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大谷翔平、日本人メジャー初の30本塁打&30盗塁 史上6人目「40−40」偉業まで射程圏内 2024/08/12 11:00日刊スポーツ

2024-08-12 20:40:51 | 日記
大谷翔平、日本人メジャー初の30本塁打&30盗塁 史上6人目「40−40」偉業まで射程圏内
2024/08/12 11:00日刊スポーツ

大谷翔平、日本人メジャー初の30本塁打&30盗塁 史上6人目「40−40」偉業まで射程圏内

アスレチックス対ドジャース 9回表ドジャース無死一塁、シーズン30盗塁目となる二盗を決める大谷(2024年8月3日・現地時間)

(日刊スポーツ)

ドジャース大谷翔平投手が、30本塁打&30盗塁を達成しました。日本人メジャーとして初の「30−30」クラブに仲間入り。これは野球の2大要素であるパワーとスピードを兼ね備えた、エリートの勲章になっています。

アメリカ野球の歴史を振り返ると、1920年ヤンキースにベーブ・ルースが移籍し、ホームラン時代が到来。それまで「飛ばないボール」の時代に幅を利かせたバントや盗塁が影を潜め、豪快なホームランで多くの得点をたたき出す野球へと変化しました。

35年にルースが引退すると、新たなスターとしてジョー・ディマジオが登場。ヤンキース一筋13年間で通算361本塁打を放ち、そのうえ足も速く、当時のジョー・マッカーシー監督は「私が見た中で最高のベースランナーだ」と絶賛しました。それにもかかわらず、メジャーでは通算30盗塁しかマークしませんでした。

51年にはディマジオの後継者として、ミッキー・マントルがデビュー。史上最強のスイッチヒッターとして通算536本塁打を放ちました。また、俊足の持ち主でもあり、球界関係者から「年間40盗塁できる才能がある」と太鼓判を押されました。それなのに、最も多くて年間21盗塁でした。

なぜなら当時の監督は、危険なスライディングで選手をけがさせたくありませんでした。特に、伝統的に強打が売り物のヤンキースは、ホームランで得点する攻撃スタイルだったので、なおさら盗塁を必要としませんでした。だから「30−30」という記録は生まれにくかったのです。

ところが、47年に黒人大リーガー第1号のジャッキー・ロビンソンが、ドジャースからデビューしました。彼は人種の壁を破っただけでなく、持ち前のスピードで野球のスタイルまで変えました。特に51年ジャイアンツに入団したウィリー・メイズは豪快なホームランだけでなく、積極果敢に盗塁も企て、56、57年と2年連続で30本塁打、30盗塁を達成しました。

60年代後半から全米各地に外野が広く、人工芝に覆われたスタジアムが完成しました。従来のパワーにスピードを加えた選手が、大いに注目を浴びるようになりました。中でも、ジャイアンツでメイズの後継者となったボビー・ボンズは、2つの才能を遺憾なく発揮。69〜78年までの10年間に通算5度も「30−30」を成し遂げました。

それでも、86年までメジャーにわずか6人しか「30−30」達成者はいませんでした。それが何と、87年に一気に4人が「30−30」クラブの仲間入り。そのうち、メッツからダリル・ストロベリー、ハワード・ジョンソンと史上初の「30−30」コンビも誕生しました。

88年アスレチックスで、映画の題名から「ナチュラル」と呼ばれたホセ・カンセコが、40本塁打、42盗塁を記録し、史上初の「40−40」という偉業達成しました。その頃からメジャーでは筋力トレーニングによるパワーアップが盛んに行われ、パワーとスピードを兼ね備えた記録が次々に生まれる時代となりました。

以来、96年ジャイアンツでボンズの息子バリー・ボンズ、98年マリナーズの「A・ロッド」ことアレックス・ロドリゲス、2006年ナショナルズのアルフォンソ・ソリアーノ(元広島)、昨年ブレーブスのロナルド・アクーニャと合計5人の「40−40」も誕生しました。

近年メジャーは本塁打数の増加に比べて盗塁数が減少傾向にありましたが、昨年からベース拡大やけん制回数制限の新ルール導入によって、盗塁数は大幅に増加しました。22年にメジャーで「30−30」の達成者はいませんでしたが、昨年のアクーニャによる前人未到の「40−70」はじめ、「30−30」が4人も誕生しました。

今年は大谷が史上3番目の速さで「30−30」に到達し、このペースでいくと史上6人目となる「40−40」の偉業までは射程圏内。デーブ・ロバーツ監督が「唯一無二」という大谷だったら、夢の「50−50」も達成可能です。

【大リーグ研究家・福島良一】(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「福島良一の大リーグIt's showtime!」)



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