南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

留守をしてすみません

2006-04-06 02:00:12 | 故郷
ご心配をおかけしました。私はどうしてしまったのかとご心配なされた方もおら
れたかもしれません。何とか無事に生存しておりますのでご安心ください。

実は先週の木曜日の夜の便で日本に行き、昨夜戻ってきました。先週の出かける
ぎりぎりまで、仕事が立て込んでいて、ブログに留守をすることを書くこともで
きませんでした。成田から東京経由で愛知県の田舎に帰って、法事に出席してき
ました。全然時間がないこともなかったのですが、ブログをアップする気力がな
く、気付いたらシンガポールに帰ってきていました。

日本に着いたら春でした。東京はすでに桜の花が満開で、愛知県のほうはもっと
すごいかなと思ったら、まだ咲き始めという感じで、東京よりも遅くなっていま
した。田原市の滝頭(たきがしら)という山の麓の場所に桜の名所があります。
ほとんどの木がまだぼちぼち咲き始めたばかりという感じで、かろうじて咲いて
いる木を見つけて写真をとりました。上の写真がそれです。

母が亡くなって、7日毎にお寺のお坊さんが来て、お経をあげてくれます。私は
これまではパスしていて、今後も49日まで行く予定がないので、家でのお経には
一度しか出られないということになります。親戚の人も何人か来てくれました。

土曜日の午後、父がお世話になっている海のそばの施設に行きました。弟と一緒
に行ったのですが、父は以前よりも元気になった感じでした。ちょうどみんなで
ゲームをしているところだったので、待っていたら歩いて探しにきました。私た
ちを見てすぐにわかったので、何だかしっかりしてきた感じです。

私は、新井満さんの「般若心経」の本を持っていってあげました。父は昔から
お経が好きだったので、読めるかどうかわからなかったけど、置いといてほしい
ということだったので、表紙に名前を書いて置いてきました。はたして読んでい
るのでしょうか?

豊橋のインターネットカフェに行き仕事をしました。土曜日の夜もそこで仕事を
していたら、東京にいる下町娘からメールが来て「どうして帰ってきてくれない
のか」というようなことで、ちょっとした喧嘩になってしまいました。

心配なので、翌日の日曜日、大急ぎで東京に帰りました。下町娘に電話をしてみ
たら、「怒りは一日も持続しなかった」ということで、すんなり仲直りでした。
雨が降りそうなお天気でしたが、千鳥が淵に桜の花を見に行きました。長年、
東京にいたのですが、千鳥が淵に行ったのは初めてでした。その見事な桜に感動
でした。田舎の桜とは比べものにならないほどの巨大な桜の木でびっくりでした。

月曜日は朝から会社に行って、一日だけ忙しく仕事をしました。そして火曜日の
夕方の飛行機でシンガポールに帰ってきたというわけです。滞在中に3月が4月に
なり、多くの会社で新年度が始まりました。うちの会社は6月末締めなので、
関係ありませんが、日本はフレッシュマンが街に溢れていて、4月だなあという
感じでした。3月末、シンガポールから日本に来る飛行機は満員だったのに、
4月の頭に日本からシンガポールに行く飛行機はかなり空いていました。夕方の
空港はびっくりするほど閑散としていて、パスポートのところも全く列がなかった
のにはびっくりでした。

帰ってきてから一つ事件がありました。シンガポールに入国しようと思ったら、
エンプロイメントパスを入れていたパスポートカバーがないのです。きっとどっか
にしまい込んでしまったのだろと思って、入国書類を書いて入国しました。
で家に帰ってきて探したのですが、ないのです。おまけに日本の携帯電話もない。
日本の携帯電話は飛行機に乗る寸前まで確かにあったので、なくしたとすると
飛行機の中かと思ったのですが、すでにその時は夜中の3時くらい。翌朝電話し
ようと思いながら寝たのです。

翌朝、シンガポール航空の遺失物のセクションに電話しました。そしたら何と
あったのです。さすがシンガポール航空!いつ取りにくるのかということだった
ので、今日の昼に行くからということで、取りに行ってきました。

