白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ああモンテンルパ・・・。

2009-09-18 23:32:22 | インポート

九月十八日(金)曇り。

 昨夜、先日、録画をしておいたモンテンルパ刑務所の死刑囚を救出する映画を見た。渡辺はま子さんが歌ったヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」にちなんだ、日本兵の救出の物語である。酒が入っていたせいもあってか、もう泣けて、泣けて仕方がなかった。ただ、渡辺はま子さんが、戦時中に行った軍への慰問などを、いかにも後悔しているような描き方には納得しがたかった。彼女の自伝を読んだことがあるが、決してそんなことは言っていなかった。むしろ兵隊を歌によって励ますことを誇りに思っていると、書いていた。

 本来は、講和条約が締結されたならば、戦争捕虜は釈放されるべきなのに、戦勝国の機嫌をとるように、外地に置き去りにした時の政府の無責任は重い。特にBC級といわれた人たちのほとんどが冤罪であったと言われている。フィリピンでの軍事裁判による、いわゆる「指差し裁判」などはその典型で、犯人と指差された人が、当時はまったく別の場所にいた、なんていうこともザラだったと言う。またタイなどでは、日本の兵隊を告発したならば、金や食糧が貰え、そのために多くの日本人が死刑になった。東洋人に敗れた白人の復讐が行われたのだ。

 テレビでは、フィリピンの人たちの日本軍に対する憎悪、としきりに言っていたが、米国がフィリピンを植民地にした折に人民に行った残酷な仕打ちは枚挙にいとまがない。正直言って、「日本軍の憎悪」なんてことよりも、新しい支配者に対するご機嫌取り、が、敗残の兵に対する残酷な行為となっただけだ。早い話が、懐にアメリカの国旗と日の丸を用意して、都合の良い旗を振る。それが、あそこの人たちが長年培ってきた、生きる術と言っても過言ではない。英語、タガログ語、スペイン語に堪能なのも、生きるために本能として覚えざるを得なかったのだろう。日本人は、あの戦争において、白人の植民地支配からアジアを解放したことの誇りを、もう少し持つても良いのではないだろうか。

 ドラマを見て、思い出したのは、野村先生はモンテンルパ刑務所の慰問を幾度か行った。それは、ここでの日本兵の悲話に対する強い思いがあったに違いない。私も、一度だけだが先生のお供でモンテンルパを訪れたことがある。同行したのは、四宮正貴先生や、当時フライデーの記者をしていた新藤厚氏、私の盟友の古谷喜久男氏、マニラ在住のヒロ山口氏などである。慰霊碑に花を手向けて、四宮先生が「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌い、途中で感極まって号泣し、つられて我々も涙を流した。忘れられない思い出である。

98780017 慰霊碑に手を合わせる野村先生。

0639

モンテンルパ刑務所。平成三年三月。

 今日は、事務所で事務処理。珍しく伝票整理や在庫整理などを行った。秋も深まってきたので、夜は鍋にした。しかし休肝日である。

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