『生きるチカラ』(植島啓司 集英社新書)
あらゆる選択は誤りを含んでいる
これは名言だなあと思う。
「人生は選択の連続である」と言ったのは確か我が師匠だったと記憶している。
人は常に選択をし続けながら生きている…言われてみればもっともである。
目の前にある仕事を先にすべきか、後回しでもいいか。
休憩時に何を飲むか。
あっ苦手な人がきた、どんな言葉をかけようか。
そのような意識的な行動はもちろん、窓の外を見やってどの方向に顔を向けるかも選択といえば選択だろう。
行動の全ては、選択された道とそれ以外の選択されなかった道に分かれている。それを偶然といおうか必然といおうが、その結果として自分は誰かと共に暮らし、こういう仕事に就き今ここにいる。今、ここでキーボードをたたいていることも選択の結果である。
仕事上の様々なこと、周囲に起こる雑多な問題への対処など、その選択に間違いはなかったかと自問をするときがある。
どんなに賢明に見える選択も、何パーセントかそれを超える可能性があったのではなかったかと思うことは常だ。
逆に、失敗だったなと思える行動であっても、そのことによって何か得られたという感覚を味わったことも確かにある。
要は、どんな選択をしてもそこに価値はある。その価値を見いだせるかどうか、ということか。
間違ったように思える選択、傍目から見れば無謀にしか思えない行動と、妥当な選択や賢明な行動を比べることに意味などない。
いかに、自分の選択に価値を見いだし、次の選択に結びつけていくかしかないだろう。
それが「幸せ」への近道。
この本のテーマで言えば、「死ぬことを最大の幸福と見なす生き方」への道である。
昨日書いたことと並べて考えてみれば、きっと「中途半端が一番いけない」。
あっけらんと悩まずに素早く選択する生き方と、いつまでも選択を先延ばしし(実は「選択しない」ということを選択している)ぐずぐずする生き方が、より幸せに近い。
中途半端な選択を繰り返している自分だからこそ、見える。
しかし、その中途半端さにさえも、多くの幸せはついてきている。
むろん少なくない誤りのうえに成り立っているわけだが、今さらそれを嘆いてみたところでどうしようもない。
あらゆる選択は誤りを含んでいる
これは名言だなあと思う。
「人生は選択の連続である」と言ったのは確か我が師匠だったと記憶している。
人は常に選択をし続けながら生きている…言われてみればもっともである。
目の前にある仕事を先にすべきか、後回しでもいいか。
休憩時に何を飲むか。
あっ苦手な人がきた、どんな言葉をかけようか。
そのような意識的な行動はもちろん、窓の外を見やってどの方向に顔を向けるかも選択といえば選択だろう。
行動の全ては、選択された道とそれ以外の選択されなかった道に分かれている。それを偶然といおうか必然といおうが、その結果として自分は誰かと共に暮らし、こういう仕事に就き今ここにいる。今、ここでキーボードをたたいていることも選択の結果である。
仕事上の様々なこと、周囲に起こる雑多な問題への対処など、その選択に間違いはなかったかと自問をするときがある。
どんなに賢明に見える選択も、何パーセントかそれを超える可能性があったのではなかったかと思うことは常だ。
逆に、失敗だったなと思える行動であっても、そのことによって何か得られたという感覚を味わったことも確かにある。
要は、どんな選択をしてもそこに価値はある。その価値を見いだせるかどうか、ということか。
間違ったように思える選択、傍目から見れば無謀にしか思えない行動と、妥当な選択や賢明な行動を比べることに意味などない。
いかに、自分の選択に価値を見いだし、次の選択に結びつけていくかしかないだろう。
それが「幸せ」への近道。
この本のテーマで言えば、「死ぬことを最大の幸福と見なす生き方」への道である。
昨日書いたことと並べて考えてみれば、きっと「中途半端が一番いけない」。
あっけらんと悩まずに素早く選択する生き方と、いつまでも選択を先延ばしし(実は「選択しない」ということを選択している)ぐずぐずする生き方が、より幸せに近い。
中途半端な選択を繰り返している自分だからこそ、見える。
しかし、その中途半端さにさえも、多くの幸せはついてきている。
むろん少なくない誤りのうえに成り立っているわけだが、今さらそれを嘆いてみたところでどうしようもない。