鹿児島市石谷町の石谷西公民館近くにある、石坂という史跡を紹介します。
石谷の石坂。道路の真ん中の一段低いところに石畳の坂があります。
石谷の領主であった町田久成は、1860年から1861年まで、有馬新七を石谷奉行として招き、青少年の育成に当たらせました。
青少年の中の不真面目なものには、罰として遠方から石を運搬させ、伊集院・鹿児島に通じるこのぬかるみの坂道に石畳の街道を造りました。
石畳。付近はシラス台地で石はないので、運搬するのは大変だったことでしょう。
終点側。当時は150mほどだったそうですが、一部を保存しています。
史跡をもう一つ紹介します。
5月18日の記事で、鹿児島出身のヤジロウという人物が、フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内したと書きましたが、そのヤジロウの墓が、日置市伊集院町清藤の県道脇にあります。
伊集院は、ザビエルが領主の島津貴久と会見したところです。
ヤジロウの墓。
ヤジロウの生涯についてはよくわからないところが多く、異国で亡くなったという説もあるそうです。このため、脇の案内板には、ヤジロウの墓(伝)と書かれています。
今日の絵手紙。鯛をいただいたお礼に…
不真面目な子が運んだ石何ですね~~~??
何だか可哀そうな気持ちも??
絵手紙の腕も上がりましたね~~~
真ん丸ふとったタイ・・ウマカタイ・・ですね!!
封建時代の昔も、不真面目な子もいたんですね。
人間って、変わらないですね。
このところ、忙しかったので、絵手紙は久しぶりに描きました。
心に余裕がないと描けないです。
鯛はおいしかったです。
糸巻き橋でしたっけ・・・・あそこも道の真ん中でしたね。
埃まみれ・雑草ばかりの 中央分離帯よりも
ず――っといいですね。
大通りだと危険ですが。。。。
罰として 石畳の石運搬 いい時代だったんですね。
久々の絵手紙 鯛って明るくていいですね。
キクオ という名の叔父がいます。
きーしゃん って呼ばれていました。
chiroさんの絵手紙の署名【き】を拝見するたび
叔父の事を思い 訪ねてやらんといけんな~と思います。
出水の糸巻橋、道路より低いところに溝があって、そこに石橋がありましたね。
絵手紙は、久しぶりに描きました。
余裕がないと描けません。
「き」の署名印も、消しゴムで作った手作りです。
叔父さん、訪ねてあげてくださいね。