すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「演戯者」のお勧めがいい

2020年03月18日 | 雑記帳
 昨日書いた隣県の新聞を見直してみたら、芸能欄に「演戯者」というコラムがあった。「演戯」という語は造語かなと一瞬思い、調べてみると広辞苑にはないが「国語大辞典」には見出しとして載っている。「演技」と同義である。俳優が書くコーナーに「戯」をわざわざ使うとは…、なかなか洒落たネーミングと思う。


 その日の回は、片岡礼子という渋い(笑)女優だ。映画やドラマに時々顔を見せる。主役にはならないが、どこか陰がある女性、問題を抱える母親役等、いつも結構はまる役どころが多い。あの物憂いような表情が印象的だ。プロフィルとともに、この人の写真につけられたコメントに、ナルホドおっいいなと思った。

 現在48歳の片岡礼子。「かっこいい55歳を目指している途中です。ちょい先の自分に期待して、逆算して今を頑張る。お勧めの方法です」と話す。

 「ちょい先の自分に期待」…つまりは短期目標的に無理なく描くということ。いや7年後だから中期目標と言えるのかな。その程よさがいい。「逆算して」とあるから、その段階でスモールステップ的な設定があるのだろうか。また、とりあえず目の前のことに力を尽くしていく点も、並行して進むイメージがある。


 記事を読むとそれを裏付ける内容がある。かつて他人を頼らず無理をして倒れた経験をもとに語った「私生活を充実させると仕事も良くなるし、その逆もある」は力強い。「今は楽しんでいる感じです。楽をしているのではなく」という感覚は、何かを乗り越え、素の自分を意識しているからだ。だから「演戯者」なのだ。

その一言は温かい工夫

2020年03月17日 | 雑記帳
 旅に出たときの、ちょっとした楽しみの一つに地元新聞を読むことがある。大きな中央紙の地方版もいいのだが、やはり県独自の新聞社が発行しているものがより個性が出るような気がする。全国的な話題は共同通信社があるので、さほど変わりないだろうが、レイアウトや独自のコーナーなど個々の工夫に目が向く。


 隣県の温泉に宿泊したとき、嬉しいことに部屋へ地元紙が届いた。どれどれと手に取る。最初にぱっと目に付いたのは、いつも見ている秋田魁新報より「行間が広い」ということだった。実際は0.数ミリだろうが感じがずいぶん違う。ということは情報量に差が出るか。見やすさの優先をとるか。大きな決断だろうな。


 と単純に考えたのだが後で較べてみたら、実は行数は同じだった。活字フォント幅が違うことが理由だった。そういえば以前地元紙の読者委員会に参加したときが、ちょうど変更期にあたり感想を問われたことがあった。習慣によって見易さも左右される。しかし小さい配慮や工夫によって一枚のページが出来上がる。


 日曜日だったからか「小中学生」向けの別刷りもあった。これは本県と版そのものが違い半分の大きさ。小学生ならばこちらが手に取りやすいかもしれない。パッと目に入りやすいことは確かだろう。構成やら印刷等諸々の問題があるので一概に言えないが、若い読者に新聞を根付かせるためには、地道な努力が必要だ。


 その他いろいろ違いはあったが、一番おっと思った微細な箇所が「おくやみ」欄である。そこにこういう記述が…「『』は遺族の話」。お名前、住所、年齢、葬儀等々の全国共通に記される情報に続き、1行~2行程度の一言が添えられ、網掛けで載っていた。どれも平凡な言葉だけれども、温かい工夫だなと感じ入った。

不確かなリスクと向き合う

2020年03月16日 | 雑記帳
 先週「Fukushima50」を観たのでよけいに印象付けられたのかもしれないが、昨夜のNHKスペシャル「メルトダウンZERO 原発事故は防げなかったのか~見過ごされた“分岐点”~」は、ずいぶん考えさせられた。

