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悪妻石原まき子に振り回された渡哲也の寂しい後半生

2020-08-15 11:23:25 | ブツブツ日記
悪妻石原まき子に振り回された渡哲也の寂しい後半生
 石原プロというのは、名前だけの奇妙な会社だった。そもそも代表映画というのが、一作もない。というか、裕次郎死亡後は「裕次郎追悼記念作品」という大作映画を作るつもりだったのだが、予算も脚本もこれに失敗して実現しなかった。代わりに、悪妻未亡人の「小樽に記念館作りましょう」という荒唐無稽の発想にプロ全体が30年も、右往左往させられて、その最後の解散時期に、ついに渡も人生ついえたという可哀そうな最後だったと思う。
 裕次郎健在の頃は、まき子さんは北原三枝そのままに芸能界から消えたという、山口百恵伝説に例えられていた。子供がいない夫婦だけど、あの人は裕次郎の良妻賢母として、自宅にいる。それが大動脈留で彼が入院した頃に突如現れて、あの頃まき子も50歳だったのに、現役時代と同じ女子高生気分のおさげ姿のままに画面に登場して、ああ裕次郎は愛妻に何一つ苦労させなくて、20年前から冷凍保存して来たかと、隔世の感があったと、当時知るオジサンはいうのだ。
 ところが裕次郎が死んだ頃から、お墓に金箔張って、残り半生は裕さんのために弔っていきますという、鬼の形相に変わって、それは子供を失った親が、子の年を数えて一生弔って、恨む人生はいけませんと例えられているのに、これを無理やり実践して、軍団を引っ張りまわすことになってしまったのだ。未亡人に「アンタは素人さんだから、黙っていてください」とは小林でも言えなかった。
 未亡人がそう思うのだから、卑下にもできないとプロの大番頭の小林(こまさ)が思ったわけで、渡を軍団の顔にしたが、役者が足りないのは自覚済み。こうしてプロの後半が始まることになったわけだ。
 そもそも、にっかつ無国籍アクション映画というものを裕次郎が大ヒットさせたが、あんなものの顛末はこうなのだ。裕次郎は芥川の慎太郎の太陽の季節でデビューすることになったのだが、あんな作品は勃起したチンポコで湘南の宿屋のふすまに穴開けて遊んだという、まさに無国籍のお下品な青春作品で、それが戦後の3S政策(スポーツ、スクリーン、セックス)産業にピッタリはまった無計画だが、時代のブームに乗っかったというだけのことだった。
 裏で糸を引いていたのは明らかの慎太郎で、一応都知事までになった彼も、えせインテリの端くれではあったから、勃起だけの人生は情けなく、だから太平洋独りぼっちとか、黒四ダムとか、三浦雄一郎のエベレスト大滑降とか、ただの一本やりの脅かし映画で、そこに黒澤明の大きさとか、小津安二郎の静かなインテリ性とか、当時映画人は誰もが憧れた「風と共に去りぬ」などの欠片もなかったのが軍団の映画だった。というよりも莫大な裕次郎本人の印税に処理に手を焼いて、全部無くしてもかまわないで出発したのがプロの始まりだった。その統括に日活ホテルの支配人だった小林をスカウトして、小林がいわば裕次郎のワープロ的なもので、それは安倍政権の今井であり、新原だから、エベレストやるといえば「はい」と、太平洋なら「はい」と、言語処理したけれど、ヒット映画はほとんどなく、大半は赤字になった。むしろ外からの「太陽にほえろ」あたりで、赤字を埋め合わせたというのが実情ではあった。
 渡とは、弟の恒彦も似たようなものであるが、青学の空手部とか柔道部で、それは清原が映画に転身したようなもので、ただの体がデカい体育会系の小心者。裕次郎に似て、大いなる棒役者なのであるし、裕次郎のような雰囲気も持ち合わせずに、裕次郎の千分の1の存在感でしかないが、それでも役者人生を全うできたというだけの人たちだ。恒彦は代表作が大原麗子との結婚であり、兄の渡哲也の代表作とは、半生の30年はまき子に振り回されたというだけのことだ。
 渡は空手部だから、後輩身分の舘などは、渡のパシリ役で、この棒アンちゃんも、プロを離れたら存在できないと、舘は渡べったりで、それが彼の渡世となった。ホンマの晩年には全くやりたくないあの老眼鏡のCMで思わぬヒットになっているのが、逆説でもある。
 渡とは、レーバンが似合う爆弾犯人もどきの警察官かと思ったら、普段は大いなる小心者で、まき子に「いい加減にしてください」の一言も言えない忠実なパシリでしかなかった。
ある時メディアが囲んで、軍団をどうするのか迫ったことがあったのだが、籠城してだんまり。その内爆発してメディアは大門係長から銃撃砲弾受けるかと怖くなったのだが、いやむしろ本人が小便ちびりだす始末で、こちらがトホホ悲しくなって放免してしまった。まき子を置いて、彼が勝手に軍団の方向しゃべることは、絶対にできないとそういうことらしい。
この程度のことでもこれだけのストレスである。それがどんどん病に引き込んだようで気の毒でもある。
 特に小樽の記念館事業とは最悪で、あんな遺品はせめて無料で展示して、数年経ったらオークションで売り払って寄付でもするのが、一般的な処理方法なのだが、けちなまき子はそこで1800円も徴収するというぼったくりを25年も継続して、ライバルは清水寺かと思わせた。それは全国からの北海道ツアーおばさんを、JAL辺りと提携して連れてくるように、それを上手にキックバックしただけで、地元小樽には何のプラスにもならなかった。
 信長や秀吉はいくら時代が進化しても、教師が子供に教えて、子供はまた感化されて孫に伝えるというそれが歴史なのだが、亡き裕次郎はなぜそうならないかがまき子にとっては不満でならない。夫婦に子供がいないからが原因だといえば、女性差別だとは言われるが、しかし老いた未亡人にとっては、今でも裕次郎と添い寝していると鬼の形相の彼女に、他に癒すすべがない。こまさだってそれが言えなかったわけだから、渡ごときには絶対に無理だ。
 記念館閉鎖後は、それを担いで全国にデパートでさらに移動記念館をやっていたのには、呆れて卒倒するほど。一年目は伊勢丹辺りも少々付き合ったようだが、もう無理。いつまで裕次郎をやっているんだと、周囲は怒る。都知事引退の慎太郎でさえ、ほとほと疲れて老化したが、まき子は全く疲れがない。そして「亡き後はすぐにプロを解散」というでっち上げの遺言を今さら言い出して、つまり自分が遺言に逆らっているのは、未亡人をして承知のことだと、下品な演出付けて、二枚舌を使いだした。こうして渡さえも死んで、しかも家族葬だけで、告別式もやらないというのは、まさにまき子への当てつけなのだが、それすら理解はできないし、残った舘と神田では、無理も阿呆。
 どうやらまき子は甥っ子だかに後妻業ならぬ、後子業に入られて、正式な相続人がいない彼女にとっては、遺産はこちらに自動的に処理されるらしい。始末に負えない晩年の悪行である。
 裕次郎なんてものは、時代が生んだスターである。百恵と同じで素養なんてものは、どこにもなくて、せいぜい少し足が長かったくらいのことなのだが、死ねばそれは思い出として消えていくのがせいぜいなのだが、残った未亡人の悪あがきで、でも高倉健のように、得体のしれない後妻業が入ってくるのに比べれば、まあこんなものかと収まりもつくのかも知れないが。

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