すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

想定外の安全教育などない

2011年04月16日 | 雑記帳
 昨日はPTA総会だった。
 年度初めにどんな話をするか、毎年ある程度の筋立てはするが、やはり今年は特別な気がした。

 先週の日曜日の新聞に載っていた記事が印象的であり、そのことを最初に話をすることにした。

 同じ紙面に載った震災に関する二つの記事。

 一つは、釜石市の小中学生3000人が全員無事だったこと。
 もう一つは、石巻市の大川小学校(全校児童の7割が死亡、行方不明とされている)の保護者説明会があったことである。

 前者は写真つきで大きく「防災教育」を取り上げていて、その成果を謳っている。後者は小さな記事で、学校側がその避難がどうだったかを説明しそれに対する保護者の反応を書いている。
 当然であるが何が良くて悪いかの判断はできないし、安易な予想もしてはならないことだ。
 
 しかし、前者の「防災教育」の第一の要点が「想定を信じるな」であり、二つ目が「人にかまわず自分が先に逃げろ」だったことを読んだときに、いったい学校では何をなすべきなのか、子どもにどんなことを教え、どんな力を育てようとするのか、という本質が問われる気がした。

 子どもの命を守ることが何よりも優先されなければいけないのは、言うまでもない。
 しかし危機とは、日常の細かな積み重ねの延長にある場合と、それとかけ離れた偶発的な場合に分かれるわけで、天災(天災から人災につながるものも含めて)はまず後者とされる。
 そして、頻繁に目にし耳にする「想定外」という言葉。

 想定外の「安全教育」などはないだろう。

 想定外というところまで想定する安全教育などは考えられるわけはないのだ。
 
 問題は、いかに想定を大きくできるか。

 少し想像してみれば、それはかなり覚悟のいることだ、と誰しも気づくだろう。
 あの、一歩前まで、一秒前までを想定することなのだから。


 こんなふうに考え出したら、話がまとまるわけはないじゃないか…切り上げ方が難しかった。


闇のなかで響きわたってほしい

2011年04月13日 | 雑記帳
 すごい歌をつくるなあ、桜井クンは、と素直に思う。

 昨日は県全体の会議があり、朝早くから高速にのって秋田へ向かっていた。
8時半にはまだならなかったと思うが、胸ポケットに入れたケータイからまた嫌な音がなった。
 例のエリアメールである。
 素早く確かめると「福島県沖で地震発生」とある。
 路肩にハザードをつけて止まった車もいる。しかし車が続いている高速走行中ではどうしようもないとラジオをつける。

 「東京半蔵門のスタジオも揺れています」という声。
 千葉北東部が一番先に出たので、あまりこちらの揺れはないようだと判断する。
 それにしても余震が止まらない、東北南部、北関東に暮らす人々の心持ちはどんなものだろうと思ってしまう。
 ケータイのエリアメールが鳴るたびに、びくっとしている自分がいるし、いかに便利とはいえ、この音はもう耳にしたくないなあと暗い心でいると、ラジオのパーソナリティが「Mr.children かぞえうた」と曲の紹介をした。

 かぞえうた
 さぁ なにをかぞえよう


 出だしのこのフレーズで、この歌はもしかしたら…と思った。

 なにもない くらいやみから
 ひとつふたつ
 もうひとつと かぞえて


 ああやっぱり…いい歌つくるなあ、ミスチルは。と思いながら目頭が熱くなる。

 こころがさがしあてたのは
 あなたのうた


 もうまいりました。もっと浸らせて…とハンドルを握り直したら、だんだん弱くなって、繰り返しの地震情報。

 家へもどってから調べてみると、ミスチル桜井くんからのこんなメッセージと歌詞が…。
 http://www.mrchildren.jp/news/news20110402.html