 原発の津波対策を考える機会が何度もあり、それを実行に移せなかったことが語られる内容だった。

 震災後、原発事故後に『想定外』と毎日語られ、私達の頭にも浸透した。そこには天災ゆえの諦めのようなニュアンスも滲んでいた。
 しかしこの番組を観れば、それはまさしく「想定」されていた一部なのである。
 過去の巨大津波「貞観津波」の例が提示されているにも関わらずに、それを「参考」の位置まで貶め、対策を取ってこなかった。

 責任の中心は、東京電力や解散させられた規制当局である原子力保安院に向けられるが、実際は安全神話を信じ横並びを重んじる日本人の体質そのものにあることは明白だ。
 地元自治体の意識も加担していることも見逃せない。当然それはそこまでの行政のあり方、有権者の選択が背景にあるのだ。


 「不確かなリスク」という語の持つ、ある意味の都合よさに私たちは惑わされてはいけない。
 不確かだから許されるものではなく、常にリスクを背負う覚悟が求められる。

 施策や自らの行動に優先順位をつけていくために忘れてならないことを今改めて考える。
 特に災害等を防止、抑止するためには、情報の科学的根拠そして結論に至るまでの透明性が担保されねばならない。

 新型ウィルス感染という危機にあたっても、それは全く同じなのだろう。

籠る日々にもそれなりの…

2020年03月15日 | 雑記帳
 「今できることを積極的に」「籠らず外へ出て」という前向き発言が盛んに喧伝されるようになってきた。基本的に大賛成!自粛の語を使い自己決定権を放棄している状態は駄目なのだ!と声高に言いつつ、あまり外に出られない日が続く。何故なら花粉の飛散が酷いから。「もどりの寒」か、雪もちらつくというのに。


 籠りたくなくても自己防衛が必要な日々となっているので、仕方がない。そもそもインドア派なので、さほどの無念もないのだが…。買っている中古本を乱読するか。無観客で今一つ盛り上がらないスポーツ中継などを観るのか。どちらも今一つ高揚感に欠けるなあ。しかし、それなりの出逢いはあるだろうと…


 【すぐそこの遠い場所】(クラフト・エヴィング商會  ちくま文庫)

 子どもの頃読むことが出来なかった事典、それは先代の商會会長である祖父が持っていた書物だという。その『アゾット事典』を今開いて…というが、何が何やら???だらけの内容。とても説明できない。これほど「不思議」という言葉が似合う本はない。自分の妄想力ではついていけなかった。


 【犬を飼う】(谷口ジロー  小学館文庫)

 コミックの文庫版である。あの「孤独のグルメ」の漫画家として有名だ。この作品は著者が世に出るきっかけとなった名編らしい。飼っていた犬との死別を描いている。よく聞く話ではあるが、経験がない自分でもぐっとくる描き方だった。タッチが好きなので、少し漁ってみたい。


 【酒の友 めしの友】(安倍夜郎  実業之日本社)

 コミック、ドラマで有名になった『深夜食堂』の著者が書いたエッセイ集。中味は自分の「食の思い出」と「人とのつながり」である。正直、文章はさほど上手いとは思わないが、題材に関心があるので目を通せた。今『深夜食堂』のコミック本を続けて読んでいるので、エピソードの源がわかる。

落ち着かなく春を迎える

2020年03月14日 | 雑記帳
 2020年の3月2週目のこと。

 月曜日。休館日なので午前中は花粉予防を徹底しながら、孫と近所の散歩をする。陽気もいいし散歩者もちらほら。感染防止で学校休業ということもあり、トレーニングで走っている若者、家族一緒に散歩している小学生、親子で野球をする風景も見られる。福寿草を見つける。雪は消えたし例年より半月以上早い。



 火曜日。ずいぶん気温が高い朝だ。暖房のない部屋も20度ある。TVでは明日の3.11に向けて特集が多い。今年は「行方不明者」の家族を取り上げている番組が多い気がする。「あいまいな喪失感」という名付けはなんとも心に沁みる。職場の中では、先行きの見えない来年度以降の計画をあれこれ話し合っているが…。


