。
要するに、自分に自然体であるべきと言うこと。 センサーと言う物。 これはこれまでも私も何度も経験した事があるが、ある意味では虫の知らせと言うか、何か違和感感じたりとか、何か自分の感性が感じ取る感覚である。
そうした感性と言うか、何か感じる物に素直に従う事。 それがその時に最適な選択である事がある。 理由は分からないが、何か感じる物があるときは、素直にその感性に従う事が最善の選択となる。
これは人間関係や何かをやるときとか、何かを選んだりする時とか、何かを決断する時とか。 お金や内容やその他の条件ではなくて、何時か感じる物を素直に受け止める事。 何かを選択する時に失敗するのは、そうした自分の感性と言うか、作家の言うセンサーの反応を無視して、他人の思考だったり、世間の常識だったり、誰からの助言だったり、一般的な損得関係だったり、そうした物を物差しとして選択することは、自分の本当の意思とは違って居る事が多く、結局は失敗する要因となったりする。
誰でも生きていれば多くの失敗を繰り返す事になる。 特に若い時はその若い時の勢いとか、体力的な余裕とか、向こう見ずな意欲とか、そうした事もあり、失敗を繰り返す事の連続だろう。 しかし、そうした経験から生まれる感性は年齢を重ねる事で敏感になるし、より繊細な感覚をキャッチする事が出来るようになる。
そして、自分が何をどのように生きる事に意味を見いだしているのかを知る事が出来るようになる・・のである。 もちろん、そうした感性を全く無視して生き続ける人も多々居るだろう。 何時も他人や周囲の常識に合わせて生きる事が全ての事になっている人や、仕事以外の事は何も思考する事が出来なくなった人とか。
特に日本の社会は他者に合わせる事が当たり前になって居るし、会社でも集団的な思考が重んじられる傾向は今も変わっていない。 なので、定年退職してから特に趣味なども無い人は無力感に陥り、無気力になるり、うつ病になったりする。 そして、痴呆になったりすることも少なく無い。
社会的な規範というか、法律と言うか、そうした常識を覆す事は自分の個性を維持する事とは全く関係無い。 他人に目立ったりする事が好きな人もそれは個性でも無いし、本来の自分を大切にしている事でも無い。 他人を意識して生きる事自体がすでに自分では無いのである。 人と違った物を求める事や、人と違った事をする事や、人と違った物を作り出す事も、人と違った事を求める事は、すでに他人が基準になった物であり、それは自分が本当に求める居る物とは違う。
例えば、芸術は個性が重要だと言われている。 他人との作品の違いを求める事が芸術だと思っている人も少なくない。 ピカソやウォーホールやゴッホ達だけでは無く、近年の芸術作品の多くはその技法や表現の違いが重要に見える。 しかし、本来はそうした違いは意味などない。
芸術の本質は他人との差でも無いし、他者との違いを競ったりする様な物ではない。
その作家の本来の思考や意思、概念、観念的でも、客観的でもいいし、作家の趣向でも良いだろうが、それを作りたいと言う強い意志がそこに積み上げられて居る事だ。
傑作と言われる作品の多くも、決して誰かと全く違った物ではない。 どんな芸術作品も必ず作家が影響を受けた作家がいるし、必ず目指す作家がいたりする。 そうした既存の作品と手がかりとする事がほとんどである。
逆に言えば、仮にピカソが好きでピカソと同じスタイルの絵を描こうとしても、決してピカソと同じ絵は描けないのである。 そこには自分の個性、自分の経験や生きてきた証と言うか、そうした物が必ず作品に現れるし、自分を消し去る事など出来はしない。 なので、意図して個性を意識する事など必要ないのだ。 ただ、こうした絵が描きたい、こうした絵を描こうとするだけで、そこを追求する事を継続するだけで良いのである。 これは絵だけでは無く、人間関係も同じだ。 誰かに自分を表現しようとする必要も無いし、誰かの個性をそのまま感じる事も出来るだろう。 絵を鑑賞するように、他人の個性を鑑賞する様な視点も楽しいだろう。 自分の個性との違いを感じたり、自分の個性との共通点を見いだしたり、そんな風に視点や思想を持つことが出来るなら、おそらく、幸せは何か・・・何が幸せで、何を幸福と実感する事が理解出来るだろう。
これは私もそうだが、長く生きてきて、いろんな経験をする事で、共通する普遍的な物の根底にある物差しができあがるのである。 そうした自分の物差しを常に基準にして生きていく事。 その物差しが今後もどのように変化して、進化?して、どのように幅が生まれ、どこまでその大きさが広がるのか。
少なくとも、私は日々の暮らしがこれまでで経験する事が無い程に豊かになって居る事を実感するのである。 毎日ギターを弾いて過ごす事ぐらいだが、それが出来る今のこの自分が一番幸せだろうと思うのである。
現役でバリバリ働いている人から見ると、毎日家でのんきに暮らす日々は退屈だろうと映るかもしれないが、いやいや、そんな事は毛頭ない。 毎日家事を済ませて、ギターを弾いて、夕方に筋トレをして、夜は早くベッドに入って寝る。
