孚聖が武昌道院での扶乩に臨まれて曰く。
「修養坐の功候」と言うものは、浅い所から深い所に至り、粗い所から細かく「黙」して心霊が運(めぐ)る。
それには、外のものに心が囚われることなく、本性を養い、毎日途切れる事無く続ければ、自然と一体になることが出来る。
坐が「二度」に進めば、自ら心が「静」となり、息が調い、陰陽の精光が交わるのである。
さらに、坐が「三度」に進めば、「真炁」が上に揚がり「純陽」が復(かえ)って来る。
順を追って「五度」に進めば、「虚室、白を生じ」(人の心体が「虚」になれば、先天の炁の働きである白光が体内に自然に生じて来る事)、真晶(真に明らかなもの)が自ら昇り、邪で汚れたものは、自ら消え、病を払い退けて、寿命が延びる効果がある。
さらに勤め励み、少しの間も途切れる事が無ければ、「炁」が固まり「精」が結ばれ、「神」が凝る。
これらが「元会」(道家の言う金丹。神気円満の意味。要するに、神気が上昇して、静功が成就する境地。)に向かって上昇する事になる。
老子の書に「道は無名にして無形である」という。
強いてこれを名づけて「道」と言い、強いて、これを形づけて「炁」と言うのであり、上天においても、どうして同じで無い事があるだろうか。
坐で「一度、二度 三度」と度数を言うのも、これは一つの目安を形容したに過ぎない。
実際にはどうして、度数があるだろうか。
温度計を見れば、暖ければ昇り、寒ければ降る。
人身の陰陽もまた、同じことであり、陽が盛んであれば、気が清に化して上昇する。
度数などは本来無く、強いて度数を言い、工夫の深い浅いを証明するのに用いているだけである。
陽が昇れば自然に陰が降り、恒に坐を続けることによって初めて、この境地を自覚する事が出来る。
陽が昇れば「霊」が充ち「炁」が固まり、精神が伸び伸びとして心地良く、体質が爽やかで軽くなり、善し悪しの濁りが降りれば、「実」である。
そうして初めて陽が昇り、体中に春のような暖かい気を感じ、手足が虚脱状態になっている人は本来の健康な状態に復(かえ)ることが出来、体の冷えきっている人は、温かさを取り戻す事が出来る。
諸君には、この様な境地になった事があるだろうか。
前に述べた工夫をする(外のものに心が囚われず本性を養い、毎日途切れる事無く続け、自然と一体となる)人にして初めてこの境地に達する事が出来るのである。