 水曜日。心静かに震災犠牲者を想う日でありたいが、連日のコロナ報道そのものが不安感を煽っているようで、どうにも落ち着かない。様々なモノの買いだめが少しずつ進行しているのではないか。民衆心理が経済を動かしている状態か。百均に行ったらマスクどころか、ウエットティッシュまで無い。おちつけよ。


 木曜日。勤務予定がないので某シネマへ映画「Fukushima50」を観に行く。大型スーパーも専門店は11時開店となっていて人は少ない。観終わった時はちょうどお昼、イートスペースには適度に人出があった。この映画も危機回避がテーマだが、それを実現できるのは、専門家による分析と現場人の勇気だと知る。


 金曜日。朝にまた震災関連の録画を一つ観た。人形を使って本音を引き出すという斬新な手法に感心した。職場で午後から自主研修として今後取り上げたい内容に挑戦してみる。「見るとやるとは大違い」を実感。夜7時から某バーで慰労会。生ビールに続いて久々の「天黒」を味わう。亡き森谷杜氏の傑作だと思う。

オイルショックからの本選び

2020年03月13日 | 読書
 みうらじゅん先生の「オイルショック!(老いるショック)」宣言が頭に残っていたので、それに関わるような書名の文庫を読んでみた。


 【暮しの老いじたく】(南 和子 ちくま文庫)

 これはまったく「実用書」の類だった。だから具体的に老齢になってどのような手続きが必要か、どんな道具が便利か、注意すべき事項は…などが中心だ。10年ぐらい経ったら役立つかなあとぼんやり思ったが、それがもしかすればあと1年でやってくるかもしれないという想定も必要か。それが「老いる」ことなのだ。孫へ読み聞かせをしていて婆さんの声をふざけて昔の俳優(浦辺粂子)でやってみて大笑いした後、この文庫でその女優の死に方(衣類に火がつき焼死)を知り、笑えない記述にどっきりした。そういう出逢い方もある。


 【生と死についてわたしが思うこと】(姜尚中  朝日文庫)

 これは2008~12年頃書かれたコラムの集約で、老いとは直接的な関わりはなかた。しかし東日本大震災、原発事故などが取り巻く情勢のなかで、家族内に不幸を抱えた著者が、何を大切に生きていくかが問いかけられている一冊だった。ベストセラー『悩む力』が著者の代名詞になっている。悩むにはエネルギーが必要だ。悩むには批判精神が必要だ。悩むにはぶれない芯が必要だ。二つの国家を冷徹に見ている者の矜持を感じた。


 【知的な老い方】(外山滋比古  大和文庫)

 専門的な著書は読めないが、著者のエッセイ風の本はたくさん読んでいるので愛読者の一人を自負している。今回、ああそうかと改めて強く認識させられたのは、日本の知性と称される著者の源泉は、間違いなく「好奇心」だが、実はあまり長続きしない性質のようだということ。失礼ながら「三日坊主」的興味関心の繰り返しや、不得手な整理整頓の箇所を読んで、心強く思ってしまった。「知的」は素敵な形容詞であり目指す対象になるのだが、ある意味では以前書いた方言「クサレタマグラ」の連続によっても、ほんのちょっと近づけると知って嬉しかった。

乗り越える強さは…

2020年03月11日 | 雑記帳
 先月中頃、年度替わりの季節に向けて展示準備を進めていたとき、(結局、少し延期することになったが)手に取った本から一つのフレーズを選び出した。


一人の感受性のかたちを決定的にするのは、
大仰な出来事なんかじゃない。
ありふれた何でもない日々の出来事が、
おもわず語りだすような言葉。
その言葉をどのように聴きとったか、
ということなのだ。

 by 長田弘~肩車『詩画集』より


 誠実な姿勢にあふれた、心に染み入る一節だ。難しい言葉もなく、わかりやすい。
 けれどそれを真に実感できることは、容易くないようにも思える。
 「大仰」という形容詞は全く相応しくないが、規模の大きい出来事であった9年前の3.11が、被災された方々の感受性に強い影響を与えなかったわけはないだろう。

