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桜と絵本と豆乳と

誰かのための包む存在

2011年04月24日 | 読書
 ある教材社の出している冊子に、詩人の工藤直子のインタビュー記事が載っていた。

 私にとって工藤直子の詩はずいぶんと思い出深い。十数年前だったが研究大会の講演で本人の話を聞いたこともある。ただのオバサンだなあ、あまり話は上手ではないなあ、という残念な印象だったが、書く詩は別物でその後もよく授業に取り上げていたように思う。

 今回の記事の中で特に目に留まったのは、次の文章だった。

 「何かをやれ」も「何かをやるな」も言われたことはない。けれど父のそういった行動には子どもにとってちょうどいい居心地のよさというのがちゃんとあって、わたしはそこが好きだったのだと思います。

 「父ちゃん子」だったという。幼いときの父親の思い出を語るなかで、深い安心感に包まれている様子がよく伝わってきた。
 
 「居心地のよさ」は求めても簡単に手に入るものではない。家族であっても簡単ではない場合もあるし、これが学校であったり職場であったりすれば、もしかすればかなり稀なことになるかもしれない。
 人それぞれの性格の違いはあるにしろ、他人から強制が大きいときに感じるのはやはり抑圧感であり、居心地のよさと一番かけ離れたものだろう。

 もう一つ大事な要素がある。
 幼い頃「死の恐怖」を知ってしまい、寝床で泣き出したときに、本当の理由は言えなかったが、父親はいつも問い質さずに、「そうか。ま、来いや」と言った。

 理由を聞くのでもなく、ただ黙ってひざの間にわたしを坐らせる方法をとっていた父

 いつの時代であっても、どこの場所であっても、問題の解決は言葉だけでできるものではない。

 結局解決できない問いも世の中には多くあるが、包まれることによって、痛みや苦しみと感じなくなったりするときも少なくない。
 
 そういう体験を繰り返しながら振り返ってみるとき、人は自分も誰かのための包む存在になりたいと思うのかもしれない。