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ただ一つの日本対韓国の単独戦争

2018-03-23 04:07:17 | Weblog

◆倭寇の誕生
 今まで見て来たように、外敵の襲来で最初に犠牲になるのは決まって対馬の住民たちである。対馬から博多までは147㌔あるが、朝鮮半島までは僅か49.5㌔。しかし奪われる側から、奪う側に回る時がやって来た。モンゴル襲来の後、対馬近辺の海民集団は大陸に渡り、朝鮮半島や中国沿岸に出没して略奪行為をするようになる。これが教科書にも登場する、悪名高い『倭寇』の起源である。彼らが大陸沿岸を荒らすようになった理由としては「モンゴル襲来への復讐」「日本への再進攻を防ぐ為の先制攻撃」「物資の不足から来る略奪」、果ては「元寇で連れ去られた家族を取り戻す為」など様々な説がある。
その勢力は極めて大きく、1307(徳治2)年とその翌々年には、あのモンゴル帝国の沿岸都市、慶元を襲い民家を焼くなどしている。倭寇の侵略行為に手を焼いた朝鮮が、その根拠地を叩く目的で対馬を攻撃して来たのが『応永の外寇』である。朝鮮が他民族と連合せず、単独で日本と交戦したのは、この戦いだけだ。
初めて高麗の史料に倭寇が登場するのは『高麗史』。1223(貞応2)年、「倭(日本人)金洲に寇す」と記されている。その2年後にも日本の船2隻が沿岸の洲県を襲ったことが記録されている。
日本の史料に倭寇の記述が登場するのは『明月記』。
「松浦党と云う鎮西の凶党などが数十艘の兵船で、かの国の別島に行って合戦し、民家を焼き資材を掠(かす)め盗った」と記載されている。松浦党は前述したように、蒙古襲来に於いて最前線で戦った水軍である。
当初の倭寇は小規模だったが、1350(貞和6)年以降は大規模化し400~500隻の船団を動員して朝鮮半島沿岸を襲撃するようになった。対馬、壱岐、松浦を拠点とする彼らは初めのうちは米倉庫や米を運搬する漕運船、その護衛船を襲っていたが、やがて凶暴化し、大規模な略奪や人身売買などに手を染めて行く。
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◆高麗の対抗策
 
倭寇を取り締まるのは高麗政府の役割だったが、これが全くお手上げの状態だった。モンゴル帝国の支配を受けている高麗は、徴兵や動員、武器製造が自由にならず、地方に常時守備隊を置くことができなかったのだ。モンゴル帝国1368(貞治7)年に滅んで明王朝が興ると、明は高麗に対して「倭寇の取り締まり強化」を要請するようになった。と云うのも、倭寇は朝鮮半島を経由して中国まで足を伸ばし、沿岸を荒らし回っていたのだ。
高麗にとっては、モンゴル帝国の頃は許されていなかった軍備拡張が可能となる。俄かに日本海が風雲急を告げる事態になったのである。高麗は水軍や火薬局を新設し、水上戦闘と火砲の訓練を行った。高麗王朝が滅び、李氏朝鮮の時代になると軍備は更に拡張し、兵船は613隻、水兵も5万5000人に達した。
1418(応永25)年、対馬の島主で倭寇の取り締まりに実績を挙げていた宗貞茂が死去。この頃になると、倭寇は朝鮮沿岸を素通りして直接明に向かうようになっていた。貞茂の跡目は子の貞盛が継いだが、如何せん幼少だった為、島内の統制が充分に執れず対馬船越の倭寇頭目、早田左衛門太郎が島の実権を握ってしまった。翌年、倭寇が朝鮮沿岸を襲撃した後、明に向かうのを確認すると、朝鮮政府は遂に「対馬討伐」の決意を固める。本隊の留守を突いて根拠地を撃滅しようと云うのである。情報漏れを防ぐ為に、朝鮮の貿易港である三浦(乃面浦(ないじほ)・富山浦(ふざんほ)・塩浦(えんぽ)に居た日本人はすべて拘束され、遠方で隔離された。拘束された人々は対馬人だけではなく、博多や松浦、果ては兵庫の人も居たが、対馬人以外は酒食を与えられるなど好待遇で、戦後には日本に送還されている。抵抗した対馬人136人は殺害されてしまった。
6月17日に朝鮮軍は巨済島を出帆するも強風の為引き返し、19日に再出発して対馬に向かった。兵船は京畿道10隻、忠清道32隻、全羅道59隻、慶尚道126隻の総計227隻、兵は1万7285人と云う大軍だった。朝鮮半島、唯一の単独海外遠征だ。
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◆倭寇撃滅ならず
 朝鮮軍は6月20日対馬の浅茅(あそう)湾に到着。浅茅湾は言わば倭寇の巣窟で、対馬のみならず壱岐、松浦の倭寇も浅茅湾を利用していた。島民は朝鮮軍の襲来を倭寇船の帰還と勘違いして、酒食を用意して待っていた。気付いて慌てて応戦したが相手は大軍、アッと云う間に敗走する。朝鮮軍は船を奪って家を焼き、114人を殺害、21人を捕虜とした。更に船越に柵を作って島内の往来を遮断し、味方の兵船の到着を待って総攻撃を仕掛けることとした。26日、朝鮮軍は浅茅湾内に深く進み、仁位郡に入って総攻撃を開始した。2万人近い朝鮮兵に比べ、対馬の守備隊はたったの600人程度。まるで勝負にならないと思われた。が、ここで朝鮮軍にとって大きな誤算があった。対馬の地理である。この島は実に97%が山岳地帯であり、道があっても獣道である。大軍で押し寄せて来たところで渋滞するだけで何の役にも立たない。朝鮮軍は左・右・中軍に分かれて進攻したが、左軍節制使・朴実らの軍は対馬の伏兵に遭って有力な武将を戦死させてしまう。混乱した将兵は山道を逃げ惑い、追い詰められて崖から落ちた者もいた。右軍節制使・李順蒙の軍も、対馬兵を退けるのがやっとで苦戦を強いられた。中軍に至っては上陸することすら叶わなかった。
その後は両軍睨み合いの膠着状態が続く。
『対州編年略』によると日本側の死者123人に対し、朝鮮側の死者は2500人余りに及んだ。
朝鮮側は29日になると、宗貞盛に対して対馬の属州化を要求する。戦況が有利であるのに貞盛が応じる道理はなく、これを拒絶。彼は書簡で「7月は風変があるので兵を引き上げた方が良い」と朝鮮軍に忠告した。損害が大きくなったこともあり、7月3日に朝鮮軍は巨済島へと引き返して行った。朝鮮史上初の対外遠征は見るも無残な失敗に終わってしまったのであった。史料によっては「応永の外寇」以降、倭寇は衰退して減少したと紹介されているが、実際は1420年代の方(18回)が10年代(10回)と比べて襲来回数は増加している。減少に転ずるのは、日本側の対馬や九州諸大名の取り締まりが厳しくなる、30年代を待たなければならなかった。

*画像 朝鮮半島で猛威を奮った倭寇(右)朝鮮の討伐軍(左)   『倭寇図巻』

    倭寇の活動範囲

    朝鮮軍が上陸した浅茅湾 西側にあってリアス式海岸に囲まれる

          


                        教科書には載っていない 「日本の戦争史」

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