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咸臨丸と龍馬伝と高知・城西館と 2010.5.27‐29
とある懸賞で高知の老舗名旅館「城西館」の1泊2食付ペア宿泊券が当った。龍馬伝にはまっている女房殿と早速高知へ!というのももったいないので、鳴門の渦潮を間近に見たことがないという女房殿のために、南淡路温泉に前泊。
福良港からうずしおクルーズが出港している。潮見表によると翌朝5月28日は午前10時50分の船に◎がついている。潮の干満と関係するだけに時刻はこちらの勝手というわけに行かない。この時間の船名はなんと龍馬ゆかりの「咸臨丸」。
鳴門海峡は幅が1.3kmと狭く、かつ海峡中央部が水深約100mと深く両岸部の浅瀬との間に出来る潮流の速度差(中央が早く両岸が遅い)が渦を作る原因となり、大鳴門橋の下では壮大な景観が朝夕繰り広げられている。
(左)渦潮クルーズ船「咸臨丸」 (右)大潮の時は直径30mの渦もあるとか
さて、渦潮見物を終えた我々は、一路高知に向け車を走らせること2時間少々。高知城近くの城西館さんにチェック・イン後、夕食までの時間を高知城見物に出かける。
途中、県庁前に幕末に建てられた山内家足軽屋敷が残っており、自由に内部の見物が出来る。土佐24万石の高知城は山内一豊が築いた城。典型的な平山城で、1601年に大高坂山に築城着工し、1603年本丸等竣工し入城。1610年地名を高智山と改名、これが高知の地名の始まりと言われる。
(左)山内家足軽屋敷(見学自由) (右)高知城(追手門と天守閣)
城西館に戻り、ご自慢のお風呂に入ってお部屋での夕食。皿鉢料理を中心に見た目も美しい美味しい料理が次々と出され、大満足。この城西館、創業130年の老舗で昭和天皇はじめ現天皇・皇后両陛下、吉田茂とその門下生の歴代首相等々が泊まられた格式ある旅館。さすがに従業員のホスピタリティ溢れるもてなしも板についたもの。お世辞抜きに久々に日本の旅館の良さを体感した次第。
(左)城西館 (右)部屋での夕食(皿鉢料理やはちきん地鶏の蒸し物、更に美味しい料理が次々と...)
(左)皇室、政治家等、訪れた名士の色紙や写真が、 (右)最上階の浴場からの眺望
翌早朝、午前6時半から城西館スタッフによる旅館界隈の龍馬ゆかりの地を巡るツアーがあるというので、それに参加する。約40分ほどかけて、城西館→才谷屋跡(龍馬本家)→近藤長次郎邸跡→水天宮→鏡川((乙女姉やに龍馬が泳ぎを特訓された川)→鏡川沿い屋敷筋→日根野道場跡(推定)→水丁場石碑→龍馬郵便局→秋葉神社(防火の神)→龍馬生誕地→城西館と早朝の街を巡るツアーであった。
(左)城下の主要な見所マップ (右)坂本本家筋の「才谷屋」跡
(左)龍馬が泳いだ鏡川(龍馬は泳げなかった?) (右)四・六丁の水丁場(この近辺に日根野道場があった模様)
(左)珍しい歴史上の人物名の郵便局 (右)龍馬生誕地石碑(吉田茂書、城西館のすぐ近く)
朝食・入浴後、城西館の裏手にある「龍馬の生まれたまち記念館」を訪ねる。竜馬が生まれ育った上町での少年・青年時代を中心に展示している。上町は下士が住む町。関が原の戦いで徳川方に味方し功績のあった山内家に仕える武士達は上士、一方豊臣方に味方した長宗我部家に仕えていた人々(一領具足=武装農民)は下士と言われ、大きな差別があった。城西館から少し東に行った升形商店街が上士と下士の住む街の境界であったとか。武市道場は城の東にあり、西に住む竜馬が武市道場に行くには大いに迂回しなければならなかったのだろう。
城西館の裏手にある市立「龍馬の生まれたまち記念館」
記念館を見物後、城西館を後にして一路桂浜へ。45年前の学生時代、貧乏四国旅行をした際、桂浜でテントを張ったが、周りには茶店が一軒だけあり、そこのおばあさんが延々と名口調で「純信・お馬の悲恋物語」を語ってくれたことを思い出す。ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が、大ヒットした頃である。その時の印象では龍馬像はもっと海岸に近かったと記憶しているが、観光案内で聞くと龍馬像の位置はその当時と変わってはいないと言う。周りがあまりに変わってしまったようだ。
(左)桂浜の龍馬像 (右)龍王岬を背景に(今は水族館や県立龍馬記念館が浜に整備されている)
最後は純信のお寺、四国八十八ケ所第31番札所「竹林寺」を五台山に訪ねる。何組かの巡礼の姿が散見される。唯一の文殊菩薩を本尊とするお寺。孫にお守りを買って帰る。ここでは純信とお馬さんの物語はご法度のようで、純信という修行僧がいたことは明記されている。
四国八十八ケ所第31番札所「竹林寺」
「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た ♪♪♪ 」 口ずさみつつ、竹林寺を後にする。
