SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

クラウディオアラウノミコト

2011年10月20日 02時06分56秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード集(全4曲)、舟歌、幻想曲
                  (演奏:クラウディオ・アラウ)
  バラード集
1.第1番 ト短調 作品23
2.第2番 ヘ長調 作品38
3.第3番 変イ長調 作品47
4.第4番 ヘ短調 作品52

5.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (録音:1977年・1980年)

アラウのバラ4・・・ふたたび・・・これがこの記事の当初のタイトル。。。
それは一寸おいておいて・・・


このところやたら忙しい・・・
いや、これまでもずっと忙しいと思っていたのだが、忙しさの質が変わって忙しい・・・このこと自体は、そのような時代なのだと受け入れるほかはないのだが。。。

それだからかどうか、ベートーヴェンやシューベルトの弦楽四重奏曲を聴くことが多い。
ことベートーヴェンの音楽に関しては「生きる勇気をもらった」なんて話もしばしば耳にするし、とにかくてっとり早く心の底から癒されることを期待して・・いるのだが、もとより、そうそう期待通りに気持ちは晴れてくれるものではない。
自分のキモチなのにね。。。

近況報告が続くけれど、きっかけは忘れたが、いつからか読書傾向が「古代史」一辺倒になってしまっている。
たぶん・・・
その素地は、梅原猛さんの本にかねてから親しんでいたからに違いない。

「古代史」といっても、就中、天智・天武・持統天皇のころの我が国がどんなだったのかには、関心が尽きることはない。
これを書き始めたら本題に移れないので、このころこそがわが国の今に至る文化・価値観のベクトルが「創られた」時期であったこと、長年憧憬といってもいい想いを抱いていた藤原不比等に対するイメージが全く変わってしまったことだけを記してとっとと話題を移すことにする。


さて・・・
これらの時代を知るのにまず第一に手に取られるのが「記紀」だと思うのだが、神話の時代から天武・持統天皇までのことが記されているこれらの本には、国の最高位にある神様・天皇のご先祖筋の神様が二柱あるように読めちゃったりする・・・気がする、ことはうすうす感じてはいた。

専門家ではないので以下にどれほどいいかげんなことが書いてあってもお許しいただきたいとお断りたうえで書き連ねるが、その二柱の神とは高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)と天照大御神(アマテラスオオミカミ)である。

天孫降臨において、ニニギノミコトを豊葦原瑞穂の国(ようするに日本ってことでいいんだと思うけど)に遣わした・・・そういう命令をニニギノミコトにしたのは、実は高皇産霊尊が主ではないのか?
天照大御神も確かにそういうシチュエーションにあるけれど、連名でくっついているようなファジーな伝承の書き方になっていやしないだろうかという疑問はどうしてもある。

で・・・
タカミムスヒノミコトって誰、ということになるのだが、「皇祖」とちゃんと書かれてもいる男性の神様なんだから、とんでもなく由緒正しい(だろう)ことは間違いがないだろうと思う。
神様の王様といってよい・・・んじゃないかしら。。。

しかし・・・
女性の台頭激しい世の中だからというわけではないだろうが、現代に至って巷では、唯一無二の神様のトップはアマテラスオオミカミというクィーンだと思われているのはなぜだろう?
かく云う私も・・・
伊勢神宮がやたら有名なことや、実家の床の間の掛け軸にも天照大御神の名が入った表装がかかっていたりするもので、これまで天照大御神こそが我が国の皇祖皇宗に連なる神様の中の神様だと信じていた。

それが・・・
いろんな本を読んでたら、「なんだか明治維新以降の教育の影響でそうなっちゃった・・・のかもね」という感がなきにしもあらずの今日この頃である。

ほんとうにいろんな説があって紛糾しているものだから、これらの神々がどういうものか実はよくわからなくなっちゃっているのだが・・・
要するに、今をトキメク太陽神(に仕える?)天照大御神があって、それこそ夜中の太陽のように厳然と“ある”のだが私たちの目の前から消えてしまっている高皇産霊尊がいるということだけ伝わってくれればそれでよろしい・・・。


