goo blog サービス終了のお知らせ 

玄徳道

道を語るブログです。

太乙北極真経演義7

2022-03-06 16:10:00 | 道院
「序論(韋達氏)」

更に第六巻第二節に於いては。

「これらの自然に起こる、求めないでも達成する、性状は、如何にすれば、達成できるのか。
そして、帰依者が日常において中道の途(みち)を辿り、中庸を用いるには、これら、六つの働きを如何に培えば良いのか。
正しい方法は坐の修練のみである。その為に帰依者は、真っ直ぐに坐り、意識を鼻の先に集め、瞼は鼻を見るように低く下ろす必要がある。
物理的にはゆったりとし、感情は落ち着いており、心理は静寂でなければならない。これらは全て非常に単純なようであるが、その結果は最も意義深いものである得る。
彼の生命力は、自然にひとりでに上へ下へと流れ、玄奥なる身体の隅々にまで隈なく広がり、七つの車輪状の渦(即ち丹田)へと集中し、八脈が身体を巡る。その結果各丹田(Chakra)は互いに整いあって回転し、八脈は頭部から足へと流れ、そこから頭部へと戻る。適正な経路を通って進み、如何なる障害や妨害もなしに、その起源へと戻るのである。
この滞りのない継続的循環が達成されると、身体の不浄は払拭され、それを望もうとする意識がなくとも、清浄無垢なエネルギーが高次の領域から流れ込む。
霊的エネルギーを従順に受容的に受けながら、求道者は神霊に服従している状態を示すのである。
そして、身体の不浄から脱却することにより、彼は神経系のみならず、心も浄化することが出来る。」との記述がある。

加えて、第八巻では。

「坐の修練において、修行者は、先ず第一に真っ直ぐ正しい居住まいで坐り、物理的に情緒を平衡を保って、真理的に静粛にしなければならない。
そこから安らかな覚醒と受容性があり、先天の実相世界における高次の自身から創造的エネルギーが降り注ぐまで、忍耐強く待ち、そして、それが増大して、自らの存在自身全てにそれが吹き込まれるほどになるまで、受け入れなければならない。
より進んだ段階では、修行者はその霊的エネルギーが、本質的な生命の神殿に充満するのを知るのである。
そこにおいては、低次の三界(形態、色、幻影的現象)から超越的な霊的意識世界に上昇することができ、そして次にその高次元な世界における、高次な自身から、人格における底次の三倶(三つの媒体)へと下降し、そこに浸透して、生来ある無知の闇を追い散らすのである。
彼の意識と創造的叡智における、このような、内面化の外面化の交互の過程は、身体における三つの主丹田を晦ましている、闇の三層が全て追い散らされ、絶滅されるまで続くのである。
本質的生命、神霊の実相の一体であるにせよ、彼は自身の中にある世界の本性と特性について、確固として理解し、描写することができない。
彼は唯、自身の存在全体に充満し、全く解放されて上昇と下降、外出と帰還を行う、創造的叡智との一体性に気付くのみである。
彼は自身が世俗的な存在の低い次元に沈み込んでいるように感じ、しかし又同時に、それらの上にある、不滅エネルギーの浄土の海に祝福され浮いていると感じる。
そのような崇高な散策状態の中で、彼の心には障りがなく、如何なる種類の懸念もない。
そして如何なる種類の惑いからも解き放たれている。
修行者は、このようにな霊的開眼を求める視点から、坐を修養をし、完璧な心の静寂を達成すべく努力し、本質的生命と創造的叡智を培い、発揚すべきでなのである。」とある。

最後に第十巻三節においては。

「各種の哲学や神秘主義の学派、教派を見回して調べると、彼らの殆どは、無為・無心の状態に関する原理を理解してしていない。
彼らは知的な心にのみ重きを置く異なった学説を提唱している。
そこで、この心が自己の引き込み(言+口[変換できませんでした])の考えに執着すると、前世の劫(karma)によって造られる障害によって妨げをうける。(鬼雷注、瞑想をし過ぎて自己内面ばかりを観つづけると、阿頼耶識の中にあるカルマに取り憑かれる意味であると思考します。)
直接的な接触(接)の考えにとらわれると、低次元の人格によって即刻かき乱れる。(鬼雷注 帰神法や憑依法による弊害。人の心には善悪正邪の心が必ずあり、高潔な聖人、人格者でも一分の悪魔がありて、それにより、乱される。)
更には心がエネルギーの充満状態(彀)に拘泥すると、エネルギーの魔(炁魔)が即時に敵対的な活動に入る。(鬼雷注 気功的な人為による、無理なエネルギーの溜め込みは、自然の法則から離れる為に即座に反発する坑魔が働くと思考します。)
このような状況下で、過去の劫が霊的進展を妨げる障害を防ぐ唯一の方途は、坐の修練を積むことである。
同様にして、内なる魔の危害を防ぐ方途も坐の熟練を積むことである。
この理由から、我々は坐に打ち込むのである。
斯くして、我々は至福状態(適)を達成する。
正しく坐れば、正しく「適」へと至る。
坐の途上で、我々は「適」へと至り、「適」の中で坐を続けるのである。
二つの静坐法を比較する時に「適」状態で安んじる坐法は、「言+口(こう、自らが阿頼耶識に入る瞑想法)」を達成するためだけの方法より、無限に偉大な価値があることが、判る。」と記されている。

全十二巻の中には、この他にも坐に関する重要で意義深いくだりがあるが、それらは、余りに多すぎで、この「序論」には全て盛り込むことはできない。終。
 
韋達(英訳者)。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする