5月9日(金)そこに山があるから登る
大正8年が創業だから、90年。メインのHPの真ん中辺りでやっている、わが山岳部の大正~昭和史の話なのであるが。
昭和27年に22歳で2月の富士山で死んだ先輩がいるのだが、といっても、わが社じゃなくて、わが母校は18歳で卒業するから、すでに卒業した先輩の話であり、実は私の父親と同年齢なんだね。なぜ、その人が単独で二月の富士山に登ったのか?
この年代の登山者は、冬の楽しいハイキングという思いはない。一番大きいのは時代の不確実性なのだ。軍国主義であり、全体主義で育ったのに、敗戦したら、民主主義になった。セックスも映画も女の水着も入ってくる。自由なんてものは偽物じゃないのか?日本の全体主義でアジアを制覇して、欧米を傘下に入れることが、地球規模の平和で、それしか道がないのに、志半ばで敗戦失脚し、ならば自害を持って以降の欧米の悪さを拒否して、大和魂の理想の桃源郷は、永遠に地球から抹殺してしまった方が、悪政欧米への開き直りだったはずなのに、戦後の中曽根、岸信介、為政者、ヒロヒトも、手のひらを返したように、欧米自由主義は本当にいいものだとは、明治~大正~昭和に私が学んだことはいったい何だったのか?と、人間不信、自分不信になれば、山だけは大自然だけは、いつも何も偽らないと、それは登山が趣味だった芥川も、宮沢賢治も誰もが同じことをいった。その先輩が同じことを思っても不思議じゃない。
いいえ、学業のこと、恋愛のこと、未成年者で親の扶養家族で小遣いをもらっていた環境から、成人して自立して大人になることへの恐怖その他、昨今の硫化水素の大馬鹿ども、みんな、私の先輩は、60年安保も、70年安保も、青春とはそんなもので、心当たりは誰にでもあって、自分の限界への挑戦は、思い立ったその憧れの素晴らしい山を頂上まで登ることだと思い込んでも、過去に若い時代に登山の経験があるものなら、私にでも心当たりはある。その22歳の彼も、そうして2月の富士で単独遭難死した。
「行ってみて、行けるところまで登ってみて、ダメそうだったら、戻ってくるよ」と、2回に1回はダメそうだし、そんな登山を今の私はやっているが、あの頃には、どうして同じように思いつめてしまったのかが、ノスタルジアであり、カタルシスを感じるほどである。あそこを登らなくてはいけないという、切実感は、取りついたら最後、生きて帰れるか、死んで戻るかとは、登山は過去に軍国主義に利用された節がある。あんなに思いつめたのはどうしてか? それが二十歳の男の葛藤である。そういう抽象的な説明じゃないと、説明にならない。
私の青春も、わずかに30年前のことだけど、老いてしまうと、よく思い出せない。振られた彼女に「あっそうなの」と、あっさり引き下がれないのと同じことなのか?ストーカーになり、犯罪になる。どうして当時は引き下がれないのか?今なら実に簡単なことなのに。
だから登山へ気持ちを「昇華」するのは、犯罪予備軍からの救いの道だったのか?といわれると、少しながらそんなところもある。「女の尻ばっかり追いかけていないで、スポーツでもやれ」とは、同じ理屈だ。スポーツ経験者が、過去に西武鉄道に優先就職できたのも、同じ理由である。
青春とは、どこかバカバカしいことに、奇妙な思いを巡らせる。どうしてヒマラヤに登るの?と言われたマロリーは、「そこに山があるからだ」と答えたのも、同じ理由である。ほかに説明の言葉がない。それはもう通り過ぎてしまったラスベガスであり、今は裏寂れた人口500人の田舎町あたりを歩いていて、この先繁華街は90歳まで訪れないとすれば、あのラスベガスとはどういうところだったのかは、うろ覚えであるが、正確に思い出せないのと同じことだ。
大リーグの松井君が首位打者になった狂い咲きなのだが、あんなものは幸せに結婚しただけのことで、人間の生涯の最高ぶっ飛びとは言っても、所詮原因はその程度のことにすぎない。同じように、井川と柔道の井上、金輪際の悪妻を見栄でもらってしまったから、離婚しないと立ち直れないと、それだけの理由である。お似合いの理想の結婚が松井だとずれば、適齢期、それは男が25歳以上で、女は21歳以上のことなのだろうか、それより3年前は、女にうつつを抜かしているんじゃないと、世間は十代の男女を叱る。どう解釈すればいいんだ。