 たしかに「時間」という薬によって、ある部分の滑らかさが取り戻された場合もあるのかもしれない。
 しかし、深い傷となってずっと抱えている人がほとんどではないだろうか。
 それは「癒す」などという考え方では解消できるものではないだろう。


 今月になって震災関連の番組が放送されている。その中で取り上げられた方々には一様に強さを見出す。
 自分を除く家族全員が、家の二階で亡くなっていた高齢の男性は、新しい家を建てそこに仏壇を置くことに残りの生涯を賭ける。一人娘を失った夫婦は昨年ようやく遺骨が戻り、かつて娘と廻った地を遺影とともに巡って歩く。


 堪えきれなく眠れない夜を幾度も幾度も過ごしたどり着いた姿であるのかもしれない。
 しかし、私は「なんでもない日々の出来事」に昇華しているように感じて見入った。
 それはもしかしたら、見えない誰かが寄り添い背中を押す感覚があって、そのことは震災前の日常において、語り聴きあった多くの出来事に支えられているのではないかと想像する。

 乗り越える強さは日常にしか生まれない。

いなご出でよ、日常を脱して

2020年03月10日 | 雑記帳
 調べものをしていて、たまたま手にした某学校記念誌。調べていたことから思わず寄り道してしまい、面白い記述を見つけた。

32年 2石6斗     17600円
33年 2石4斗1升   19280円
34年 1石7斗2升   18760円
35年 1石4斗4升   14400円
36年 1石8斗     18000円

(実際は全て縦書き、漢数字。ちなみに1石は180ℓなので32年だと468ℓ)


 年代は昭和。某中学校における「いなごとり」の収穫高と収益が囲み枠として載っていた。興味を持ち、昭和32年の年表にあたってみる。「10.15 稲上げの為欠席早退多く、いなごとり実施」という表記があった。この地方では、まだ農繁期田植え時は1週間ほどの休業があった時代のことである。今は昔を感じる。


 寄せられた文章に関連するものがないかページをめくると、そのまま「いなごとりと落穂ひろい」と題された小文があった。高度成長期とはいえ、地方の中学がまだ安閑としていた頃、数多い思い出の中からピックアップされた一文だ。「特に『いなごとり』と『落穂拾い』は生涯忘れることができないように思います。


 生徒だけのグループで、渡し船に乗り隣町へいなごを取りに行く。帰校して教師に「獲物を計ってもらい、大きな釜茹で」で仕上げ、家庭へ売りに出かけたのであろう。図書費や生徒会のために使ったはずだ。農家では労働力の一部であり、作業そのものは手慣れていても、学校の仲間と過ごした非日常であったのだ。


 落穂ひろいはその後4年続いたが、いなごとりはその年で終わっている。昭和36年、秋田では国体があったエポックメーキングな年だった。そしてその同じ10月に「文部省全国一斉学力テスト」という記述もあった。別欄に「強行実施」と付記されていることも象徴的だ。翌年、東京都は世界初の一千万都市になった。


 それから60年近い年月が流れ、学期中なのに教室には児童生徒の声が聞かれない状態。一方的な休校要請に応えた世の中で、子どもたちはいったい何を探しているのか。社会環境も季節も全く異なる出来事を結びつけたくなったのは「生涯忘れることができない」という表現。こんな状況が日常になってはいけない。

パンチラインを持って歩く

2020年03月08日 | 読書
 本来なら「キニナルキ」であるが、「パンチライン」という語を知ったので初めて使ってみる。
 「急所となる文句、落ち」(ジーニアス英和辞典)という意味だ。
 今月号『波』の書評などから印象付けられたフレーズを拾ってみた。


