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パンチラインを持って歩く

2020年03月08日 | 読書
 本来なら「キニナルキ」であるが、「パンチライン」という語を知ったので初めて使ってみる。
 「急所となる文句、落ち」(ジーニアス英和辞典)という意味だ。
 今月号『波』の書評などから印象付けられたフレーズを拾ってみた。


 「人生とは自己確認のために無数の体験を反復し続ける団子のような回転体
 (白石一文の著書にある本人か、もしくはその父親の言葉)

 「自己確認」はわかる。そういう気がする。しかし「反復し続ける」体験となると、それらの質があまり問われないイメージがする。
 所詮、似たり寄ったりの出来事と遭遇しているのなら、単純な味しかしないだろうし、多種多様であれば、複雑で深みのある「団子」になるのか。


 「自分とは違う世界で生きる人たちを知るのは健康的なことだった
 (P・マッカートニーの娘ステラがインタビューで答えた言葉)

 ポールは間違いなくセレブだったろうが、子どもたちを公立に入れた。その経験を振り返って、デザイナーになった娘がそう応えたという。

 「健康的」という一言はパンチが効いている。
 人の健康さとは自分の内部を評価する言葉だが、間違いなく自分以外の要素によって成立する。
 その受け入れる姿勢を指していることなのだと気づく。他者を隔てる心はやはり不健康なのだ。


 さて、『波』連載の「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ)が最終回を迎えた。
 毎回楽しみにしていたので、残念だ。

 単行本が発刊され、数々の賞に輝いたらしい。いつか改めて読む機会があるだろう。この不安定な時代の子育てや教育全般については、ずいぶんと考えさせられた一種のドキュメントだった。

 そして一つのパンチラインを、その題名に見た気がする。
 それは、これからの時代「ぼくは■■で▲▲で、ちょっと●●」という意識、感覚を持って生きていくしかないという現実だ。
 移住者や国籍といった問題に関わらず言えることだ。

 その■■や▲▲、●●についてどう理解し、表現していくかに尽きる。


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