goo blog サービス終了のお知らせ 

玄徳道

道を語るブログです。

酒仙、済仏道。

2022-03-15 19:33:00 | 道院
人間関係は、縁がなければ、会うことは出来ない。

其処で遇う事が出来るのは有り難い事である。

それを不愉快な顔で人と遇うのは、折角の縁を台無しにしてしまう。

そこで笑顔で人と遇うようにするのである。


如何なる美味といえども、舌先三寸を過ぎれば、味はなくなる。

それなのに、何で、美味を貪り求める必要があるのであろうか。


前の人が田を耕して、後の人がその収穫を得る。

それで、何で、自分だけが甘い汁を吸おうとするのであろうか。


頭上三尺のところに、御神霊が鎮座しておられ、四六時中我々の言行を見ておられる。

そこでどうして、自分の良心を欺き、他人を欺く事が出来るのであろうか。


他人の家の富貴は、前世で善根功徳を積んだお陰である。

それを自分が貧しいからと言って、何で、妬む必要があろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡(すく)いの道。

2022-03-14 20:17:00 | 道院

今世及び、来世を救おうとすれば、先ず、自分の身を修めることから、始めるべきであり、この身を修めようとすれば、心より始めるべきである。

万行は一より始まり、全ての行いの基礎は一心が自ら主体となる。

末は本より始まり、彰かなものは、微かなものより、始まる。

結果と言うのは、原因より始まる。

そこで、原因のない結果と言うものはありえないし、また、結果の無い原因と言うものはありえない。

このように、一切の因果というものは、この心から、離れる事は出来ないのである。

それは、例えて言えば、これがあれば、それに関連して現れてくるし、これが生じてくれば、それに関連してそれが生じて来る。

そこでもし、これが無ければ、それは現れて来ないし、これが滅びてしまえば、それも滅びてしまう。

心中の一念の僅かな差がやがては、千里万里の大きな誤ちとなる。

初めに慎むことは、比較的容易であるが、しかし、終わりになって、その結果を挽回することは難しいのである。

故によく、その始めを慎むものは、その終わりを全うすることが、出来る。
またよく、その身近なことを慎むものは、それは、やがて遠いところまで影響を与えて来ると言う事を知っているのである。

そこで、始めにその根本を重視し、これを慎むのである。

その寄って来たる、原因について言えば、霊(明)と味(迷い)の分岐点、人間と禽獣の違いはほとんど微かな一点にある。

その心中の妄念に打ち克つことが出来れば、それは聖賢となるところの始まりであり、
屠刀(牛や豚を殺す鋭利な刃物であり、これが転じて人の物欲を指す。)を放下するのは、仏と、なるところの始まりである。

これを最初の原因の段階で慎み、これを最初の微かな段階でその幾(きざし)を審らかにして、見極め、この心を昧(くら)ますことなく、これを始め、明らかにするのである。

己自身の誠を篤くするにも、これを始めに修めるのであり、吾の四願(上乗、真諦、功候、済度)を実践するのにも、この自己の欲望に打ち克つことに始まるのである。

よくその為すところを、押し広めいくにも、その行いのに始まるのである。

たとえ、その夙根(前世での修行や基礎)や、智慧や境遇、功候造詣などは、人によって、それぞれ同じではないが、ただ、その天性の善によって、その、仁愛の徳を広め、人として道理を全うし、道慈によって己を救い、他人を救うところの真実の功果を実する事が出来れば、皆同じように道を覚えることができるのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滅美道。

