白雲去来

蜷川正大の日々是口実

再び、福田和也さんを悼む。

2024-09-28 12:21:14 | 日記

9月26日(木)晴れ。

掛け布団を出した。朝方に使ったがお陰様でぐっすり眠れた。なんとなく「おでん」が食べたくなって炊いた。なぜおでんは「炊く」のか。西日本の方では「煮る」ことを「炊く」とも言うので、それが伝わったとのこと。そういえば、真っ黒い出汁でたくおでんは「関東炊き」という。私は、カツオと昆布で炊いた透き通った出汁の関西風の方が好きだ。

先日、伊勢佐木町の書店有隣堂に行った時に、文芸評論家の福田和也さんが亡くなった後なので「追悼コーナー」でもあるのかと思ったら、追悼コーナーどころか彼の本も書棚に見つけることが出来なかった。少し寂しい思いがした。現在発売中の『週刊新潮』の「墓碑銘」は「文芸評論家、知の巨人・福田和也さんの博覧強記(はんらんきょうき=広く書物を読み、いろいろな事をよく記憶していること)」。そして産経新聞9月27日には「福田和也さんを悼む」の記事。

その記事によると、記者が「福田さんと最後に会ったのはおよそ6年前のことだだ。産経新聞社の取締役から『江藤淳さんの全集を産経で出せないだろうか』との相談を受け、ならば江藤さんの弟子だった福田さんに相談してみるのがいいと思います。まず会いませんかと答えた。すぐさま福田さんに連絡を取り、上野のうなぎ屋で顔を合わせた。衝撃的だった。頬はげっそりとこけ、手はブルブル震え、言葉もなかなか出てこない。そこには毎月100冊読み、文学、歴史、政治、社会など多岐にわたるテーマで毎月300枚もの原稿を書き夜な夜な乃木坂(東京都港区)あたりでたっぷり飲み食いしていたころの『無頼』とでもいうべき福田さんの面影はまったくなかった。全盛期のめちゃくちゃな暮らしぶりで痛めつけられた肉体が、主である福田さんに復讐を始めたのか、と感じた」。

私も、書店で福田さんの著書『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』を買った時に、そこにあった最近の福田さんの写真を見て、その変わりように「エッ」と声を挙げてしまった。享年63歳。日本の大切な「知」が失われてしまった。

 

 


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野火赤く 人渾身の悩みあり。

2024-09-26 18:30:36 | 日記

9月24日(火)曇り。

夜中に、あんまり寒くて目が覚めた。一瞬、クーラーの温度設定を間違えたのかと思ったら、消してある。いきなり真夏から晩秋になった。慌てて、タンスからトレーナーを出して着て寝たが、まだ寒い。掛け布団は納戸だし、参ったなぁ―。体がついて行かない。

食欲がなく、朝食は抜いて愚妻を誘って「ココ壱」にてご飯少なめのクリームコロッケカレー。食後は事務所へ。先日、三島由紀夫のファンだという弁護士先生と飲んだので、三島先生の「憂国」の書(洛風書房作のコピー)があるので贈呈しようかと思って探したが、何処にしまったのか失念し、次回にした。

たまに野村先生の千葉時代の『獄中日記』(弊社刊)を読むときがある。以前先生に聞いた話だが、河野一郎邸焼失事件にて12年を千葉刑務所にて過ごした。その時に、人間関係などに悩み、幾度か「死」を考えたことがあったそうだ。座禅を修行の一つとしていた先生は、そんなときに受けた天啓の一つに「死ぬべき時に死ねない奴はだめだが、死ぬべきでない時に死ぬ奴はもっと駄目だ」と言うことであったそうだ。その時に作った句が「この雪の打擲 耐へて耐へてゆく」。私は、その句を読むたびに若かりし頃の先生の耐えた苦悩の重さと深さに思いを馳せ、身が引き締まる思いがする。

生活苦、人間関係、大病に直面している人たちがいる。浪人の身ゆえ何も力になれないことを恥ずかしくも思うが、皆、「渾身の悩み」に耐えて生きている。そして先生の「死ぬべき時に死ねない奴は駄目だが、死ぬべきでない時に死ぬ奴はもっと駄目だ」という言葉が脳裏に浮かぶ。

昨日、先生の墓前にて手を合わせた。祈ったのは、渾身の悩みに直面している、友人、後輩に力を与えて下さいと言うこと。※写真は、平成5年8月、先生の自決2カ月前、最後の旅となったカサブランカにて。


