すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

わからなさの魅力を湛えて

2011年04月10日 | 読書
 行きつけの書店で、ひさしぶりに「彼女」の本が読みたいなと思って手にしたのは、あの地震の後に初めて立ち寄ったときのことだ。
 中味など見ずに、ただ真っ赤な表紙を半透明のカバーで覆った体裁もなかなか素敵だったから。
 
 家に帰って風呂につかりながら、読み出したら、「えっ、なんだ」という思いが初っ端からわいてくる。
 
 「思い悩む人々へ」と題された、プロローグの前に記されている文章にぐっと惹きつけられた。
 意味がよくつかめて納得するという類ではなく、そこにある言葉の強さや、迫力にぐっと心がつかまえられたとでも言えばいいだろうか。
 彼女の本は以前からいくつか読んでいて、ここ数年ちょっと遠ざかっていたとはいえ、これほどの印象を持った本はなかったと思う。

 ああ、これは詩だ。

 詩の基準を何に求めるか…それは、声に出したくなるという気持ちがわきあがることと勝手に決めているが、まさしくこの文章は口に出してみたい衝動にかられる。

 生き方がわからない、死に方がわからないと思い悩む人々よ、あなたは生きることの何を、死ぬことの何を、あらかじめ信じていたというのか。

 と始まるこの本を読むことだけによって、何かしらの知識が得られると思うのは間違いである。
 ただ感じればいい、そして自分で考えればいい、そんなふうに彼女はあやしい微笑みをもらしているに過ぎない。

 彼女の死の前に自ら記した銘は、かなり有名であるが、今またぐっと強さを増したように感じられる。

 「さて死んだのは誰なのか」

 私にとっては、わからなさの魅力を湛えたまま、その人は生きている。

 すぐに、その「私」とは誰か、と問いを突きつけられる存在として。


 『残酷人生論』(池田晶子 毎日新聞社)