こうした繰り返している日々だけで、私は十分に充実していると実感しているし、これ以上の幸福は無いだろうと思って居るのである。
週に2回のバイトもそうだけど、ほんの少しは他人との接点もあるし、ギター講座などでも同じギター好きな仲間との交流もある。 夫婦中もそんなに悪くも無いし、兄弟との中も至って良好である。 家計の経済的な事も今の所は十分に余裕も有るし、今後もそれほど困るような事にはならないだろうと予想出来る。
後はこの身体がどこまで健全で自由に動き廻る事が出来るだろうと思う事。 誰でも死ぬまで健康な身体で有りたいと願うだろう。 私も死ぬまでギターを弾いて過ごそうと思っているし、死ぬまでしっかりと歩き、好きな物を好きなだけ食べ、酒を飲み、タバコを吸って、毎日気楽に暮らす事を望んで居る。
最近は筋トレも流行の様に広がっていて、ジムなども増えたし、気楽に出来るような仕組みも出来ている。 ただ、無理をする事は決して良い事では無く、ダイエットの為にジムに通い、食事にも気をつけて、生活にも気をつけて・・・。 そうした事が好きで、それが生き甲斐となるならそれも良いだろう。 ただ、ダイエットの為に筋肉を付けたり、体型を維持するために日々の生活に気を遣う事は逆効果だ。
私も最近は3日間に1回、15~20分程度の家トレをしているが、食事に気を遣ったり、体型に気を遣ったり、酒の量に気を遣ったりする事など全く考えて居ない。
そうした自分の意思を押し殺して、本来やりたい事ではない事を強いる事は、すでにストレスを溜める物であり、そうしたストレスは筋トレの効果を全て逆効果にする要因となる。
ダイエットで失敗する人のほとんどは無理な方法で痩せる事を目指したりする事である。 逆に筋肉肥大を目指す事も同じで、無理な重量を扱ったり、オーバーワークで筋肉の成長を妨げたりする。 私も以前は週5日間もジムに通っていた時期があり、それなりに筋肉肥大を目指していたし、実際に筋肉も大きくなり、扱う重量も増大していた時期がある。 しかし、そうした時でも、一体何のために苦しい思うをしてやっているのだろうか? と言う疑問もあった。 もちろん、体型も筋肉も自分の理想とする物に近づく事が出来た。 しかし、本当にそれが自分の思っている事だろうか? 身体の体型なんてどうでもいいだろう・・・。 否、体型は私の場合には本来が痩身で、スタイルは悪くないので、体型の為では無く、筋肉増強のためだったが。
途中で挫折する人の多くは、結局は本来自分が何を目指していて、何を求めているのかを明確にすることが出来ない人なのである。
単純に痩せたいから、ダイエットの為だから・・トレーニングをする。 これは継続するには意識としても弱すぎる。 はたして、ダイエットをする意味は何処にあるのか。 大会で優勝する為とか、ダイエットしてモデルに成るとか、スタイルを良くしてイケメンの男性との恋愛を成功させるとか。 そうした意思がどの程度本気なのかである。
これは確かに堅い意思が必要だろう。 そうした意思を貫く事はそれほど簡単ではないだろう。 ほとんど人はダイエット目的が単なる痩せる事だけだから挫折するのだ。
これは何もダイエットに限らず、ギターを継続して続ける事も同じなのである。 単純にギターが上達したいとか、憧れの曲を流暢に弾きたいとか、そうした意思がどの程度強いのか。 でも、これもかなり無理を強いる事だろう。 練習時間を多くして、日々弾き込んだり、がむしゃらに練習する事に繋がったりする。
ある意味ではそうした当初の意思がギターを弾き始めてから、その難しさに気圧されて、挫折する人は10人に9人も居る事が現実である。 では、残りの1人は強い意志があったのだろうか?? 否である。 私もすでに4年半以上が過ぎた。 まだ中級程度のレベルである。 当初は上達する意思が強く、暇があるとギターを弾いて、練習をする事に義務感すら感じていた。 しかし、そうした意識を強く持ちすぎると、ギターの難しさだけに視線が移り、どうしても楽しい練習にはならない。 そこで挫折人が多く居るが、私は若い頃のギター経験があったので、クラシックだけでは無く、ポピュラー曲やjazzなどへの憧れもあり、そうしたいろんなジャンルの曲を弾く事で気張らしが出来る事もあり、クラシックギターを主体として、他のジャンルの曲などで気分を整えるような事も出来た。 今はクラシックが好きで、クラシックに専念しているが、もちろん、無理はしない。 慌てない、焦らない、先を急がない、妥協しない。 そして、自分を信じて、必ず弾ける日が来る事を確信して練習する。
何よりも、ギターを弾いていて楽しいか? 楽しく無いと感じる時には弾かない。
休憩を沢山取りながら、身体も無理をさせない。 気持ちも無理をしない。 誰かと比べない。 毎日ギターを弾き、磨き、ギターが好きだと実感する。
この繰り返しが続いて居るだけである。 そして、今は以前よりもさらにギターが好きになったし、これからもギターを手放す事は無いだろうと思っている。
さてと、こうして、人生はどのように変化して、何に出会い、何を得る事が出来るのか、生きて行く事は確かに楽しいと思えるようになって来たのである。