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咸臨丸と龍馬伝と高知・城西館と 2010.5.27‐29
とある懸賞で高知の老舗名旅館「城西館」の1泊2食付ペア宿泊券が当った。龍馬伝にはまっている女房殿と早速高知へ!というのももったいないので、鳴門の渦潮を間近に見たことがないという女房殿のために、南淡路温泉に前泊。
福良港からうずしおクルーズが出港している。潮見表によると翌朝5月28日は午前10時50分の船に◎がついている。潮の干満と関係するだけに時刻はこちらの勝手というわけに行かない。この時間の船名はなんと龍馬ゆかりの「咸臨丸」。
鳴門海峡は幅が1.3kmと狭く、かつ海峡中央部が水深約100mと深く両岸部の浅瀬との間に出来る潮流の速度差(中央が早く両岸が遅い)が渦を作る原因となり、大鳴門橋の下では壮大な景観が朝夕繰り広げられている。
(左)渦潮クルーズ船「咸臨丸」 (右)大潮の時は直径30mの渦もあるとか
さて、渦潮見物を終えた我々は、一路高知に向け車を走らせること2時間少々。高知城近くの城西館さんにチェック・イン後、夕食までの時間を高知城見物に出かける。
途中、県庁前に幕末に建てられた山内家足軽屋敷が残っており、自由に内部の見物が出来る。土佐24万石の高知城は山内一豊が築いた城。典型的な平山城で、1601年に大高坂山に築城着工し、1603年本丸等竣工し入城。1610年地名を高智山と改名、これが高知の地名の始まりと言われる。
(左)山内家足軽屋敷(見学自由) (右)高知城(追手門と天守閣)
城西館に戻り、ご自慢のお風呂に入ってお部屋での夕食。皿鉢料理を中心に見た目も美しい美味しい料理が次々と出され、大満足。この城西館、創業130年の老舗で昭和天皇はじめ現天皇・皇后両陛下、吉田茂とその門下生の歴代首相等々が泊まられた格式ある旅館。さすがに従業員のホスピタリティ溢れるもてなしも板についたもの。お世辞抜きに久々に日本の旅館の良さを体感した次第。
(左)城西館 (右)部屋での夕食(皿鉢料理やはちきん地鶏の蒸し物、更に美味しい料理が次々と...)
(左)皇室、政治家等、訪れた名士の色紙や写真が、 (右)最上階の浴場からの眺望
翌早朝、午前6時半から城西館スタッフによる旅館界隈の龍馬ゆかりの地を巡るツアーがあるというので、それに参加する。約40分ほどかけて、城西館→才谷屋跡(龍馬本家)→近藤長次郎邸跡→水天宮→鏡川((乙女姉やに龍馬が泳ぎを特訓された川)→鏡川沿い屋敷筋→日根野道場跡(推定)→水丁場石碑→龍馬郵便局→秋葉神社(防火の神)→龍馬生誕地→城西館と早朝の街を巡るツアーであった。
(左)城下の主要な見所マップ (右)坂本本家筋の「才谷屋」跡
(左)龍馬が泳いだ鏡川(龍馬は泳げなかった?) (右)四・六丁の水丁場(この近辺に日根野道場があった模様)
(左)珍しい歴史上の人物名の郵便局 (右)龍馬生誕地石碑(吉田茂書、城西館のすぐ近く)
朝食・入浴後、城西館の裏手にある「龍馬の生まれたまち記念館」を訪ねる。竜馬が生まれ育った上町での少年・青年時代を中心に展示している。上町は下士が住む町。関が原の戦いで徳川方に味方し功績のあった山内家に仕える武士達は上士、一方豊臣方に味方した長宗我部家に仕えていた人々(一領具足=武装農民)は下士と言われ、大きな差別があった。城西館から少し東に行った升形商店街が上士と下士の住む街の境界であったとか。武市道場は城の東にあり、西に住む竜馬が武市道場に行くには大いに迂回しなければならなかったのだろう。
城西館の裏手にある市立「龍馬の生まれたまち記念館」
記念館を見物後、城西館を後にして一路桂浜へ。45年前の学生時代、貧乏四国旅行をした際、桂浜でテントを張ったが、周りには茶店が一軒だけあり、そこのおばあさんが延々と名口調で「純信・お馬の悲恋物語」を語ってくれたことを思い出す。ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が、大ヒットした頃である。その時の印象では龍馬像はもっと海岸に近かったと記憶しているが、観光案内で聞くと龍馬像の位置はその当時と変わってはいないと言う。周りがあまりに変わってしまったようだ。
(左)桂浜の龍馬像 (右)龍王岬を背景に(今は水族館や県立龍馬記念館が浜に整備されている)
最後は純信のお寺、四国八十八ケ所第31番札所「竹林寺」を五台山に訪ねる。何組かの巡礼の姿が散見される。唯一の文殊菩薩を本尊とするお寺。孫にお守りを買って帰る。ここでは純信とお馬さんの物語はご法度のようで、純信という修行僧がいたことは明記されている。
四国八十八ケ所第31番札所「竹林寺」
「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た ♪♪♪ 」 口ずさみつつ、竹林寺を後にする。
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