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「心の力」再吟味への道

2011年04月21日 | 雑記帳
 初物に宝あり…その二つ目。

 「心の力」という表現は、初めて見たような気がする。

 今年所属した研究団体のテーマの副題として掲げられていた。
 「心の力を育む道徳の時間のあり方

 もちろん文句をつけるつもりはさらさらないし、慎重に協議したうえでの文章化であるはずなので、勝手にただ妄想を膨らませ私的解題を試みたい。

 「心の力を育む」…うーん、一般的には「~~な心を育てる、育む」だろう。
 「心の力」とした場合、いわば色のつかない?心、形容のない心全体を表しているということになるだろうか。
 つまり、そもそもの心を善なるものととらえて、用いていることか。

 広辞苑によれば、「心」の第一義は「人間の精神作用のもととなるもの、またその作用」とある。

 言い換えてみてもいいか。
 精神作用の力、精神力…なるほど、一般的だ。
 では「心の力」とは「精神力」のことか。

 「精神力を育む道徳の時間のあり方

 なんだか、ずいぶんと強い印象になる。内容としてはかなり近いと思うのだが「心」を用いることでソフトな印象をねらったか。

 いいや、それだけではあるまい。
 「精神」の意味として、「心・たましい」の次にこのような記し方がされている。
 「知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き

 ここに目をつければ「心の力」も極めて教育的な解釈となるのではないか。
 つまりは、学習指導要領に記すところの「道徳的実践力」に近いという結論になる。

 となんだか予定調和的に進んだ感じがする。しかし…

 「心の力」と書いて、すぐ比較として浮かんだのは「言葉の力」であった。
 言葉は道具だから…という考えを書いた時に、ふと以前読んだ教育雑誌の一節がよぎり、調べ直してみた。

 「言葉の力」と題された内田樹氏の文章である。

 人間的な意味での「力」は、何を達成したか、どのような成果を上げたか、どのような利益をもたらしたかというような実定的基準によっては考量されない

 道徳教育の一つの締めの言葉としての道徳的実践「力」への疑い…

 ここに到って、「心の力」を再度吟味してみる気持ちが湧いてくる。

 傍から見れば堂々巡りのようであっても、なかなか遊べる時間である。