パスポートカバーは革製のもので、マイレージのカードと、労働ビザのカードが
入っていました。日本の携帯電話には、日本のマンションの鍵もついていました。
亡くしたらどれも再発行するのに手間取るものばかりなので、見つかってほっと
しました。一度なくしたものが出てくるという経験を何度もしているので、感動
の度合いが少なくなってしまっているのが問題ですが、これは神に感謝しなけれ
ばならないほどの出来事です。とりあえずめでたしめでたしです。

私の実家

2006-03-18 23:43:59 | 故郷
豊橋鉄道渥美線の終着駅、三河田原。その駅前通りにある栄福堂という駄菓子
屋が私の実家である。今よりもずっと賑わっていた駅前通りは、今ではかなり
店も少なくなり、活気が失われてしまっている。そんななかで、この栄福堂は
この界隈唯一の駄菓子屋で、子供や、学生や、老人の憩いの場となっていた。

愛知県の渥美半島の付け根にある田原は、2003年に町から市に昇格した。私
が高校生だった頃は、人口が2万人ちょっとだったが、今は6万6千人になっ
ている。人口増加の原因は、三河湾埋め立て地にトヨタの巨大工場設備が来た
からだ。向かいの豊橋の港には、フォルクスワーゲンアウディの工場がある。

従ってこの地域は車社会だ。都市計画は車を中心に考えられる。30年以上前
から都市計画が進められてきた。道路を広くまっすぐにして、車が通りやすく
するというものだった。その図面によれば、駅前通りを少し斜めに横切る広い
道路ができ、それが、私の実家の半分以上を削り取る。残った土地は狭すぎて
家が建てられないので、移転せざるをえない。

区画整理の図面を最初に見たときはショックだった。都市として奇麗になるの
かもしれないが、一応この町は伝統ある城下町なのだ。昔ながらの町並みをす
べて取りつぶして、新しい人工的な都市に生まれ変わる。その発想は車を中心
にしていている。歩行者のことはあまり考慮されていない。それは机上の空論
のような気がして、気味が悪かった。

それから30年以上たって、まだその計画は完成していない。20年以上前に
私の実家の栄福堂は改築した。立ち退きになるのはまだかなり先だということ
で、家を新しく建て直した。そろそろ、立ち退きになるのかと思いながら、ま
だ、計画は進展しないでいる。去年、市の係員が測量をしにきたというので、
いよいよその時が迫っているのであろうか。

この間に、近所の家は、いち早く郊外に引っ越していった。家がなくなって
いくのでどんどん駅前が寂れていく。商業の中心地は、郊外のスーパーに移っ
た。小売店も、飲食店も大きな駐車場を完備しているので、アメリカの郊外の
ような風景になってしまった。町としては決して美しくはない。

わが駄菓子屋はこのコミュニティーにかなり貢献したのではないかと思う。
小さなこどもが小銭を持って買い物に来る。「おじちゃんこれいくら」とか
いいながら買い物をすることで教育にも貢献しているものと思う。スーパー
ではそういうことはできない。店を経営するほうとしては、一つの商品を売っ
て利益が1円くらいのものもあるし、高額商品でも100円にみたない。これだ
と商売としてやっていくのはかなり辛く、割があわない。ほとんどボランティ
アだ。

うちの父親と母親でこんなボランティアみたいな仕事をやってきた。生活に
決して余裕があるわけでもないのに、あまり儲からない仕事をやってきた。
父親は認知症で施設に入ったので、もう店にはいない。母親は3月5日に
亡くなってしまったので、もう店に出られない。弟がひとりでやっているが、
区画整理による移転の時期が忍び寄ってきている。

近所の老人が、パンやお菓子を買いにくる。通学の高校生が駅に行く途中で
この店に立ち寄り、牛乳を飲みながらパンをかじる。電車を降りて歩いてき
た旅人が、ペットボトルのお茶を買いながら、道を尋ねる。近所の人が、急
に客が来たということでアイスクリームを買いにくる。孫に何か買ってやろ
うとするおじいちゃんも来る。店で買うべきものがなかなか決まらない子供
もいる。この店は、古きよきコミュニティーの縮図だ。

