SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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故デュオ・クロムランク氏

2007年07月05日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★シューベルト:ピアノ連弾曲集 Vol.Ⅲ 「人生の嵐」
                   (演奏:デュオ・クロムランク)
1.ロンド イ長調 Op.107 (D.951)
2.アレグロ イ短調 「人生の嵐」 Op.遺作144 (D.947)
3.幻想曲 ヘ短調 Op.103 (D.940)
4.大葬送行進曲 ハ短調 Op.55 (D.859)
5.フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調 Op.10 (D.624)
                   (1994年録音)

シューベルトは4手連弾の曲を数多く遺していますよね。
そのうちで私が最も気に入ったディスクはというと、これになります。

レパートリーとしては例の“軍隊行進曲(第1番)”がやっぱり有名なんでしょうが、ここに収められた曲の方が数段音楽的な意味からは深遠なものを含んでいるように思えますし、特に冒頭の“ロンド イ長調”などはシューベルトの他のどの曲と比較しても“長さ”だけでない天国的な曲調を感じます。

私はこの“ロンド イ長調”を書けてしまうシューベルトの心の中に、よくウィーンの人の気質として言われる「笑いながら自殺する」感覚が宿されていたんだろうなと考えています。
これは、先年亡くなったフリードリヒ・グルダが自身のウィーン気質として表明している感覚と近しいものであると信じられますし、ヴァレリー・アファナシエフもシューベルトの作品を録音するときの心の不穏な揺れについて告白していることから、私がシューベルトの楽曲から感じ取っている感覚は、それほど曲の本質から外れたものではないと確信しているのです。


さて、ここでピアノを弾いているパトリック&妙子のクロムランク夫妻は、常設の4手連弾のユニット“デュオ・クロムランク”として活躍されたお二人です。
このディスクが出ているクラーヴェス・レーベルの黎明期から、ドビュッシーの4手曲やブラームスの交響曲の連弾ヴァージョンに至るまでさまざまなレパートリーを披露しています。
シューベルトに関しても、このディスクがVol.Ⅲとあるように4手の主要作の録音を果たしていました。

私はこのディスクを始めて聴いた時から、豊かな音場で全く自然な広がりを感じさせる録音と、ベルギー人のプリモ・日本人のセコンドという国籍・性別の差を全く感じさせない同質性を誇る演奏にひどく魅了されてきました。

思うに、ピアノの4手や2台ピアノの演奏の場合2通りの行きかたがあって、1つめは両者の個性や響きの差を楽しむというもの。
もちろん楽曲としては一つの構築物を作り上げねばなりませんが、アルゲリッチがさまざまな個性豊かなパートナーとディスクで、あるいはリサイタルでお手合わせするという演奏などがこれに当たるのではないでしょうか?

いまひとつは、このデュオ・クロムランクに代表されるような2人のピアニストが全く独りで弾いているかのような、解釈上・音色上・精神上などあらゆる点で同質性を求めていく行き方です。
いくつかのユニットを聴きましたが、最も2人の演奏が融合しているものが“デュオ・クロムランク”であると言うことにためらいはありません。


曲それぞれの演奏に寸評を加えるとすると、“ロンド イ長調”はコケティッシュな魅力にあふれ天国的な響に満たされていますし、“人生の嵐”は激しい感情を共にしているばかりか一心同体で事に当たっているという感が強くします。
“幻想曲 へ短調”は逡巡するのもふたり一緒、“大葬送行進曲”は葬送のファンファーレも中間部も艶やかに、場合によっては2人の協調によってエロティックでさえある陶酔感、恍惚感すら感じさせるのです。
“フランスの歌による8つの変奏曲”にも冒頭のさりげない短調の弾むようなフレーズにも、2人で弾いているという違和感は皆無。
このように、どこまでもひとつの演奏主体がシューベルトの楽曲とともにあるように思われてなりません。


というわけで、私にはこれから先、少なくともこれ以上の総合的な同質感を感じさせるユニットにはお目にかかれないだろうという漠然とした確信があります。


ところで、この演奏を“ふたり”で弾いているとき夫妻の心はどこにあったんでしょうか?
2人はこのレコーディングをする間際、それぞれ別に曲をさらうことがあったのでしょうか?
あまりにも“デュオ・クロムランク氏”という4本の腕を持った人が、独りで弾いているような気がするもので・・・。
結果としてこの演奏家達にとっては、演奏も私生活も何もかもが“ふたりでひとり”になりすぎてしまったのかもしれません。


今から考えると、王道シューベルトでこれだけの演奏を残してしまった暁には、次にどうすべきかが問題になりはしなかったでしょうか?

でも、4手ピアノの膨大なレパートリーの花園があることを考えれば、このディスクの出来映えがどんなに納得がいくものであったとしてもこれらを録音完了しただけで、燃え尽きるハズはない・・・私はそう考えます。


私がふと感じることなのですが、おふたりはそれぞれの“心の中”までどれだけ同質性を保っているのか、どうしてもそれを確かめずにはおれないという衝動に駆られたのではないでしょうか?
そのようなベクトルに考え方が向いて、どんどんそれがエスカレートしてしまった・・・。
そういったことがなかったと、果たして言い切れるでしょうか?



ですから、もしも・・・もしも、おふたりそれぞれがソロ活動も並行して行っていたとしたら・・・。

このディスクの録音の5ケ月後におふたりが一緒に亡くなってしまうようなことは起こらなかったのではないか?
そう思われてなりません。



実際には、我々に知らされていない悲観すべきアクシデントに見舞われていたのかもしれません。。。

とにかく、おふたりの心はおふたりの肉体が滅したことにより旅立ちました。
きっとおふたりは心の中をも融合させて、一人の“故デュオ・クロムランク”として、とこしえにシューベルトの音楽の向こうにある世界に遊んでおられることでしょう。

いつまでも果てることなく続くかのようなシューベルトの音楽・・・。
もしかしたら、その先に何があるかをふたりで探してみたくなったのかもしれませんね。



それでも、この世に残された我々は「何故?」「悲劇だ!」と思わずにはいられません。

それでは“デュオ・クロムランク”ご本人はどう思っているのか?
これは判りません・・・ですがこのディスクを聴いたうえは「心の融合までが成就された」・・・案外、そんなふうに思ってらっしゃっても不思議ではないような気がします。


私には、このシューベルトを初めとする素晴らしい一連の録音を遺された“故デュオ・クロムランク氏”を讃えることと、やはりご冥福をお祈りすることしかできませんが・・・。
本当に美しい音楽を聴かせていただいたという、心から感謝の気持ちを表しつつ・・・


合掌

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