2022-03-10 19:56:00 | 言霊
やれやれだ。

兵劫は、人類の歴史においては、繰り返される、人の行いの結果なり。

その因果は誰が生んだのであろうか、人が自らの結果に、過ぎない。

人は平和を愛する。されど、自分より、平和で愛されて、親しまれる人を羨む因子が備わっている。

まあ、仕方がない。

そもそも兵劫とは何なのか。自断の滅びの道なり。

自断とは自殺と、同意語であり、自ら、親を殺し、子を殺し、我を殺す道なり。

自断とは、祖を殺し、神をも殺すなり。

なんせ、人は、繋がって生きる。

因果に繋がり、カルマに繋がり、徳に繋がり、人に繋がり、神に繋がっている。

やれやれだ。

そん中で、私は坐を以て道とする。

坐れば、戦争が無くなるのか。

坐れば、人が争い、嫉みを止めるのか。

坐れば、皆が仲良く出来るのか。

否。

それでも、坐をもって、化する道とする。

瞑想では無い。坐である。

瞑想は、我が内に籠る癖あり。

坐は、黙って、ただ坐る。その効果は、いたずらに起きない。

何も臨まず、何も見えず、何も訪れず、ひたすら、直に、神に素直に坐るのみ。

平黙の奏多にそれは突然やって來る。


今の因果がありて、未来に結果とするが因果応報なり。

過去は反省の材料とし、今を道とする。

そして、今、惨禍におられる人には、カンナガラ、たまちはえませ。

ああ、惟神たまちはえませ。

更に、惟神霊幸倍坐世。

かむながらたまちはえませとは、どんな時でも、この言霊を述べれば、たちまちに、神が必ず救ってくださる、不朽の神言。

アメブロの瑞霊に倣いてより。勝手に載せます。

出口王仁三郎聖師による。

つつしみて天津祝詞を宣りつれば忽然としてあらはる女神。

われこそは富士の神山の守護神 木の花姫よとおごさか宣らす。

木の花姫静にわれに宣らすやう 祈る言葉は惟神霊幸倍坐世と。

有り難しかたじけなしと感謝しつ 此の神文をしきりに唱ふ。

今までに此の神文を宣りつれど かく尊しとは思はずにえし。


人には、ありとあらゆる苦難あるけれど、私は、常に、「しせいせんてんろうそ。」「かんながらたまちはえませ。」そして、坐するのみ。それしか出来ないだけの愚か者なり。

ああ、しせいせんてんろうそ、かむながらたまちはえませ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太乙北極真経、演経録道。

2022-03-09 20:06:00 | 道院

「真経の大旨」

周悟担 演述

「北極真経」は五経経典(道教・儒教・仏教・キリスト教・イスラム教)の祖脈(大本)であり、また人生における性命の根源である。
吾ら修者(修道する人)は、これを演ずることはできても、講ずる(講義する)ということは出来ない。
修者は、この経の主旨を明らかにしてさらに、五経の経典によってこれを証明すれば、自ずから「北極真経」の深遠にして玄妙なることを悟ることができるので、これを疎かにしてはならないのである。

上古の時代の人心は、純朴にして人情に厚かったので、教を説く必要はなかった。

それが中古の時代となると人心は、だんだんと軽薄になり、五教の聖人がそれぞれ、各地に降られて、大道を明らかにされ、人心を救い、正したのである。

現在は下元の末にあたり、五教の精神は漸次絶えてしまい、道より益々遠ざかってきている。

上乗より、中乗に変わり、中乗より、下乗に、降ってきており、その病根は、門戸の見によって融合できないことに在る。

また、各教では、自ら門戸を分かって、支離滅裂となり、徒(いたず)らに枝葉末節の上においてのみ、ことを論じ大道の根本を明らかにしていないのである。

西欧においては、宗教の争いがあり、それによって殺戮が行われてきた。

また、科学と哲学や宗教が敵対するに至り、人心はその、真の系統(大道の系統)を失って、ついに今日の空前未曾有の大災劫を作り出すことになったのである。

老祖は、衆生が苦海に沈んでいるのを見るに忍びず、今回はじめて、この経(北極真経)を伝え、これによって道を明らかにすることができたのである。

「中庸」では「天の命、これを性と謂い、性に率(した)がう、これを道と謂い、道を修める、これを教と謂う。」と言っている。

この一節は性命の根源を明らかにしている。

しかし、後世の学者は僅かに「道即ち理」という事のみを以て道の一字を釈(と)いているが、それではあいまいで、はっきりしない。

道院が設立されてから、はじめて、道の本源が炁胞であることがわかり、理の一字だけでは、この道の意義を十分に言い表すことは出来ないのである。

老祖は、道胞が即ち炁胞である事を明らかにし、炁解の一輪が万化(天地宇宙の全てのものを化する働き)の根本であり、五教に根ざしているという事を証明する事が出来るのである。