女に振られたからと、司法試験を目指すか?そういう友人もいる。難関大学を目指すというのもいた。じゃ、他の女をさらに追いかけたのもいたが、今は行方知れずになっている。つまらない理由で、何か本気のことをすることを、世間はよしとする。んで、就職したら生活に余裕ができるのか?だから女の尻を追いかけまわして「いつまでも独身でいるんじゃないよ」と、世間は結婚を促す。このおかしな話の整合性はどこにあるんだ?どこにもない。しいていうなら、適当なバランスを持っていることがいいとしか、説明がつかない。
ゆとりとは、そのアンバランスの局地で、生理やオナニーが始まった男女は、もうコンドーム付きで、自由にセックスすることが大事で、義務教育などは放棄してもいいというのが、この20年のゆとり教育だった。だから、硫化水素も、高校一年女子殺害も、全員無職の親の寄生虫がやった仕業である。適齢期を迎えるずっと早くに、男女がつがいになれば、少子化はあっというまになくなると、この殺害を肯定する者は世の中にいない。当然とはいっても、正確な理屈はどこにある?といわれても、それはない。人間が成長するバランスのなかで、やはりおかしいという不確かな抗弁しかできないものだ。
その逆が、社会の何かの矛盾を感じて、その矛盾の反動が、司法試験でもいいし、安保成田闘争のゲバ棒になった時期もあるし、先輩は冬富士の遭難死だった。暴走族の阿呆は困る。はたして登山とは、その何番目の優位性になるんだろうか?いや反動に優位順序をつけても意味があるのかないのか?そういう理屈っぽい検証をしているのが最近の私で、阿呆な小僧にはさっぱり分らなくても、大いに結構。
大正8年が創業だから、90年。メインのHPの真ん中辺りでやっている、わが山岳部の大正~昭和史の話なのであるが。
昭和27年に22歳で2月の富士山で死んだ先輩がいるのだが、といっても、わが社じゃなくて、わが母校は18歳で卒業するから、すでに卒業した先輩の話であり、実は私の父親と同年齢なんだね。なぜ、その人が単独で二月の富士山に登ったのか?
この年代の登山者は、冬の楽しいハイキングという思いはない。一番大きいのは時代の不確実性なのだ。軍国主義であり、全体主義で育ったのに、敗戦したら、民主主義になった。セックスも映画も女の水着も入ってくる。自由なんてものは偽物じゃないのか?日本の全体主義でアジアを制覇して、欧米を傘下に入れることが、地球規模の平和で、それしか道がないのに、志半ばで敗戦失脚し、ならば自害を持って以降の欧米の悪さを拒否して、大和魂の理想の桃源郷は、永遠に地球から抹殺してしまった方が、悪政欧米への開き直りだったはずなのに、戦後の中曽根、岸信介、為政者、ヒロヒトも、手のひらを返したように、欧米自由主義は本当にいいものだとは、明治~大正~昭和に私が学んだことはいったい何だったのか?と、人間不信、自分不信になれば、山だけは大自然だけは、いつも何も偽らないと、それは登山が趣味だった芥川も、宮沢賢治も誰もが同じことをいった。その先輩が同じことを思っても不思議じゃない。
いいえ、学業のこと、恋愛のこと、未成年者で親の扶養家族で小遣いをもらっていた環境から、成人して自立して大人になることへの恐怖その他、昨今の硫化水素の大馬鹿ども、みんな、私の先輩は、60年安保も、70年安保も、青春とはそんなもので、心当たりは誰にでもあって、自分の限界への挑戦は、思い立ったその憧れの素晴らしい山を頂上まで登ることだと思い込んでも、過去に若い時代に登山の経験があるものなら、私にでも心当たりはある。その22歳の彼も、そうして2月の富士で単独遭難死した。
