2月6日(土)晴れ。
ついに今年初めての生ワカメをゲット。早速、味噌汁に。マグロの刺身で朝食。昼は、生ワカメをどっさり入れた蕎麦。夜は、エビフライ、キャベツの千切り添え、マグロの刺身、焼きタラコ。お供は「赤霧島」。酔狂亭にて独酌。
山平重樹さんの『ニューラテンクオーター物語』を読んでから事務所にある関連本を持ってきて読んでいる。ラテンの支配人だった方が書いた『赤坂ナイトクラブの光と影』、そして赤坂にあったナイトクラブ「ぺペルモコ」のオーナーの杉良治氏の『六本木水脈』(KKベストブック)。二冊とも二読目なのだが、何せ十五年以上も前に買ったものなので、ほとんど内容に記憶がない分新鮮だった。山平さんの本を読まなければ、まず再読はしなかったに違いあるまい。六本木にあったピザハウス「ニコラス」のオーナーが書いた『東京アンダーグラウンド』も書棚にあるはずなのだが、見当たらなかった。『六本木水脈』の中に野村先生に触れた一文があるので紹介してみたい。
『たまに一人で〔ペペルモコ〕へふらっと見えたのが野村秋介さん。廣済堂出版から本を出した時、二番町にある〔ダイヤモンドホテル〕で行われた出版記念パーティーヘ行ったことがあります。野村さんは「河野一郎邸焼き討ち事件」、「経団連襲撃事件」など、自分の「信念」のもとに生きた人ですから、関東だけでなく関西からも任侠の親分衆がたくさん集まっていました。そのパーティーで二人の人から二度紹介を頂きました。「人みなさすらいの道」みたいなことをさらっと書いてくれる人で、にこやかな顔で明るく人を説いていました。野村さんが亡くなった後、野村さんと家族がヨーロッパ旅行をした映像などを収めた映画を見せてもらいました。最後の家族孝行だったのでしょう。ラストシーンは、マニラ湾に沈む夕日に向かって野村さんがバンダナを頭に巻いてピストルを撃つシーンです。何かの想いを感じさせるシーンでした。この時に野村さんは腹を決めていたのではないかと思っていたのですが、ある人に聞くともっと前からだったということです。
野村さんはなぜ死に急いだのか、私如きには分かりません。が、野村秋介さんが私淑していたある任侠の大親分から遺族以外の三人に遺した直筆の手紙を見せてもらいました。達筆な字で生前の感謝の念を述べ、最後に「三途の川で一足先に……」と結んでいました。大親分は、「顔の見えない雇われ社長の朝日新聞如きで死なせるには、ちょっと相手が小さすぎたな」と残念かっていたのが印象的でした。「獄中二〇年、信念に沿って生き、また、信念に基づいて死んでいく」これが野村秋介さんの男の美学だったのでしょう。私達もいずれは去っていく身の上ですが、道は違ってもどう生きていくのかということを教えてくれた人だと思います。』(第二部「ペペルモコ」伝説の軌跡)より。
ちなみに、私は、昭和60年ころだと思うが一度だけ「ペペルモコ」に行ったことがある。