こういう店こそ、残ってほしいと思うのだが。


母からのプレゼント

2006-03-17 20:24:27 | 故郷
母の葬儀を終えて、3月9日の飛行機であわただしくシンガポール
に戻ってきた。その翌日、会社に出社した。母が亡くなってまだ
一週間たっていない。不在中にたまっていた仕事を片付けていると
マックの専門店から電話があった。2月に注文してあった、新製品
のMacBook Proが入荷したという。2月の中頃入荷する予定だったが
製品の調整などで少し遅れた。インテルの新しいチップが入った
高速スピードのマシーンである。

2月2日の木曜日の夜、それまでメインのマシーンとして使ってい
たPowerBook G4にミネラルウォーターをこぼしてしまい、突然機能
が停止した。このブログにアップするために織田信長の絵を描こう
として、消しゴムをとろうとした際にミネラルウォーターのボトル
が倒れてしまったのだった。ひょっとしてそれは本能寺の恨みか。
私は明智光秀とは何の関係もないのに。

翌日すぐにマックの専門店に走った。プレゼンも控えているし、
パソコンがないことには、メールもブログもできない。これは大変。
同じ製品でいいからすぐに買おうと思っていた。「お客さん、それ
買うんだったら、新しいのがじきに出るんで、そっちのがいいので
は?」と囁く店員。シンガポール人なので日本語ではない。最初、
私を中国人だと思ったみたいで、中国語でなんじゃらかんじゃら説
名していたが、英語で質問すると、すぐに英語になる。そのへんの
切り替えがシンガポール人はすばやい。

結局、私は新しいiMacと新しいMacBook Proの両方とも買ってしまっ
た。どちらもインテルの新しいチップを搭載している。某PCクライ
アントの広告の企画をしていたので、1月に発表されたばかりの
インテルのチップについてはちょっとばかり知っていた。MacBook
Proがすぐに入手できるんだったら、そっちだけでよかった。しかし
早くて2月の中頃になるらしい。その間の中継ぎが必要だ。という
ことでiMacを買った。中継ぎにしてはちょっと贅沢だ。二つ合わせ
ると何十万円にもなる。こんな高額な買い物をしたのは始めてだが、
その時は躊躇せずに決めてしまった。

MacBook Proを待っている間に、母が入院し、やがて母が亡くなり、
葬儀があった。このMacBook Proは母と入れ違いにやってきた。
ひょっとして、これは母が私にプレゼントしてくれたものなのかな
という気もする。金を払ったのは自分なのだが、誰かに背中を押さ
れて、気がついたら買ってしまっていたような気がする。

今まで使っていた古いマシーンは、かなり老朽化していた。DVDの
スロットはついているのだが、ディスクドライブが使えなくなって
いた。バッテリーは10分も持たないようになっていた。キーボード
のJのキーがはがれ落ちてしまっていた。周辺部の塗装がはげ落ちて
見苦しくなっていた。使っている自分がなさけなくなるようなそん
な状況だった。

もし古いマシーンがそのまま壊れなかったら、おそらく私は我慢し
てそれを使い続けていたと思う。しかし、水をこぼしたことが、
買い替えるというきっかけを与えてくれた。それは災難であると
同時にチャンスでもあった。そのことが、母からのプレゼントと
いうふうに思えてならない。大切に使おうと思う。これを使って
いろんな仕事を生み出していきたいと思う。パソコンってなんか
打ち出の小槌みたいだなあ。使い方次第でどんどんいろんな物が
生まれてくる。これはすごいプレゼントだ。

私は母にいろいろ贈った。母の日にカーネーションの花を。カー
ディガンを。上着を。扇子を。マッサージの機械を。万歩計を。
洗濯機を。電子レンジを。湯沸かしポットを。ラジカセを。暖房
ヒーターを。手提げ鞄を。財布を。ほかにもいろいろ買ってあげ
たと思う。

母が私にプレゼントしてくれた物は品物としては思い当たらない。
しかし、私が贈った品物よりももっと大事なものを母からもらった。

まずは、私という生命をもらった。

これは生涯最高のプレゼントだと思う。いくらお金をつんでも
これを買うことは誰にもできない。金があれば何でも買えると
豪語していたホリエモンでもこれは買えない(今の彼は自由も買え
ないでいるが)。

そして、ここまで育ててくれた。病気や危険から守ってくれた。
子供の頃の思いでをくれた。夢見る力を与えてくれた。
言語能力をさずけてくれた。
数えきれないほどのいろんなものをくれた。
自分がいまあるのはそういういろんなものの集合の結果だ。