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伊勢原に彼岸花咲いて群青忌。

2024-09-25 12:12:51 | 日記

9月23日(月)晴れ。秋分の日。

昨日から我が家に帰宅している次女を連れてお墓参り。往路の高速はスムースに走れたが、反対側の登りは事故渋滞らしく海老名のあたりから延々渋滞が続いていた。午後一時お墓着。いつも仏花を買うJAに寄ったら、普段は余り口をきいたことのないレジのおばちゃんが、娘を見て「えー、いつも連れて来ていたお子さんが、こんなに大きくなったの」と驚いていた。お寺までの道に今年は彼岸花が少なかった。伊勢原に彼岸花咲いて群青忌。

まず、ご住職にご挨拶。随分と痩せていて元気がないので、訳を聞いたら「最近、心臓の手術をして、ペースメーカーを入れた」とのこと。ご住職と私は同じ歳である。最近は、友人知人に、そういった大病をしている人が多い。かつて野村事務所で編集の手伝いをしていた木村ゆかりさんが、すい臓がんで闘病中である。ゆかりさんは、私の機関誌『燃えよ祖国』で、ウクライナでのボランティアの体験を連載して頂いている。全国の災害現場に赴き、ボランティア活動をしていることは有名である。野村先生の墓前で、ゆかりさんのご快癒を祈った。私たちが来る前にどなたかが来たのだろうお線香が消えずにあった。感謝である。その後、私の両親のお墓に行き、手を合わせた。今月の3日は平成16年に亡くなった父の命日。義父も父も、現在の私の歳、74歳で亡くなっている。

帰りは、車線の変更を間違えてしまい茅ケ崎方面に行ってしまった。新湘南バイパスから戸塚方面へ。連休の最終日とあってか渋滞していて、二時間近くかかって帰宅。その後、長女らと伊勢佐木町の有隣堂へ。「何冊買っても私が払うので遠慮しないで」と太っ腹な言葉に甘えて文庫本を含めて6冊購入。来月に恒例の断食に行くので、その折に読む本を買った。当然難しい本ではなく、酒と旅の本が中心。5時30分から家族で次女の少し遅い誕生日の食事会のために西横浜の「オアジ」へ。お店は満席であったが、ほとんどが顔見知りのお馴染みさんばかり。二時間ほどいて解散。次女を西横浜の駅前で見送って帰宅。いい一日だった。


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福田和也さんが訪れた赤門の寺

2024-09-22 11:49:49 | 日記

9月21日(土)晴れ。

じっとしているだけで汗がじわっと流れ出てくるような一日。九月も半ばを過ぎたのに連日の30度超え。ダメな政治が紀行までに影響しているのか。朝食は、余り食欲がないので「お粥」を作った。白髪ねぎに、ごま油と醤油で味を付けて薬味に。2時半に平塚駅で松本佳展君と待ち合わせて、平塚八幡宮の会議室にて開催される日本会議の講演会に出席。

講師は、岩田清文元陸上自衛隊幕僚長。いま世界にある危機と台湾有事のシュミレーション。まさに世界は平和ではない、という再認識が出来た。三島研の弁護士さんなど良い出会いもあり、有意義な講演会だった。終了後は、関内のアグー豚しゃぶしゃぶのお店「青」へ。沖縄の味を堪能美味しかった。その後、2軒転戦。12時を少し回った頃に帰宅。

夕方、お世話になってたいるジャーナリストの久田将義さんから連絡があり、20日に亡くなられた文芸評論家の福田和也さんの思い出話を少し。以下は、14年前の10月に書いた私のブログから引用。『福田和也さんが訪れた赤門の寺』より。

文藝評論家で、「群青忌」で講演をして頂いたこともある福田和也氏が、週刊新潮で「世間の値打ち」というコラムを連載している。その第四百九回(8・26号)が「忘れられた横浜の怪人・田中平八の足跡を訪ねた」というもの。明治の横浜の女傑として名高い「富貴楼お倉」こと斉藤くらが生糸や米相場で巨利を得た「天下の糸平」こと田中平八をスポンサーとして中区の尾上町に開いた料亭が「富貴楼」である。「伊藤博文が富貴楼の芸妓に産ませた女子を育て上げて、官僚に嫁がせいる。元勲たちの後始末をそしらぬ顔をしてやる器の大きさも、お倉の富貴楼の大きさであった。井上馨、岩倉具視、大隈重信、陸奥宗光どころか、大久保利通でさえ一目置いたという、一代の女傑であった」と、福田氏は書いている。

