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米沢藩藩主 上杉茂憲は維新後は沖縄県令として辣腕を振るった

2018-02-13 04:19:09 | Weblog

◆人々に惜しまれつつ旧領の米沢を去る
 上杉茂憲(もちのり)(1844~1919)は、出羽米沢藩第十二代藩主・上杉斉憲の長男として生まれた。上杉謙信の甥で、初代藩主となった上杉景勝の直系の子孫である。1860年、徳川第十四代将軍の家茂に拝謁し、従四位下に叙任。家茂より一字を与えられ、茂憲と称した。家督を継いだのは、世が江戸から明治へと移り変わる1868年のこと。戊辰戦争の最中、出羽米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わる。敗戦後、父・斉憲はその盟主でもあったことから隠居を余儀なくされ、茂憲が藩主の座に就くことになった。とは云え、引き続き実権は父にあったと謂う。
1869年、版籍奉還で米沢藩知事となった。この時、旧藩士に十七万両を下賜。二年後の廃藩置県で、政府より東京移住を命じられた時には、人々が沿道の両側にひれ伏して、米沢を離れる茂憲を見送ったと謂う。
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◆大先達鷹山の精神を胸に任地沖縄に向かう
 東京に移って早々に、茂憲はイギリスのケンブリッジ大学に自費留学する。そして帰国後、新政府に出仕すると、1881年には、沖縄県令兼判事に異動を命じられた。琉球王国が崩壊し、沖縄県が置かれた二年後のことである。
茂憲は沖縄赴任に際し、幼少より肝胆照らす間柄の池田成章を補佐役として同道させることに決めた。池田には、沖縄県権少書記官と云う肩書きが政府から与えられている。
米沢藩には江戸時代中期、上杉鷹山と云う名君が出て、傾いた藩政を再生させたことがあった。以来、鷹山は米沢のシンボリックな存在となり、土地の人々の尊敬を集めていたが、池田もその例に漏れない。それどころか、「鷹山公精神に則る」ことこそが、彼の生き様そのものであった。鷹山の精神とは、治者は「常に民の父母であれ」と云う一言に集約されている。
ところが、茂憲と池田が使命感を以て乗り込んだその当時、政府の沖縄政策は「旧慣温存」を旨としていた。沖縄にも本土同様の制度を敷いたところ、既得権を奪われる士族たちによる反政府活動が頻発。清との間の琉球帰属問題が決着していないこともあり、中には清へと亡命する者もあった。そこで政府はやむを得ず、沖縄だけ土地・租税・地方制度について旧制度を温存することに決めたのである。しかし、士族層の反発こそ抑えられても、旧慣温存のもとでは多くの島民が虐げられ続けるのも恐らく事実。そこで先ず茂憲は、県令としての仕事に着手する前に、全島の生活実態を自分の目で見て把握することにする。この時、茂憲が廃藩置県後の沖縄の現況を知る為、直接、人々と話して聞き取った記録が、『上杉県令巡回日誌』として残されている。交通事情が悪い中、陸路は主に駕籠を使い、それが困難な場所では、前からは手を引かれ、後ろからは尻を押されと云った道行きだったらしい。『上杉県令巡回日誌』は、琉球王国が沖縄となった時代の風俗を今に伝える貴重な記録でもある。
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◆沖縄の為に奮闘するが中傷により不本意な更迭
 赴任の年に沖縄本島を、翌年には久米島・宮古・八重山と云った島嶼部を視察した茂憲は、貧しい農村部の実態を目の当たりにし、産業奨励と教育を重点施策に据えることにした。その為にも、特権階級化している村役人たちを整理する必要がある。そこで、度々上申書を提出するが、東京から派遣された視察官が「上杉県令が民心を惑わしている」と云う報告を持ち帰ったことで、県令更迭が決定する。茂憲と池田は自分たちの見通しの甘さを悔やむが、上からの命令は絶対。在職二年半を以て、沖縄の地を後にすることとなった。その際、奨学資金として私財1500円を沖縄に提供した。沖縄の為に努力しながらも、思わぬことで解任された茂憲。しかし、その在職中には、人材育成を目的とした県費留学生制度も実現させている。優秀な県の子弟を東京で学ばせると云うもので、これを利用して謝花昇、太田朝敷と云った五人の若者たちが、東京の大学で学問を修めた。彼らは帰郷後、沖縄が近代化に向かう為の大きな原動力となっている。
最晩年となる1896年には、茂憲は旧領である米沢に移住。鷹山の藩政改革に倣って、同地の主要産業であった養蚕・製糸・織物の改良に取り組んだ。1919年に死去。四番目の妻・兼夫人との間に三男六女を儲け、長男が茂憲の跡を継いで上杉家の当主となっている。
昨今では沖縄で琉球王国を懐かしむ動きがあるが、茂憲以前の沖縄は本土と比べても体制が整っていなかったことを忘れては行けないだろう。

(画像・上杉茂憲、上杉鷹山)

*まとめ
 米沢時代も沖縄時代も鷹山精神で民の為に死力を尽くした

          
                         「その後」の日本史
                              幸せな余生を送った偉人たち

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