 この歌に何人の人が涙するだろうか。

 そして、この魂の存在に何人の人が救われるだろうか。

 「えがおのうた」「きぼうのうた」として、闇のなかで響きわたってほしい。

「新しい」を本気で考える

2011年04月12日 | 読書
 4月になって一番使った言葉は、「新しい」かもしれない。トップという確証はないにしろ、まんざら的外れとは言えないだろう。

 新学期、新担任、新入生、新教科書…年度が新しくなったことで、多くのモノに、そういう形容をつけることができる。
 それを受け取る、受けとめる側も、確かにその「新しい」に気持ちが動き、一つネジを巻いて頑張ろうとするのは一般的で、悪いことではない。

 しかし、またこういう時期に「新しい」の本質を考えてみることも大切ではないかと思う。

 糸井重里はこう書いている。

 「新しい」を身にまとうためではなく、「新しい」を本気で考えたときに、「変わらない」が選ばれたら、それは「新しい」ということ。

 商品的な要素に対する言葉かもしれないが、私たちの日常にも通用するのではないか。
 黙っていても時が流れたり、仕事上の命令が下ったりして「新しい」が身にまとわれることがある。その時に、この「新しい」の本質は何だと考えることは必須だ。

 何を新しくすればいいのか、何がこのままであっていいのか吟味してみること。その過程を経て「変わらない」ことが意識されたら、それは「新しい」ことだ。そこから出発できる。

 自分から進んで「新しい」を始めるときにも、何のためかがはっきりしていること。「新しい」というそもそもの魅力だけを欲しがる心を野放しにしてはいけない。上手く操るしたたかさが必要だ。

 「新」という漢字の成り立ちについて指導するスライドを作ったことがある。
 「新」の部首「斤」は「斧」の意味であり、木の切口が新しいことを示していることからできた漢字である。

 その説をとれば、斧やその振り下ろし具合を「新しい」何かに見立てて、スパッと自分自身という木を切っていく…そんなイメージ、つまり新鮮な断面を見せながらことに臨んでいく、それが「新しい」姿と言えるのかなという思いがわく。

 斧を意識し、振り下ろす角度や強さを意識する。
 本気で考えるとはそのことだ。
 仮にその姿が結果的に以前と変わらないとしても、意識さえしっかりしていれば、それはいつも新しい。

龍馬くんと龍馬と弥太郎

2011年04月11日 | 読書
 『発達障がい児 本人の訴え ~龍馬くんの6年間』(向山洋一監修 東京教育技術研究所)

 この本は2冊シリーズで、1冊目については先月下旬に感想をメモしておいた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/9676c18d43a63dc0341644eaa5e9d8b2

 2冊目もすぐに読んだのだが、年度替わりの忙しさにかまけて記録していなかった。改めて、いくつか記しておきたい。

 《Ⅱ 逐条解説編》と題されたこの本は、平山諭という臨床発達心理学の専門家の方が記している。
 自分の障害について記している龍馬くんが書いた文章に添う形で解説が書かれていてわかりやすい。情報として新鮮な事柄はさほど多くなかったが、そうかと考えさせられる箇所がいくつかあった。

 一般的に、日本人が同じ感情を持つ対象については、感情表現を教えてもいいとさえ、筆者は思っている。
 お花を見たら「きれい」か「かわいい」かだし、ハムスターや金魚は「かわいい」だろう。


 龍馬くんが、音楽の鑑賞の時間に「どんな感じか」と問われることに対してパニックを起こすことに対しての解説である。
 筆者の表現からは、現場では感情表現の指導としてパターン的な教え込みは一般的ではないことが予測されるが、現実はどうなのだろうか。

 感情の分類、言語化は普通学級でもあまり体系立てて行っている実践はないように思う。なんとなく刷り込まれいることが多いし、そのことを基にして、言葉の意味を再確認していくのは中学年ぐらいからが多いのかもしれない。
 感情表現の指導は、意見の分かれるところだろうが、もう少し綿密に検討されてしかるべきかもしれない。