母が死んで、物理的な存在はなくなった。
しかし、母はまだ私たちの心のなかに生き続けている。
そしてブログを通して、まったく母のことを知らなかった人たち
にも母が生きていたということが伝わっていく。

母はコンピューターなど全然わからないのだが、私のブログを通
して母のネットワークがどんどん広がっていく。これは母にとっ
ては想像もできなかった事態だと思うが、なんかこれは素敵な
ことのように思う。

母の記憶が、通信ネットワークを通じて、星屑のように散らばって
いく。デジタル空間の中に漂う銀河のように、母の存在の断片が
細かくくだけて漂っていく。

これはとても素敵な供養なのかもしれない
と勝手に思ったりしている。

満月を見ました

2006-03-16 01:10:07 | 故郷
今日は満月。晴れ渡った夜空にまんまるの満月が出ていた。そういえば、母が亡
くなる前夜は三日月だった。もうあれから10日が経った。母の霊はまだこの世に
未練を残し、どこかをさまよっているのだろうか。ひょっとしたらこの満月もど
こかで眺めているのだろうか。母は2年くらい前から視力をほとんど失っていた
が、現世の肉体を離れた今ひょっとしたらいろんなものが奇麗に見えているのか
もしれない、そんなことを考えた。

何年か前に「チベット死者の書」をNHKのテレビで見た。臨終を迎えた人の枕元
でラマ僧が読み聞かせる教典である。死者が死後に出会う風景とその対処法が述
べられている。死の世界に旅立つための旅行ガイドのようなものである。それに
よれば、死後数日は、霊がさまよっている。葬儀の様子なども霊には見えている。
そして霊はやがて現世への執着を断ち切り、光の世界に向けて進み、成仏するか、
輪廻転生していく。

この話によれば、死者はまずまばゆい光に遭遇するということだった。ひょっと
して、今日出ている満月は、そのまばゆい光なんだろうか。たぶん目があけてら
れないほどのまぶしい光なんだろうが、月も光には違いない。母の死後、月が
どんどん満ちて大きくなってきたのは、母が光に向かって進んでいるという意味
なんだろうか、などと思う。

そういえば母は、かなり前から自分が死ぬ事を考えていた。自分の身体が弱く
なっていることを自覚しており、寿命がやがてつきることを意識していた。人は
誰もが死ぬ。自分だってそうだ。あなたもそうだ。それは人間である以上、避け
て通れない運命だ。母は、自分の葬儀をどこで執り行うのか、費用は大丈夫かな
ど、去年くらいから言っていた。死の前日も、葬式はどこでやることになったの
かという質問を弟にしていた。

自宅で葬式をやると、いろいろ大変だから、町の葬儀場とかでもできるよ、とか
そんなことを積極的に考えていた。私たちは母に長生きしてほしいので、葬儀の
話などはまともには取り合わなかった。しかし、母にとっては切実な問題だった
のかもしれない。

一番下の弟は、参議院で速記をやっている。「私が死んだら、参議院から電報が
来るかねえ」などということも言ったことがあった。葬儀には、参議院事務総長
から弔電が来た。参議院関係から花も届き、いくつか弔電も届いた。私の会社か
らも、クライアントからも弔電が届いた。母親が喜んでいる顔がまぶたに浮かび、
涙が止まらなくなった。

私の母親は、ワーキングウーマンだった。家事も行っていたが、日中は、炒り
胡麻を製造する小さな工場に勤めていた。夕方家に帰ってくるとまた家事を行っ
た。私が子供の頃、ご飯は木をくべてかまどで炊いていたし、風呂もまきで
くべていた。過労で何度か入院したこともあるが、定年になるまで働き続けた。
父親は駄菓子屋をやっていたが、母のほうが収入が多かったと思う。

最近は働けなくなったが、駄菓子屋の店番はやっていた。働き続けた母だった。
父親が認知症になって、弟などに迷惑をかけることを心配した。自分のことは
さておいて、人のことを心配する母だった。

