孚聖が北京道院に臨んで訓示して曰く。
竅とは何を以って名付けたのか。(実際の文字は、穴に交わるを書くのですが、漢字変換出来ません。太乙北極真経には、穴と交わるの文字と竅とは、分かれていて、天地間の神々の働きを穴と交わると書き、竅は、人々の働きであるように描かれていたように、頭の悪い鬼雷が、記憶しております。誤っていたら、書き直します。)
竅とは、何を以って名付けたのか。名とする所が無いので、これに名付けたのである。
試みに天地の交わりを考えてみよ。
定まる所があるか。定まる所がないか。
定まる所があって、その時を守り、その序(前後の次第)を守る事は可である。
されど、その他を守り、その処を守る事は出来ない。(自然、季節の移り変わりなどの天地の交わりは、ハッキリと有形にとらえて難い。)
これによって天地と交わると言うのである。(竅、穴と交わるは、陰陽の交わるところと言われており、初歩は別として、ついに竅、穴と交わるを形骸化の有形なものとして、それを、捉えようとする事の非を述べたものと解される。)
鬼雷が述べる。鬼雷は多くの誤りを為す。されど回光の為に、それが、間違いで、多くの人の修道に誤解を与えるかも知れない。その咎を罪をすべて受け入れ、民に罪がない事を、神に許し乞い願い申す。
「竅とチャクラを混同してはいけない。老祖は、守竅をもって坐とする。何を守るのか、坐して、自然のエネルギーの互助を守るのである。
ある部位に集中すれば、それが、執着となり、着相の弊害を生む。
老祖の坐は任運自然の坐。
心は竅を離れず、身は道を離れず。
先天坐とは、即ち、穴と交わる、竅である。全身全霊をもって、陰陽、天地と交わるのである。
即ち竅とは、人体全てを述べる。
これを部位と変換すれば、道を違う。故に、心は竅を離れずと言う意味の一部は、恒であり、常に坐から離れない事であると、思考します。
そして、身は道を離れず。愛する者を守り、育み、また、愛して、思いやり、それを大きく広げて、慈から離れない。これが道から決して離れないであると考えます。。。」
無より有へ、その形を化し、その質を化するに至るのは、この無為の中に因らないものは無い。
以って、その形とするところのものを形とし、其の、色(質)とするところのものを色とする。
生尅の理(木火土金水の五行の相生・調和と、相剋)においても、定まると定まるなきと言う事は無いのである。
その定まると為す所以のものは、四時(春夏秋冬)五行(木火土金水)が周って始めに復(かえ)るという功に過ぎないのである。
人の坐もまた、復(かえ)るところのようなものである。
初坐の時、竅とする所があれば、即ち定まるものがあるか、また定まる似ている。
定を、守って恒(常)であり、既に大定(坐の境地が、羣[ぐん]と進んだこと。)に至れば、これに対する、いわゆる竅は、必ず散財の余地なく、また、存在の理も、ないのである。(つまり、格に入って格を出ると言う事。)
ただ、各人が、その、真空の霊について、その妙に達し、運行の自然に合すれば、炁気は相凝り、脈絡(任督の二脈や経絡)の間に交り輪(めぐ)り、豁然、急に開けるのである。
貫通するのは、その妙を用いてその極を尽くさざるはないのである。、