 さて、発達障害を持つ偉人についてはある程度知っていたが、その中に「坂本龍馬」がいることは今まで知らなかった。筆者も例として挙げていた。ああそうなんだと、ネットで「坂本龍馬 発達障害」で検索すると、結構ヒットした。

 その真偽についてどうこうというわけではないが、龍馬像のイメージはどうしても最近のNHK大河ドラマがあり、重ねて考えてしまうのは仕方がないことか。
 福山クンの役どころをアスペルガーなどと決めつけたらお叱りをうけるだろうが、流布されている龍馬についての情報をみると、なるほど専門家でもそう判断するだけのことはあるようだ。

 龍馬がそうであれば、周囲は相当イライラしただろうに、と考える。
 そうだ、そうではないか。一番イライラしたのは、弥太郎だった。
 あのドラマは、龍馬に振り回されながら自分を築いた弥太郎という視点なので、その意味では相当面白い。

 本に戻って「龍馬くん」がこう言っているのだ。

 「僕にしつこくぐちゃぐちゃ言ってくる人は、僕と同じ発達障害者だ。」

 弥太郎もしかりと言うことか。
 いえいえ、史実とはずいぶん違うドラマであることはわかっているので…ああそれにしても、あの最終回の弥太郎の死に様は印象的だったなあ。今でも映像が目に焼き付いている。

わからなさの魅力を湛えて

2011年04月10日 | 読書
 行きつけの書店で、ひさしぶりに「彼女」の本が読みたいなと思って手にしたのは、あの地震の後に初めて立ち寄ったときのことだ。
 中味など見ずに、ただ真っ赤な表紙を半透明のカバーで覆った体裁もなかなか素敵だったから。
 
 家に帰って風呂につかりながら、読み出したら、「えっ、なんだ」という思いが初っ端からわいてくる。
 
 「思い悩む人々へ」と題された、プロローグの前に記されている文章にぐっと惹きつけられた。
 意味がよくつかめて納得するという類ではなく、そこにある言葉の強さや、迫力にぐっと心がつかまえられたとでも言えばいいだろうか。
 彼女の本は以前からいくつか読んでいて、ここ数年ちょっと遠ざかっていたとはいえ、これほどの印象を持った本はなかったと思う。

 ああ、これは詩だ。

 詩の基準を何に求めるか…それは、声に出したくなるという気持ちがわきあがることと勝手に決めているが、まさしくこの文章は口に出してみたい衝動にかられる。

 生き方がわからない、死に方がわからないと思い悩む人々よ、あなたは生きることの何を、死ぬことの何を、あらかじめ信じていたというのか。

 と始まるこの本を読むことだけによって、何かしらの知識が得られると思うのは間違いである。
 ただ感じればいい、そして自分で考えればいい、そんなふうに彼女はあやしい微笑みをもらしているに過ぎない。

 彼女の死の前に自ら記した銘は、かなり有名であるが、今またぐっと強さを増したように感じられる。

 「さて死んだのは誰なのか」

 私にとっては、わからなさの魅力を湛えたまま、その人は生きている。

 すぐに、その「私」とは誰か、と問いを突きつけられる存在として。


 『残酷人生論』(池田晶子 毎日新聞社)

もう、飲み干すしかあるまい

2011年04月08日 | 雑記帳
 明日は二年間背負った仕事上の重荷から解放される日だなあ、それが終わったら久々に親しい人たちと一献だあ…と楽しみに寝床に入ったら、例のびっくりするようなエリアメールの音とすぐに始まった長い揺れで、その目論見は、ガタガタと崩れてしまった。

 まだそんな時期じゃないんだよ、と窘められている気がするし、この「自粛」を「ブーム」にしているのは自分たちではないかと責められている気もする。

 普通の電話はまた不通となり、とにかく今日一日は携帯電話をかけまくることになった。
 昨日新たに言いつけられた仕事上の役割、今日で任務終了予定だった役割と、どちらもが見事に重なりあった象徴的な金曜日だ。
 しかし、連絡まみれになっている、いわば緊急というこうした事態のときも、些細なことで人の性格が表れるものだと、いい勉強にもなった。