さてさて・・・
記紀が実際にできたのが古事記712年、日本書紀720年とされており、殊に我が国の政府(?)による国史たる日本書紀は、その完成の年に没した恐るべきスーパー官僚たる藤原不比等の意向が相当に盛り込まれている・・・らしい。
どの本を読んでも、そこらへんは・・・程度の差こそあれ・・・そりゃそうだろうなという共通の認識になっているようだ。

天智天皇の懐刀だった中臣鎌足の息子であり、壬申の乱で天智の息子を破って即位した天武天皇の時代には文字通りホサれて臥薪嘗胆の日々を送っていたようだが、天武天皇の皇后(天智天皇の娘でもある)である持統天皇の御世になって俄然頭角を現した藤原不比等。
われわれのころの日本史の教科書にはちっちゃな字でしか書かれていなかったものだが、実はその息子たちである藤原四兄弟よりもしたたかで器のでかい野心家であり、日本の歴史のあり方を創ったのが彼であることは、私の中ではもう30年も前から確信されていたことだった。
彼があっての藤原氏のその後の隆盛であり、娘たちを天皇の后とする外戚関係を結ぶことでとりわけ藤原北家の家系が平安時代の道長の時代に「望月の欠けたることもなしと思へば」とまで歌わせるだけの基礎のほとんどすべてを組み上げてしまった・・・といって過言ではないと言っちゃっても怒られはしないだろう。
昨今の古代史の情報読み漁りを通じて、その思いは強まるばかりである。

彼を登用した持統天皇・・・
このお方がすごい曲者で・・・といってはなんだが、この人を天武天皇の皇后として先帝の遺志を継いだ人と見るのか、天智天皇の娘と見て天武王朝を乗っ取ってしまった人と見るのかで位置づけがまったく変わってしまういわばカメレオンのような天皇でいらっしゃる。

前者は、天武・持統夫妻がおしどり夫婦と伝えられ病気平伏を祈って薬師寺等を建立した云々の逸話、天武の遺志を継いで天皇を中心とする中央集権国家をつくるために数々の業績を挙げ、崩御されてなお(天皇ではじめて仏教的な)火葬をされたうえで天武と同じ墓に葬られたなどなどのことから、私がかねてから普通に思ってきた考えである。
まぁ・・・政治上のことがらは、不比等がレールを引いてそのうえで天皇の業績として残っているだけなのかもしれないが。

後者は我が子草壁皇子を帝位につけんとし、同じ天武の子で有力な後継候補だった高市皇子を死に至らしめ、鎌足の息子の不比等と組んで(結果として)壬申の乱で消えかかった天智色に戻したことになる・・・という類のものである。

先にカメレオンといったのは、持統天皇は食うか食われるかの政争の中でそのブレーンとともに自身ができることを一生懸命やられたにすぎないのであって、その行動の性格はそれ以外の意味合いを含むものでもあるかもしれないと思うからに他ならない。

現に、持統天皇の方向性が仮に後者であったのだとしても、現代のわれわれは天武天皇と仲睦まじい前者のイメージを持っている。
桓武天皇に至ったころには天武系は絶えて天智系の天皇に連なっており(そしてそれが現代に至っている)、持統が(きっと不比等と組んで)高市皇子を自刃に追いやったことが天智系復活の決定的なキーポイントであるだろうにもかかわらず、その当事者持統天皇は天武系の後継者と一般的には見られていること自体がカメレオンではあるまいか?
ひょっとすると・・・持統天皇ご自身は、天武系・天智系なんて考えてもおられなかったかもしれないが・・・後世の人はえてして二元論でどっちかにあてはめてみたい衝動にかられるようだ。

この(結果として)得体のしれない(ように思えるようになってしまった)持統天皇が、天照大御神に比肩されることがしばしばある。
理由としてはまず女帝であること、そして「天孫降臨」・・・おばあさんが孫に国を治めさせるようにすることを願い、自分の子供の草壁皇子の息子である文武天皇を執念で即位させたというシチュエーションがぴったり当てはまること、そして伊勢神宮が今のような在りようとなったのがちょうど持統天皇のころだと思われることなどが挙げられている。
私もこの点はそうだろうな・・・と思う。