「行ってみて、行けるところまで登ってみて、ダメそうだったら、戻ってくるよ」と、2回に1回はダメそうだし、そんな登山を今の私はやっているが、あの頃には、どうして同じように思いつめてしまったのかが、ノスタルジアであり、カタルシスを感じるほどである。あそこを登らなくてはいけないという、切実感は、取りついたら最後、生きて帰れるか、死んで戻るかとは、登山は過去に軍国主義に利用された節がある。あんなに思いつめたのはどうしてか? それが二十歳の男の葛藤である。そういう抽象的な説明じゃないと、説明にならない。
私の青春も、わずかに30年前のことだけど、老いてしまうと、よく思い出せない。振られた彼女に「あっそうなの」と、あっさり引き下がれないのと同じことなのか?ストーカーになり、犯罪になる。どうして当時は引き下がれないのか?今なら実に簡単なことなのに。
だから登山へ気持ちを「昇華」するのは、犯罪予備軍からの救いの道だったのか?といわれると、少しながらそんなところもある。「女の尻ばっかり追いかけていないで、スポーツでもやれ」とは、同じ理屈だ。スポーツ経験者が、過去に西武鉄道に優先就職できたのも、同じ理由である。
青春とは、どこかバカバカしいことに、奇妙な思いを巡らせる。どうしてヒマラヤに登るの?と言われたマロリーは、「そこに山があるからだ」と答えたのも、同じ理由である。ほかに説明の言葉がない。それはもう通り過ぎてしまったラスベガスであり、今は裏寂れた人口500人の田舎町あたりを歩いていて、この先繁華街は90歳まで訪れないとすれば、あのラスベガスとはどういうところだったのかは、うろ覚えであるが、正確に思い出せないのと同じことだ。
大リーグの松井君が首位打者になった狂い咲きなのだが、あんなものは幸せに結婚しただけのことで、人間の生涯の最高ぶっ飛びとは言っても、所詮原因はその程度のことにすぎない。同じように、井川と柔道の井上、金輪際の悪妻を見栄でもらってしまったから、離婚しないと立ち直れないと、それだけの理由である。お似合いの理想の結婚が松井だとずれば、適齢期、それは男が25歳以上で、女は21歳以上のことなのだろうか、それより3年前は、女にうつつを抜かしているんじゃないと、世間は十代の男女を叱る。どう解釈すればいいんだ。
女に振られたからと、司法試験を目指すか?そういう友人もいる。難関大学を目指すというのもいた。じゃ、他の女をさらに追いかけたのもいたが、今は行方知れずになっている。つまらない理由で、何か本気のことをすることを、世間はよしとする。んで、就職したら生活に余裕ができるのか?だから女の尻を追いかけまわして「いつまでも独身でいるんじゃないよ」と、世間は結婚を促す。このおかしな話の整合性はどこにあるんだ?どこにもない。しいていうなら、適当なバランスを持っていることがいいとしか、説明がつかない。
ゆとりとは、そのアンバランスの局地で、生理やオナニーが始まった男女は、もうコンドーム付きで、自由にセックスすることが大事で、義務教育などは放棄してもいいというのが、この20年のゆとり教育だった。だから、硫化水素も、高校一年女子殺害も、全員無職の親の寄生虫がやった仕業である。適齢期を迎えるずっと早くに、男女がつがいになれば、少子化はあっというまになくなると、この殺害を肯定する者は世の中にいない。当然とはいっても、正確な理屈はどこにある?といわれても、それはない。人間が成長するバランスのなかで、やはりおかしいという不確かな抗弁しかできないものだ。
その逆が、社会の何かの矛盾を感じて、その矛盾の反動が、司法試験でもいいし、安保成田闘争のゲバ棒になった時期もあるし、先輩は冬富士の遭難死だった。暴走族の阿呆は困る。はたして登山とは、その何番目の優位性になるんだろうか?いや反動に優位順序をつけても意味があるのかないのか?そういう理屈っぽい検証をしているのが最近の私で、阿呆な小僧にはさっぱり分らなくても、大いに結構。
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