ごくろうさま。苦労ばかりかけちゃってごめんね。
ゆっくり休んでください。

そのとき何を優先するかということ

2006-03-15 08:58:12 | 故郷
成田空港で新井満さんの「般若心経」の本を買って、飛行機で読んだ。
葬儀のときに聞いた「般若心経」は意味がよくわからなかったけれど、
この本を読んで、そういうことだったのかとわかった。目から鱗が落ち
るというのはこういうことなのかと思った。本文もさることながら、後
書きの「母が遺してくれたもの」という文章に感動した。

この著者はリレハンメルオリンピックの時、イベントのプロデューサー
をやっていて、次の長野のデモンストレーションを担当していた。リレ
ハンメルに出発する日、母親の危篤の知らせが入った。リレハンメルに
いくべきか、母親のもとにいくべきか悩んだ。最終的に母親のところに
行くことを選んだ。これはすごい選択だったろうと察せられる。

母親の臨終には間に合わなかったのだが、彼は、自分を産んでくれた母
親がいなかったら今の自分も仕事もあり得なかったと理解し、仕事より
も母親に優先順位を置いた。彼は、母親の遺品を整理していて、たまた
ま「般若心経」を発見し、それを読み解くことを決意したらしい。

私は、2月に母親が入院したという知らせを弟から聞き、次第に病状も
悪化してきているという情報が逐次入るなか、月末にはなかなか日本に
帰れなかった。22日にインスタントラーメンのパッケージの商品撮影が
入っていて、24日には某記録媒体メーカーの商品撮影140点ほどの仕事が
入っていた。また月末には、社員の給与の支払い手続き、売り上げ帳簿
の整理、支払い手続きなどがぎっしりあった。

なんとかとりあえずの仕事を片付けて、3月1日の夜11時20分シンガポー
ル発東京成田行きの飛行機に乗った。病床の母を2、3日お見舞いして、
東京で雑用でもしようと考えていた。3月の7日の飛行機で帰って来る
予定で飛行機をおさえていた。

今回は危篤の知らせを受けて帰ったのではなかった。しかし、木曜日の
夕方、病室を訪ねたとき見た母はすでにかなり苦しそうであった。弟に
よれば、ここしばらくこんな感じで特別なことではないとのこと。金曜
日、土曜日と、日にちが経つにつれて、これはちょっと苦しそうだなあと
いう気がしていた。テレビドラマとかで見る危篤の人もこれほど苦しそう
ではないのになあなどと思いながら、そんなに早く亡くなるということは
想像もしなかった。

ちゃんと食べれるようになれば、まだ元気になる可能性がある。食べられ
なくなったとしても、点滴で生き延びられる。そんなことを信じていた。
それでもかなり苦しそうだったので、これじゃあエネルギーをかなり使い
はたしちゃうなあと思いながら心配していた。

土曜日の朝、弟と喫茶店でモーニングを食べながら話した。シンガポール
に予定通り帰らないといけないんだけど、そのためには明日の日曜日には
東京に戻らなければならない。一日くらいは延ばせるんだけど、向こうで
仕事がたまっているため、それ以上は無理だなあ。とりあえず、ちょっと
帰ってまたすぐにこっちに戻ってくるようにするよ。とりあえず、支払い
関係とかの段取りは丸一日あればできるので、それを処理してまた来るよ。
というような予定で考えていた。

そこに東京の下町娘から電話が入った。その日にちょっとだけ母親のお見
舞いに来る予定だったのだけれど、日曜日の予定を土曜日にずらせたので
来るのは日曜日にしたということだった。私は携帯を前日の夕方からマナー
モードにしてあったので、電話がつながらなかったのだと言う。日曜に来
るのだったら、その日の電車で一緒に東京に帰れるなと、そんなことを
考えていた。母の臨終が翌日に迫っていることなとつゆ知らず。

土曜日の夕方から夜にかけて、私は母の病室にいて、パソコンをつないで
仕事をしようとしていたが、全然手がつかなかった。仕事のことを考えよ
うとするたびに母が苦しそうに助けを呼ぶ。「看護婦さーん、看護婦さーん」
と母は苦しそうに何度も呼んだ。看護婦が来たときに、どうして呼んだのか
聞かれた母は「最後を見てくれんと困る」みたいなことを言っていた。
この時、母がすでに死を意識していたのかどうかよくわからない。