 「人生とは自己確認のために無数の体験を反復し続ける団子のような回転体
 (白石一文の著書にある本人か、もしくはその父親の言葉)

 「自己確認」はわかる。そういう気がする。しかし「反復し続ける」体験となると、それらの質があまり問われないイメージがする。
 所詮、似たり寄ったりの出来事と遭遇しているのなら、単純な味しかしないだろうし、多種多様であれば、複雑で深みのある「団子」になるのか。


 「自分とは違う世界で生きる人たちを知るのは健康的なことだった
 (P・マッカートニーの娘ステラがインタビューで答えた言葉)

 ポールは間違いなくセレブだったろうが、子どもたちを公立に入れた。その経験を振り返って、デザイナーになった娘がそう応えたという。

 「健康的」という一言はパンチが効いている。
 人の健康さとは自分の内部を評価する言葉だが、間違いなく自分以外の要素によって成立する。
 その受け入れる姿勢を指していることなのだと気づく。他者を隔てる心はやはり不健康なのだ。


 さて、『波』連載の「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ)が最終回を迎えた。
 毎回楽しみにしていたので、残念だ。

 単行本が発刊され、数々の賞に輝いたらしい。いつか改めて読む機会があるだろう。この不安定な時代の子育てや教育全般については、ずいぶんと考えさせられた一種のドキュメントだった。

 そして一つのパンチラインを、その題名に見た気がする。
 それは、これからの時代「ぼくは■■で▲▲で、ちょっと●●」という意識、感覚を持って生きていくしかないという現実だ。
 移住者や国籍といった問題に関わらず言えることだ。

 その■■や▲▲、●●についてどう理解し、表現していくかに尽きる。

陰をつくる語を齧ってみる

2020年03月07日 | 雑記帳
 昨日、歳時記を調べたとき「啓蟄や生きとし生きるものに影」(斎藤空華)という句を見つけた。これは、太陽の光が強くなってきた証を「影」に込めている良句だ。しかし、世間はなんとなく「」というイメージ。それを作り出している語が連日耳目に流れ込む。防げはしないけれど、がりっと齧ってみて、憂さ晴らし。


 「コロナ」とつくメーカーや商品は大変なのかな、とふと思う。コロナが「太陽大気の外層」を示すことは、中学か高校で習ったはずである。「光冠」は美しい光彩を表す。その名を冠したウィルスの画像を連日見ていると、似ているから付けられたけれど、反対の気持ちを抱いてしまうのは、私だけではないだろう。


 「自粛」は広辞苑に「自分で自分の行いをつつしむこと」と書いてある。確かにその通りだが、日本人には右倣えや長いものには巻かれろの精神が根付いているのか、どうも自粛というより遠慮といった方が実態に近い。それが美徳に当てはまるかどうか、判断を自分に迫る習慣はあまりないようだ。まずはそこから。


 「躊躇なく」…このところよく国会中継やインタビューで某氏が連発する言葉だ。躊躇とは「決心がつかず、ぐずぐずすること。ためらうこと」。スピード化の世の中に必須の態度だろうが、躊躇はまた、意味として「物事に動じないでゆったりしていること」も表す。判断、選択を即座に繰り返す胆力の有無やいかに。


 「マスク」に関わる話題に振り回されている。騒動が始まりだした頃「マスク無がったら、みんなメンコ(仮面の方言)付けだらいいべ」と軽口を叩いた。そもそも「面」の意味から「顔・容貌」まで広く表す語である。マスクを付ける科学的根拠が乏しく、または逆の心配もあるなら、そのままのマスクで暮らそう(笑)


 「クラスター」はclusterというスペル。「花・果実などの房。かたまり。群れ、一団」という意味だ。つまりは集まり。聞き覚えのある語としてクラスター爆弾がある。今の時期でなくともいい印象を持てない。端的に示す言葉として一端流布すると、イメージがついてしまう例と言える。言葉にも中身と外見があるか。