 今回も3月11日と同様の長時間停電となった。幸いなことに夕方までは復旧がかない、その面では不便というほどでもない。それにしても、人は忘れてしまう動物だというが、そうさせないために誰かが仕組んだように思えるほどだ。

 何を忘れてはいけないのか…昼間に通りへ出てみると、またガソリンスタンドには列が作らているのを見たし、近くのスーパーにも人が群がったと聞いた。
 自己防衛の術だけを学んだのではあまりに寂しい。

 自宅も学校もおそらく震度は4強程度だったろうが、この前より少し大きかったようだ。校長室のこけしがこの前は一本倒れていたが、今回は二本だったもの…と、集まった職員に声をかけたら、呑気なことを言っているものだと笑われた。

 被害もこの前ほどではないが出ているようだ。追い打ちをかけられたような地域の人たちの心は、いかばかりか。

 夕刻、家へ帰るとその被災地である隣県から注文しておいたお気に入りの麦酒が届いた。
 頑張れよという支援の意味も込めて注文したものだったが、その瓶詰めの日がなんと3月11日だったのを見ると、また複雑な思いが浮かんでくる。

 もう、飲み干すしかあるまい。

不思議なもんだね、と呟く

2011年04月07日 | 読書
 我が家の必需品に家庭用精米機がある。
 ただ、関連飲料に頼ることが多く、その割に米が消費されていない。あっ、これは別の話か。

 あの『通販生活』が薦めるピカイチの機械を買っている。最初に購入したのは十年近く前かもしれない。ちょうど震災当日に、その二代目が動かなくなってしまった。
 電気が復旧してからすぐに、現在のピカイチをネット注文したが、物流が滞ってずいぶんと手間取り、届いたのが先週である。

 それはともかく、ネット注文をすると一定金額以上だとおまけがついてくる。今回ついてきた(といっても選んだのだが)のは、書籍である。

 『イトイの通販生活』

 我がココロの師匠、糸井重里の執筆である。
 『通販生活』誌上で、ずっと連載していた記事をまとめたもの。だから、実際全部目を通していると思うのだが、それでもずいぶんと楽しく読めた。その書き回しの上手さにはやはり憧れるなあ。

 糸井の本はかなり読んでいて、いくつか印象に残っているフレーズがある。その中の一つを「ああ、ここにあったか」と、探し当てたような気になった。
 それがこれ。

 つまんないことを言うときには、「不思議なもんだね」と、とにかく最初に言えばおさまりがいい。

 これは、絶妙な糸井ワールドだと思う。

 「不思議なもんだね」と、ややぼかした言葉で当たりをソフトにしているように見せかけて、実は事の本質をつくように出来ている。

 つまり、人は日常のどんな些細なことについても、わかっているようでわかっていない。
 疑問を持ち、考えて、一応の解釈や納得をしてみても、まだそこに深いものがあるのではないか…などと考える人も多い。
 一見、強固な答を自分が持っていたとしても、「何故か」と問われるより、「不思議なもんだね」と誘いかけられると、ぐらっとしてしまうのではないか。

 つまんないことかどうかは知らないが、

 不思議なもんだね、人間は。

地に低い幸せをさがす

2011年04月06日 | 教育ノート
 晴れ上がったスタートの日である。
 
 新しい職員を迎える式。そして始業式。
 式ではちょっと難しいかなと思いながら、テレビで流れているCMのこと、宮沢章二の詩について話をした。
 「行為」の大切さ、目標づくり…といった内容である。

 自分も、自分なりの「行為」の目標を立てて頑張っていきたい。

 今年も学校報を、紙版とWeb版で継続していく予定である。

 Web版は昨年並みのペース(基本的に授業日はほぼ毎日アップ)を守っていきたい。
  http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-447.html
 (4月5日だが、まだこんなに雪がある)