金曜日も土曜日も何時間も私は母のそばにいた。土曜日の夜に看護婦さんが
「お兄さんは後できますかねえ。ちょっと容態はよくないので」と言った。
実は、私のほうが兄なのだが、あえて訂正しなかった。一応私が長男である。

翌日の日曜日、弟の情報では、朝ご飯のおかゆを少し食べれたという。これ
でちょっと安心していたのだが、その日のうちに母は逝ってしまった。そう
いえば、土曜日の夜、母の病床で私は宮沢賢治の「けふのうちに遠くへ行っ
てしまう妹よ、みぞれが降っておもてはへんに明るいのだ」という詩を思い
出していた。まさか本当に遠くに行ってしまうことになるとも思わずに。

母が亡くなって、通夜、葬儀の段取りを調整している間も、私にはシンガ
ポールの会社のことが頭から離れなかった。日曜日の夜中に、豊橋のインター
ネットカフェに行き、メールでいろいろな段取りをした。東京の本社の総務
に母親が亡くなったことと通夜、葬儀の日程をメールしておいた。月初の
会議のための仕事の報告書を書いて、深夜にメールで発送した。シンガポー
ルの社員全員に、葬儀のため、シンガポールに戻るのが二三日遅れるとの
メールを出した。本来ならば亡き母の枕元にいてあげないといけないのだ
ろうが、こんな仕事の段取りをしている自分がなんだか冷酷な人間に思えた。

葬儀があり、初七日の法要もその日のうちに済ませた翌日に私はシンガポー
ルに戻った。通常は親の葬儀の時には数日の忌引きをとるのだが、会社の
ことが心配だったので、非情にも仕事に戻ってしまった。戻ってわかった
が、その週末までゆっくりして戻ったところでそれほどの致命的なことに
はならなかったかと思った。そう思えば、母のもとにもう少しいてあげた
ほうがよかったのになあと、仕事人間の自分を憎んだ。

3月の12日は、ローカル社員の結婚式に招待されていた。行く予定にして
いたのだが、喪中の人には来てもらっては困るという。従って結婚式には
いかなかったが、その代わり、いろいろと仕事が入ってしまい、週末は
忙しくすぎていった。

仕事も大事だけれど、それよりももっと大切なものがあったんだと今に
なってわかる。仕事に埋没していると、その大切なものが見えない。
そんなことでは人間失格である。

おかあさん、ごめんなさい。そして、ありがとう。






母は私を呼んでいたのだろうか

2006-03-14 00:56:17 | 故郷
3月2日木曜日、東京からこだまで豊橋に、豊橋からローカル線の渥美線に乗り
換える。豊橋はこの地域では一番の都会だが、しばらくすると、窓の外の風景は
次第に農業地帯の風景になっていく。電車は杉山という駅に停車する。駅員はい
ない。40年くらい前はちゃんと駅舎があり、改札もあった。駅の向こうの家は、
駄菓子屋だった。駄菓子屋と言っても、コンペイ糖や、その他数種類のお菓子を
売っているだけの小さな店だった。

この杉山という場所は、母が生まれて育った場所だった。この駅から歩いて数分
でその家に辿り着く。私が子供の頃、よく遊びに行った。母の実家は大きな農家
で、いろんな畑があり、いろんな動物がいた。そんなことを思い出しているうち
に、電車は杉山の駅を後にして、終点の三河田原に向かった。窓の外に夕陽が落
ちていくのが見えていた。

三河田原の駅前通りに私の実家がある。昔は菓子製造販売を行っていた店だが、
今は駄菓子屋である。父は認知症がひどくなったので、2月に海のそばの施設に
入った。母は、2月の7日から病院に入院していた。家には弟が一人いるだけで
ある。普段は弟は近くの料理屋にアルバイトに行っているが、この日は休みなの
で家にいた。

弟と二人で病院に行く。母は酸素マスクをしてベッドに寝ている。点滴が痛々し
い。弟は、仕事が終わった後、夜は病室に泊まっていた。病室の片隅に折りたた
み式の簡易ベッドが置いてあった。母は食欲をなくしているが、きちんと食べら
れるようになればまだ持ち直す可能性はあるとのこと。息は苦しそうだが、私を
まだ認識できた。