現在は、尾上町にその「富貴楼」を偲ぶ碑の一つもないが、お倉の墓は、京急、黄金町駅からすぐ近くにある、通称「赤門の寺」、東福寺にある。田中平八の墓もそこにあるとは迂闊にも知らなかったが、実は、その東福寺は、野村家の墓所でもあり、私が子供の頃の遊び場でもあったお寺だ。野村先生のご両親はそのお寺にあるお墓に眠っているが、お墓の横に、

  昂然とゆくべし 冬の銀河の世

 という野村先生の句碑がある。


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福田和也氏の訃報に驚く。

2024-09-21 11:11:36 | 日記

9月20日(金)晴れ。

今日は、古い同志であった折本満さんのご命日。平成28(2016)年の今日、すい臓がんで亡くなられた。享年64歳。また、16日は、元展転社の藤本隆之さんのご命日。二年前に亡くなられた。享年60歳、今年は三回忌。また3日は私の父の命日。7日は見沢知廉さんのご命日。30日は中村武彦先生のご命日。中村先生を除いて皆、私より若くして亡くなっている。

そう思っていたら、ネットニュースで文芸評論家の福田和也さんの訃報を知った。保守派の論客として知られた文芸評論家で慶応大名誉教授の福田和也(ふくだ・かずや)さんが20日午後9時47分、急性呼吸不全のため千葉県浦安市の病院で死去した。63歳。東京都出身。葬儀は関係者のみで行う。喪主は妻圭子(けいこ)さん。文芸評論家の江藤淳さんに才能を見いだされ、若くして論壇と文壇の双方で活躍。「日本の家郷」で三島由紀夫賞、「甘美な人生」で平林たい子文学賞(評論部門)を受賞した。人物評伝から食を巡るエッセーまで幅広いテーマで執筆活動を展開。慶応大で教壇に立ち、テレビやラジオのコメンテーターも務めた。「地ひらく」で山本七平賞、「悪女の美食術」で講談社エッセイ賞を受賞。以上、ネットニュースから。

以下は、楚昨年の6月に書いたブログから。過日、産経新聞の書評欄で、久しぶりに福田和也氏の名前を見た。一時期は、保守の論壇の寵児として、様々な媒体で活躍しており、決して大げさではなく福田氏の文章や名前の見ないことはなかった。それが、いつの日からか、全く、名前を見なくなった。(私の勉強不足だったら許してください)どうしているのだろうかと、心配していた。

福田氏は、平成10年に開催した野村先生の追悼集会「群青忌」の第五回横浜集会で追悼講演をして頂いた。それ以降は個人的なお付き合いはなかったが、最後に本を読んだのは『日本綺人伝』(廣済堂新書)か。またもう13年も前だが福田氏が『週刊新潮』で「世間の値打ち」というコラムを連載していた。その第四百九回(8・26号)が「忘れられた横浜の怪人・田中平八の足跡を訪ねた」というものがあり、野村先生のご両親の眠るお墓のある横浜市西区にある東福寺、通称「赤門の寺」を訪れたことが書いてあり、ちょっと感慨深かった。その福田氏の新刊本と言うのが、『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることであるーコロナ禍「名店再訪』から保守再起動へ』(河出書房新社・1870円)。

明治大准教授の酒井信氏の書評を一部紹介させて頂く。

福田和也が本作でいう「日常を大切にし、それを文化とする心」は、彼の旺盛な執筆活動=生き方と深く関係する。冒頭の東京・大井町、丸八のページには、2度揚げされたとんかつへの「等身大の愛」が綴(つづ)られ、神保町の名店ランチョンやキッチン南海のページには「取り替えのきかない郷愁」があふれる。馴染みの店でのひと時を、読者の食欲をそそる「臨場感あふれる言葉」で綴る福田の日常に根差した文芸は、福田恆存の言う「文化」の域に達している。

表紙の痩せた福田和也の姿を見て、読者は驚くだろうか。コロナ禍の飲食店を訪ねるこの連載中に3度倒れ、3度救急搬送されたという。ただ本書でも、「批評の目玉」の鋭さは健在で、福田という「とんかつの衣」から「中の人=真打ち」が出てきた印象さえ受ける。読んでいて何度も涙がこぼれた。「日常の精神の安寧」を尊ぶ福田らしい「生きた文学」で、彼の弟子であることを誇らしく思う。※第五回・群青忌のポスター。

 


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