昔の聖人や哲人は夙根(前世における修道の基礎)が深厚であって、ただ事理を理解することのみを以て満足せず、さらにその根本を探求したのである。

それによって吾人(われわれ)の智能は本来自分自身の所有するものでなく、それは、天命より来たものであることがわかるのである。

そこではじめて人は能(よ)く、上帝(天や神)と接霊することが出来る。

故にこれを「天命」と言うのである。

天と人との間は息息、相通じている。

天命より来たものを智慧といい、人心によって創られたものを識神という。

五大教主は、均くみな、天命を奉じて帝霊(神霊)に接し、天に代わって宣化し(道を宣べ、人々を感化)、それによって世の人々を渡(すく)ったのである。

キリスト教でいう、「上帝(天や神)は人々の心の中にあり、人々は上帝の中にいる。」とは、この意味である。

人が能く、天命を受けて善を明らかにし、初めに復(かえ)れば、内聖外王(内に聖人の徳を修め、外には王道)の学を成就させることが出来る。

思うに、先天の心は道心にして、偉大であり、後天の心は人心にして、狭小である。

中国は歴史が最も古く、早くから文明が開花し、儒教と道教の両教は本来一貫したものであった。

孔子は「尚書」(書経)を編纂して、唐虞(尭帝と舜帝)よりわけて、尚書の二典三謨は道統における、一貫の薪伝を顕かに示したのである。

十六字の心伝以外を除いた以外に、大兎(禹王)は、性に率(した)がい、命を受けるところの修功を明らかにすること最も切実であった。

それがいかんせん、後世の儒者がそれを明らかにすることができず、性功のみを知って、命功を知らず、遂に後世に至って、その真伝を喪うことになったのである。

隋の時代の文中子は儒教と道教の門戸の見にとらわれず、天命の源を徹底的に悟った。故に能く道統を受け継いだ。(いまは、済南母院の守沙仙である。)

宋の時代の、周濂溪、邵康節、張黄渠、程明道、程伊川の五人が宗風(以上の五人は、衰微した儒教の真髄を再び復活させた)を振るい興して、道統が復(また)再び明らかになった。(道院の中の和光真人=周濂溪先生は演道使の道職の任がある。)

王陽明(北京道院の守沙仙)は、従来の儒学者が伝えた教えが誤っているので、故に「良知を致す」の説を起こしたのである。

明の末期から清の初めにかけては、尚道に明らかな人は少なくなかった。

その後、近代に至って枝葉末節なことに拘(とら)われて、僅かに文字の上にのみ、道を求める学問にしか知らず、根源を明らかにしないが故に、今日のような暗黒の、状態に陥ったのである。

その結果、聖賢の学問も、また存立することができず、そのために、人々も未曾有の苦しみをなめるようになったのである。

幸いに、吾が老祖は、「真経」を伝授して、五を合して六に統べ、教を救い、人を救い、霊を渡(すく)って劫を化(なく)し、将来道が明らかになり、道化(道により化すること)が昌(さか)んになれば、全世界に普遍的にこれが広まり、その功業(功徳)の偉大なることは、吾人の能くはかり知ることの、できるものではないのである。





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太乙北極真経演義7

2022-03-06 16:10:00 | 道院
「序論(韋達氏)」

更に第六巻第二節に於いては。

「これらの自然に起こる、求めないでも達成する、性状は、如何にすれば、達成できるのか。
そして、帰依者が日常において中道の途(みち)を辿り、中庸を用いるには、これら、六つの働きを如何に培えば良いのか。
正しい方法は坐の修練のみである。その為に帰依者は、真っ直ぐに坐り、意識を鼻の先に集め、瞼は鼻を見るように低く下ろす必要がある。
物理的にはゆったりとし、感情は落ち着いており、心理は静寂でなければならない。これらは全て非常に単純なようであるが、その結果は最も意義深いものである得る。
彼の生命力は、自然にひとりでに上へ下へと流れ、玄奥なる身体の隅々にまで隈なく広がり、七つの車輪状の渦(即ち丹田)へと集中し、八脈が身体を巡る。その結果各丹田(Chakra)は互いに整いあって回転し、八脈は頭部から足へと流れ、そこから頭部へと戻る。適正な経路を通って進み、如何なる障害や妨害もなしに、その起源へと戻るのである。
この滞りのない継続的循環が達成されると、身体の不浄は払拭され、それを望もうとする意識がなくとも、清浄無垢なエネルギーが高次の領域から流れ込む。
霊的エネルギーを従順に受容的に受けながら、求道者は神霊に服従している状態を示すのである。
そして、身体の不浄から脱却することにより、彼は神経系のみならず、心も浄化することが出来る。」との記述がある。