 紙版は週1回のペースを維持しながら、多少紙面に変化をつけようかなと考えている。
 子どもの作品やクイズなどいくつかアイデアはあるが、まだ具体的な形までたどりつかない。
 とりあえず「季節の言葉」というミニコーナーを設けてみた。

 季節感を鮮明にすること、そういう言葉を選び、何かしらの活動に結びつけることは、少しずつ失われている気もするので、古臭いことかもしれないが、一年間続けてみたい。

 初回は「福寿草」。住んでいる町の花にも指定されている。
 今年はまだ見かけていないが、きっとどこかで芽吹いているだろう。こんな俳句を紹介した。

  地に低く幸せありと福寿草(保坂伸秋)

闇の中にある音よ

2011年04月05日 | 雑記帳
 震災で被災した方や避難している方を励まそうという趣旨で、いろいろと番組が作られている。

 BSで放送されていた音楽番組で、出演した谷村新司が話したなかに、こんな言葉があった。

 「『闇』という漢字の中には、「音」という字が入っているでしょう。だから・・・・」

 言われてみて確かにそうだなと思い、そういえば、と思い出したことがあった。

 そもそもの「音」という漢字の成り立ちである。

 こんなことを、以前いた学校の校報の一つのコーナーに書いていた。
 (ホームページに残してある)
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP051.html

 音とは「祈り」である。

 テレビやラジオが流す音の力も大きいが、やはり一番の力は、傍にいる人たちの声だろうと思う。
 励ます言葉や和らぐ言葉が交わされていることを願っている。
 闇であっても、それは一人ではない。

 
 谷村が、千住明・真理子の兄妹とセッションをして歌った曲は、『いい日旅立ち』だった。
 それにしても、今聴くと、この歌詞は!と感じてしまう。

 ♪雪解け間近の北の空に向かい 
 過ぎ去りし日々の 夢を叫ぶとき
 帰らぬ人々 熱い胸をよぎる

教育の関係を結ぶために

2011年04月04日 | 読書
 『必ずクラスがまとまる教師の成功術!』(野中信行・横藤雅人 学陽書房)

 野中、横藤両先生の強力タッグによるこの本は、小学校における学級経営の一つのバイブルと呼んでもいいほど、よくまとめられている。
 「織物モデル」という提唱は、まさに今多くの学校で抱えている問題にフィットすると思う。多くの新任教員が入る都市部の学校だけでなく、本県のような過疎で小規模校が大半というところでも、その精神と具体的な方法は本当に学ぶべき箇所が多い。

 第一章は、野中先生の「3・7・30の法則」が、コンパクトな形でしかも要点を外さず位置づけられているし、横藤先生が書かれた項目もピリリとポイントを押さえている。

 私には第二章が読み応えがあった。
 「子どもを惹きつける話」「フラットな言葉かけ」といったあたりに、両先生が積み重ねられてきた実践の経験値の高さを感じるのは私だけではないだろう。

 さらに感じ入ったのは、終章にある「『荒れた学級』を立て直す!」である。
 ここには、教師の「指導性」とは何か、ということを考えさせられフレーズがいくつもある。

 荒れた学級には、派手な環境は合わない。

 小さな戦いに、素早く、静かに勝つことだ。

 負荷の大きな授業はしない方がいい。


 自分が立て直しを要するような学級を持ったのはごくわずかではあるが、そうしたときに、このような書があり、このようなことを目にしていたら、もっとマシな展開ができただろう、と遠い過去のことを思い出している。

 今、子どもを取り巻く環境、学校や教師に対する周囲の意識等、それらが大きく変化するなかで、「『教育』の関係を結ぶ」ことの困難さは増大している。
 この書は、教室の具体的な事実から導き出された処方箋である。