金曜日と土曜日の夕方から夜にかけて、私は母の病室にいた。弟は夕方から料理
屋に仕事に出かけていた。深夜から朝までは弟が病室に泊まりにくるので、私は
家に帰った。まさか、そんなに早く逝くことになろうとは思ってもいなかったの
だが、土曜日の夜看護婦さんが、「ちょっとあぶなくなってきたので、もう会う
べき人にはみんな会えましたかね?」と言った。まさか、それって危篤ってこと?
あと数日かもしれないとのこと。どうしよう、シンガポールには会社の支払いな
どが待っているしなあ。

日曜日の朝、弟からの電話で、母が朝食を少し食べれたとのこと。何だ、元気に
なるんじゃないか、そう思った。弟と私はいつものようにモーニングを食べに喫
茶店に行き、ゆっくりと病室に戻った。一番下の弟が前日から豊橋のホテルに家
族で宿泊していたが東京に帰る前に、母親を見舞いにきた。私は、メールやブロ
グが気になっていたので、豊橋のインターネットカフェに弟の車で連れていって
もらった。

豊橋で、下町娘と落ち合った。お見舞いに来てもらった。タクシーで田原の病院
に向かった。病院に到着する。母は、身体を起こして座りたいという。前日もそ
ういうことを言っていた。身体を起こして座らせてあげる。しばらくして母親の
一番末の妹が見舞いに来る。私たちがまだ食事をしていないのなら、ちょっと行っ
てきていいよとのこと。3人で食事に出かける。食堂で食事を待っている間に、
電話が入り、母親の息が止まったとの連絡。すぐに病院に戻る。母はすでに息を
ひきとっていた。医者が来て、死亡鑑定。公式には2時50分が死亡時刻となる。
まさか、そんな、まじ?そんな、あっけない。
嘘でしょ、という感じ。

それからのことは、いろいろなことがあり、通夜、葬儀、告別式、火葬、初七日の
法要、などいろいろな行事がすぎて行った。命あるものが、命がなくなり、形ある
ものが、形がなくなっていくというプロセスを目の前で見ていて、人の命という
もののはかなさを実感。葬式というのは大学生の頃、祖母の葬式に出たのが最後で、
ずっと出ていなかった。何十年ぶりかで出席した葬式が自分の母親の葬式だったな
んて。

母親は、昨年から時々言っていた。「外国にいたら、もしものときにすぐに戻って
来れんねえ」とそればかり心配していた。しかし今回は、偶然にも戻ってきていた。

思えば、今年の2月、いろんな物が壊れた。2月の頭に、車のナンバープレートの
所が壊れた。それを直すとすぐ数日後に、車のバッテリーがおかしくなった。
レッカー移動で、修理してもらった。オルタネーターという部品が壊れていた。
2月中旬、ノートブックパソコンに水をこぼして、機能停止。2月終わり、会社に
あったiMacのヒューズが切れ、機能停止。同じころ、家のプロパンガスのガスが
切れ、洗濯機のところの水道の水漏れを修理した。

今から思えば、あるいは母が私を呼びよせるために出していたシグナルだったのか
と思えてならない。「そんなシンガポールなんかで仕事してないで、すぐに戻って
きて」というシグナルだったのかもしれない。また今回の飛行機は、実は、景品で
もらった切符だった。2月中に発券して、3月中に飛ばなければいけないという
条件の切符だった。とりあえず、この日程で切符をとった。
まさかそんなことになるなんて。

何かこれはちょっと不思議な話です。なんだか超自然的な感じがします。
こんなことってあるんですね。なんか考えれば考えるほど不思議です。

春先の穏やかな日曜日に母は逝く

2006-03-10 04:47:30 | 故郷
一週間のご無沙汰でした。

3月2日の木曜日から日本に帰っていましたが、

いろんなことがありました。

3月5日の日曜日、午後2時50分、母が息をひきとりました。

死因は心不全、享年74歳でした。

3月7日の火曜日の夕方に通夜。

3月8日の水曜日に葬儀・告別式、その後、七日の法要。

3月9日の飛行機でシンガポールに戻ってきました。

ここにアップした写真は、3月3日の午後、母が入院していた病院の前の

菜の花畑です。この日も、亡くなった5日の日も、通夜、葬儀・告別式の日も

穏やかに晴れ渡り、春がすぐそこまで来ている感じでした。

この間の出来事はまた詳しく書きます。皆様にはご心配をおけけし、

申し訳ありませんでした。ではまた。

自分が小さな子供だった頃

2006-02-17 19:08:36 | 故郷
今から40数年昔の頃、母に連れられて、神社のお祭りに行った時
の写真です。小川の堤の道はまだ砂利道で、小石で遊んでいるみ
たいです。そのころ母はまだ20代の半ばで、豊橋市の杉山という
小さな村落にある農家から、田原の駅前通りにあるお菓子屋に
嫁いできたばかりでした。