日本書紀を編纂し、時の元明天皇に捧げたであろう不比等が、持統の息子の嫁さん(元明天皇)と孫(元正天皇)に、持統から文武という孫への皇位のバトンタッチを自国の正史の神話のハイライトになぞらえてみせたとあれば愛いヤツとなるのは必定だし、最高のヨイショであると思うから。
(本論から外れるが、「天岩戸」でアマテラスが隠れたのを神様が騒いで引っ張り出したという神話も、天武崩御後、本命の皇子を殺したために持統も実は立場を無くしていたところを、不比等をはじめとする持統の取り巻きがカムバックさせたことを現しているという説はおもしろいと思う。ほんとかどうかはこの際問題ではない。)

それでは・・・
高皇産霊尊は誰に比肩されるのか・・・・これははっきりとした定説はないようにも思われる。
なんといっても、もともとはとっても畏れ多い神様でありながら、なぜか天武・持統の時代(不比等の時代)以降忘れられる一方になっちゃったように見える神様だから。。。

比肩するには畏れ多すぎるし、アマテラス一色の中で「まぁ誰ということにしなくてもいい」のかもしれないし。

一説に不比等になぞらえる説もあるみたいだけれど、畏れ多すぎという理由で私は採りたくない。
(不比等を塩土老翁(しおつつのおじ)になぞらえる説もあり、まだこの方がありかもしれないと思う。でも、塩土老翁を蘇我氏の祖とされる武内宿禰のに比肩する説も捨てがたい気もする。)
専門家じゃないんだから、こんな気分みたいな理由でも勘弁していただきたい。

私自身は、高皇産霊尊を天武天皇に比肩すべき要素ってないのかしら・・・と思っているのだが、そういう説を掲げた本にはまだ巡り会っていない。
個人的には天智の子である持統・元明も、我が子草壁・我が子文武という下への血統意識はあっただろうけれど、尊属には「天智系」「天武系」という自負は持っていなかったというか、そういう概念はなかったのではないかと思っている。
天智・天武だけを(後世から)見れば、確かに現代の鳩山某のような兄弟でいつからか所属する党が違うみたいなケースに思われるかもしれないが、そのまた皇祖皇宗を訪ねたときには、その血はぐちゃぐちゃに混じっているに相違ないのではないだろうか?
血の濃さの割合を計っても、事実に即するとは限るまい。今だって、遠くの親戚より近くの友みたいな格言もある。

ひとえに今の世から振り返ってみているものだから、結果として天智系と天武系がちゃんちゃんばらばらをやっているように見えるだけであって、当時、実際には味方以外は(多少の血縁にかかわらず)全部敵であって、過去の血統は尊重されこそすれ、天智・天武だけのそれにとらわれる考えはなかったのではないかと思われてならない。

で、脳天気かもしれないが・・・
天孫降臨の命令をアマテラス(=持統)に先んじて一緒に発したのは、(鬼籍に入った後であったとしても)天武であってほしいという気がするから・・・。
また持統天皇も、亡き夫の天武もそう思ってくれていたらいいのにと願わずにはいられなかった・・・と思いたいから、私は高皇産霊尊=天武天皇説を主張しちゃおうと思う。

ただし、この考えだとやっぱり同時代に同じゴールを目指して声を上げたのは(それも持統を導く形で)不比等になっちゃうんと違うか・・・という論法も成り立ってしまうのだが、そりゃいくらなんでも元明・元正の手前もあって畏れ多いという理由で却下したいわけでして・・・
と、くどくど反論(反証とはおこがましくていえない)しておくことにする。


