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乗り越える強さは…

2020年03月11日 | 雑記帳
 先月中頃、年度替わりの季節に向けて展示準備を進めていたとき、(結局、少し延期することになったが)手に取った本から一つのフレーズを選び出した。


一人の感受性のかたちを決定的にするのは、
大仰な出来事なんかじゃない。
ありふれた何でもない日々の出来事が、
おもわず語りだすような言葉。
その言葉をどのように聴きとったか、
ということなのだ。

 by 長田弘~肩車『詩画集』より


 誠実な姿勢にあふれた、心に染み入る一節だ。難しい言葉もなく、わかりやすい。
 けれどそれを真に実感できることは、容易くないようにも思える。
 「大仰」という形容詞は全く相応しくないが、規模の大きい出来事であった9年前の3.11が、被災された方々の感受性に強い影響を与えなかったわけはないだろう。

 たしかに「時間」という薬によって、ある部分の滑らかさが取り戻された場合もあるのかもしれない。
 しかし、深い傷となってずっと抱えている人がほとんどではないだろうか。
 それは「癒す」などという考え方では解消できるものではないだろう。


 今月になって震災関連の番組が放送されている。その中で取り上げられた方々には一様に強さを見出す。
 自分を除く家族全員が、家の二階で亡くなっていた高齢の男性は、新しい家を建てそこに仏壇を置くことに残りの生涯を賭ける。一人娘を失った夫婦は昨年ようやく遺骨が戻り、かつて娘と廻った地を遺影とともに巡って歩く。


 堪えきれなく眠れない夜を幾度も幾度も過ごしたどり着いた姿であるのかもしれない。
 しかし、私は「なんでもない日々の出来事」に昇華しているように感じて見入った。
 それはもしかしたら、見えない誰かが寄り添い背中を押す感覚があって、そのことは震災前の日常において、語り聴きあった多くの出来事に支えられているのではないかと想像する。

 乗り越える強さは日常にしか生まれない。


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