そのお菓子屋(私の実家)は、いろんな種類の和菓子を作ってお
りました。饅頭や、柏餅、桜餅、ういろう、羊羹、落雁、煎餅、
パン、水飴、など数えきれないほどの種類のものを作っていまし
た。夏にはかき氷、冬には関東煮(おでん)、みたらしだんご、
などいろいろやっていましたが、今では駄菓子屋になってしまい
ました。

そのお菓子屋には、まだ祖母がいて、父親の弟もまだ同居してい
ましたので、家が窮屈だったのでしょうか、私を連れて、よく
実家の農家に帰っていました。その農家は、杉山という駅から
歩いて5分くらいのところにあるのですが、そこは私にとって
ワンダーランドでした。

牛や山羊がいる小屋のあるところから入っていくと、広場があり
ます。その広場を取り囲むように母屋や、離れの建物が並んでいます。
庭の片方はそのまま、みかんの木が生えている丘につながり、
小道を登っていくと、いろんな畑があって、一番上には苺の畑が
ありました。

鶏がいたり、うさぎがいたり、親戚の子供たちもいっぱいいて
それはそれは楽しい毎日でした。夏には、虫をとったり、畑仕事
を手伝ったり、牛車に乗って、誰かのお葬式の火葬場まで行った
記憶もあります。このへんは、まだサトウキビから砂糖を作って
いて、サトウキビ畑で、収穫を手伝ったこともありました。

戦争が終わってまだ10何年かしか経っていなかったので、戦争の
傷跡もあちこちに残っていました。その農家のみかんの木の生え
ているあたりには、まだ防空壕がありました。芋とかの貯蔵庫と
して使っていました。

母はよく歌を歌ってくれましたが、軍歌も歌ってくれました。
豊橋が空襲になったときの話とか、畑にいるときに、アメリカの
艦載機が突然撃ってきて木陰に逃げたというような話をいつも聞い
ていたので、自分も戦争を実体験したような気になったものでした。

母は、お菓子屋の仕事はやらずに、近くの工場に勤めていました。
炒りごまとか、昆布巻きを作る食品工場でした。何度か過労で入院
したこともあるのですが、定年になるまで働き続けました。

私が東京の大学に行くと言ったとき、とても寂しそうでした。田舎
にいてほしいと思っていたみたいです。大学を卒業して、教師の
資格をとり、田舎に帰る事になった時は、すごく喜んでいました。
しかし、単位のミスで大学を卒業できず、教師になって田舎に帰る
ことも不可能になりました。

そしてやがて、シンガポールに。母親との物理的な距離はどんどん
離れていきました。8年くらい前に、両親をシンガポールに遊びに
くるように呼んであげようとしたのですが、パスポートを取るのに
手間取り、そうこうしているうちに母は糖尿病になり、父は歩行が
困難になってきたので、シンガポールに来るという夢は消えてしまい
ました。

今、母親は、田舎の病院に入院しています。たびたび入退院を繰り
返していたのですが、だんだん病状は悪化しているようです。実家
にいる弟から、メールで知らされてくる情報で、早く病院にお見舞い
に行ってあげたいなと思うのですが、シンガポールと田舎の距離の
隔たりがとても大きいです。

「もしも何かあったら来てくれるかなあ」と母はそんな悲しいこと
をよくつぶやいていました。明日、東京にいる下町娘が私の代りに
日帰りでお見舞いに行ってもらうことになっています。

こちら留守にしてしまうと、仕事が滞ってしまい、会社がおかしく
なってしまうことも避けなければいけないし、母親のことも心配です。
何とか母親には元気になってほしいと思います。
こういうときって海外で仕事をしているのはちょっと大変です。