さあ、どこが音楽ブログだという展開もはなはだしくなってきたので本論に移ると・・・

私にとって数年前から、今をときめくピアニストは高橋多佳子さんである。
ショパンの旅路Ⅴのバラ4の演奏で邂逅して以来、彼女の音楽は、私にとって太陽のようにポジティブなものであり、頻繁にCDやウォークマンで耳にしていることはこのブログでも何度も記してきたことである。
そして、伊勢神宮に天照大御神を詣でに行くように演奏会へ行って居住まいを正して真摯に音楽に向かい合うこともある・・・まさに、音楽界の天照大御神のような存在なのである。

しかし・・・
その数年前以前には、私の中でショパンのバラ4といえば私が便宜上(思いつきで)ハンドルネームとして名前をお借りしているクラウディオ・アラウこそが神のような存在としてあった・・・。
リストの『巡礼の年』からの抜粋の演奏(これらを凌駕する“ペトラルカのソネット”や“オーベルマンの谷”の演奏を私はまだ知らない)で出会って以来、ずっと気になっていたアラウ。
ドビュッシーの前奏曲や映像を収めたディスクにも感銘を新たにしていた頃、訃報を耳にしたのは本当に突然だった。

仕事中にカーラジオでその報に接し、追悼としてかかったのがバラードの第1番と第4番・・・
第1番こそミケランジェリの決定的名盤を得ていた私であったが、当時、バラ4はよくわからない曲でしかなかった。
車を止めて、一音たりとも聞き逃すまいとラジオに食い入るように聴いた、そしてそのとき、アラウのバラ4こそが私のバラ4になった。

わが国固有の文化で生まれ変遷したと考えられるアマテラスに対して、高皇産霊尊は大陸の文化を礎とする(輸入された)神であるいう・・・
高皇産霊尊のごとく、今や私の記憶からほとんど消えかかっていた異国のアラウのショパンのディスクを本当に久しぶりに聴いた。
別に10月17日のショパン忌にちなんでというわけではない、忙しくて忘れちゃっていたのだから。。。

タカミムスヒ・アラウのバラ4がアマテラス・多佳子さんのそれに取って代わられてしまったのはわけがある。
気分がハイのときに聴くと、アラウの(特にショパン)演奏は鈍重にすぎるからだ。
これが気になるときはフィーリング的には絶好調だという気が、経験的に、する。

翻って今・・・
これほどまでに確信に満ち、確固とした居住まいでスケールも壮大、あらためてその威容を仰ぎ見るような音楽であったことに気づかされることになった。
エレガントでもあり、男性的でもある・・・
いっとき頭から離れることはあったにせよ、やはりネクラに陥ったときの私にはアラウの演奏はたとえそれがショパンでも、ベートーヴェンの作品110の嘆きの歌のフーガのごとくエンファシスの温かさを備えながらも盤石である大伽藍を想起させる神通力をもった音楽であった。
それは壬申の乱を制した際の天武天皇の勇猛さにも通じている気がする。

というわけで・・・
本記事は、アラウのバラ4のすごさをにわかに再発見したというだけの話なのだが、やはり、高皇産霊尊は忘れられた天武天皇へのオマージュを反映させた神・・・
であってほしいという希望的解釈も併記しておく。(^^;)

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2 コメント

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そのCDを聴いてみて (eyes_1975)
2011-12-13 00:00:09
♪お酒はぬるめの~
寒い夜には日本酒で「舟歌」(違う!)
ちょっと文学的なメロスのシューベルト、ベートーヴェン(全集)でリラックスするのがこの時期。でも、アラウのバラードを聴きながら詩人に。
「幻想曲」を聴いてみると♪雪の降る町を~のイントロでしすね。
やはり、この季節に似合うCDの決定版です。
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いい季節ですよね! (クラウディオ アラウ)
2011-12-13 21:14:19
♪しみじみ聴けばしみじみとぉ~~~お~

曲に似合いの季節ってありますし、案外大切なんですよね。

ショパンなら今はCHAPLINのノクターンに惹きこまれています。
一聴のっぺりした録音だと感じましたが、響を徹底的にコントロールして一点突破全面展開した究極の演奏だと感じています。
恐ろしくかゆいところに手が届くとでもいうべき、細部まで神経を行き渡らせた演奏・・・
絡め捕られそうです。^^
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