「真経の大旨」
周悟担 演述
「北極真経」は五経経典(道教・儒教・仏教・キリスト教・イスラム教)の祖脈(大本)であり、また人生における性命の根源である。
吾ら修者(修道する人)は、これを演ずることはできても、講ずる(講義する)ということは出来ない。
修者は、この経の主旨を明らかにしてさらに、五経の経典によってこれを証明すれば、自ずから「北極真経」の深遠にして玄妙なることを悟ることができるので、これを疎かにしてはならないのである。
上古の時代の人心は、純朴にして人情に厚かったので、教を説く必要はなかった。
それが中古の時代となると人心は、だんだんと軽薄になり、五教の聖人がそれぞれ、各地に降られて、大道を明らかにされ、人心を救い、正したのである。
現在は下元の末にあたり、五教の精神は漸次絶えてしまい、道より益々遠ざかってきている。
上乗より、中乗に変わり、中乗より、下乗に、降ってきており、その病根は、門戸の見によって融合できないことに在る。
また、各教では、自ら門戸を分かって、支離滅裂となり、徒(いたず)らに枝葉末節の上においてのみ、ことを論じ大道の根本を明らかにしていないのである。
西欧においては、宗教の争いがあり、それによって殺戮が行われてきた。
また、科学と哲学や宗教が敵対するに至り、人心はその、真の系統(大道の系統)を失って、ついに今日の空前未曾有の大災劫を作り出すことになったのである。
老祖は、衆生が苦海に沈んでいるのを見るに忍びず、今回はじめて、この経(北極真経)を伝え、これによって道を明らかにすることができたのである。
「中庸」では「天の命、これを性と謂い、性に率(した)がう、これを道と謂い、道を修める、これを教と謂う。」と言っている。
この一節は性命の根源を明らかにしている。
しかし、後世の学者は僅かに「道即ち理」という事のみを以て道の一字を釈(と)いているが、それではあいまいで、はっきりしない。
道院が設立されてから、はじめて、道の本源が炁胞であることがわかり、理の一字だけでは、この道の意義を十分に言い表すことは出来ないのである。
老祖は、道胞が即ち炁胞である事を明らかにし、炁解の一輪が万化(天地宇宙の全てのものを化する働き)の根本であり、五教に根ざしているという事を証明する事が出来るのである。
昔の聖人や哲人は夙根(前世における修道の基礎)が深厚であって、ただ事理を理解することのみを以て満足せず、さらにその根本を探求したのである。
それによって吾人(われわれ)の智能は本来自分自身の所有するものでなく、それは、天命より来たものであることがわかるのである。
そこではじめて人は能(よ)く、上帝(天や神)と接霊することが出来る。
故にこれを「天命」と言うのである。
天と人との間は息息、相通じている。
天命より来たものを智慧といい、人心によって創られたものを識神という。
五大教主は、均くみな、天命を奉じて帝霊(神霊)に接し、天に代わって宣化し(道を宣べ、人々を感化)、それによって世の人々を渡(すく)ったのである。
キリスト教でいう、「上帝(天や神)は人々の心の中にあり、人々は上帝の中にいる。」とは、この意味である。
人が能く、天命を受けて善を明らかにし、初めに復(かえ)れば、内聖外王(内に聖人の徳を修め、外には王道)の学を成就させることが出来る。
思うに、先天の心は道心にして、偉大であり、後天の心は人心にして、狭小である。
中国は歴史が最も古く、早くから文明が開花し、儒教と道教の両教は本来一貫したものであった。
孔子は「尚書」(書経)を編纂して、唐虞(尭帝と舜帝)よりわけて、尚書の二典三謨は道統における、一貫の薪伝を顕かに示したのである。
十六字の心伝以外を除いた以外に、大兎(禹王)は、性に率(した)がい、命を受けるところの修功を明らかにすること最も切実であった。
それがいかんせん、後世の儒者がそれを明らかにすることができず、性功のみを知って、命功を知らず、遂に後世に至って、その真伝を喪うことになったのである。
隋の時代の文中子は儒教と道教の門戸の見にとらわれず、天命の源を徹底的に悟った。故に能く道統を受け継いだ。(いまは、済南母院の守沙仙である。)
宋の時代の、周濂溪、邵康節、張黄渠、程明道、程伊川の五人が宗風(以上の五人は、衰微した儒教の真髄を再び復活させた)を振るい興して、道統が復(また)再び明らかになった。(道院の中の和光真人=周濂溪先生は演道使の道職の任がある。)
王陽明(北京道院の守沙仙)は、従来の儒学者が伝えた教えが誤っているので、故に「良知を致す」の説を起こしたのである。
明の末期から清の初めにかけては、尚道に明らかな人は少なくなかった。
その後、近代に至って枝葉末節なことに拘(とら)われて、僅かに文字の上にのみ、道を求める学問にしか知らず、根源を明らかにしないが故に、今日のような暗黒の、状態に陥ったのである。
その結果、聖賢の学問も、また存立することができず、そのために、人々も未曾有の苦しみをなめるようになったのである。
幸いに、吾が老祖は、「真経」を伝授して、五を合して六に統べ、教を救い、人を救い、霊を渡(すく)って劫を化(なく)し、将来道が明らかになり、道化(道により化すること)が昌(さか)んになれば、全世界に普遍的にこれが広まり、その功業(功徳)の偉大なることは、吾人の能くはかり知ることの、できるものではないのである。