加えて、第八巻では。

「坐の修練において、修行者は、先ず第一に真っ直ぐ正しい居住まいで坐り、物理的に情緒を平衡を保って、真理的に静粛にしなければならない。
そこから安らかな覚醒と受容性があり、先天の実相世界における高次の自身から創造的エネルギーが降り注ぐまで、忍耐強く待ち、そして、それが増大して、自らの存在自身全てにそれが吹き込まれるほどになるまで、受け入れなければならない。
より進んだ段階では、修行者はその霊的エネルギーが、本質的な生命の神殿に充満するのを知るのである。
そこにおいては、低次の三界(形態、色、幻影的現象)から超越的な霊的意識世界に上昇することができ、そして次にその高次元な世界における、高次な自身から、人格における底次の三倶(三つの媒体)へと下降し、そこに浸透して、生来ある無知の闇を追い散らすのである。
彼の意識と創造的叡智における、このような、内面化の外面化の交互の過程は、身体における三つの主丹田を晦ましている、闇の三層が全て追い散らされ、絶滅されるまで続くのである。
本質的生命、神霊の実相の一体であるにせよ、彼は自身の中にある世界の本性と特性について、確固として理解し、描写することができない。
彼は唯、自身の存在全体に充満し、全く解放されて上昇と下降、外出と帰還を行う、創造的叡智との一体性に気付くのみである。
彼は自身が世俗的な存在の低い次元に沈み込んでいるように感じ、しかし又同時に、それらの上にある、不滅エネルギーの浄土の海に祝福され浮いていると感じる。
そのような崇高な散策状態の中で、彼の心には障りがなく、如何なる種類の懸念もない。
そして如何なる種類の惑いからも解き放たれている。
修行者は、このようにな霊的開眼を求める視点から、坐を修養をし、完璧な心の静寂を達成すべく努力し、本質的生命と創造的叡智を培い、発揚すべきでなのである。」とある。

最後に第十巻三節においては。

「各種の哲学や神秘主義の学派、教派を見回して調べると、彼らの殆どは、無為・無心の状態に関する原理を理解してしていない。
彼らは知的な心にのみ重きを置く異なった学説を提唱している。
そこで、この心が自己の引き込み(言+口[変換できませんでした])の考えに執着すると、前世の劫(karma)によって造られる障害によって妨げをうける。(鬼雷注、瞑想をし過ぎて自己内面ばかりを観つづけると、阿頼耶識の中にあるカルマに取り憑かれる意味であると思考します。)
直接的な接触(接)の考えにとらわれると、低次元の人格によって即刻かき乱れる。(鬼雷注 帰神法や憑依法による弊害。人の心には善悪正邪の心が必ずあり、高潔な聖人、人格者でも一分の悪魔がありて、それにより、乱される。)
更には心がエネルギーの充満状態(彀)に拘泥すると、エネルギーの魔(炁魔)が即時に敵対的な活動に入る。(鬼雷注 気功的な人為による、無理なエネルギーの溜め込みは、自然の法則から離れる為に即座に反発する坑魔が働くと思考します。)
このような状況下で、過去の劫が霊的進展を妨げる障害を防ぐ唯一の方途は、坐の修練を積むことである。
同様にして、内なる魔の危害を防ぐ方途も坐の熟練を積むことである。
この理由から、我々は坐に打ち込むのである。
斯くして、我々は至福状態(適)を達成する。
正しく坐れば、正しく「適」へと至る。
坐の途上で、我々は「適」へと至り、「適」の中で坐を続けるのである。
二つの静坐法を比較する時に「適」状態で安んじる坐法は、「言+口(こう、自らが阿頼耶識に入る瞑想法)」を達成するためだけの方法より、無限に偉大な価値があることが、判る。」と記されている。

全十二巻の中には、この他にも坐に関する重要で意義深いくだりがあるが、それらは、余りに多すぎで、この「序論」には全て盛り込むことはできない。終。
 
韋達(英訳者)。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする