FEEL ambivalence

毎日、いろんなことを思います。
両極端な感じで。

両面価値。
同一対象に対する愛憎共存。

社会の揺らぎと教育の揺らぎの相関を考え始めてみたら。

2005-10-25 23:45:25 | ろぐ
ぼーっと教科書を読む。

情報系の教科書は難しい。
経営系の教科書はわからない。

で。

教職用の教科書を眺めている。
ちょうど、今ハマっってしまっているのは、
「思春期の危機を生きる子どもたち」/中西新太郎 著。
おもしろい。というか、興味深い。

社会構造の変革により、心の様子も変わっていく。
そんな視点から展開されていく。
教育に重点を置いているゆえ、子どもたちが中心になって話が進むのだが。
読み解くうち、ぼくは不安になった。
子供達の置かれている状況は、たしかに一変していると言えるだろう。
(どこを基準に変わったかを明確に示す必要があるが、ここでは触れない。だって、なんちゃって日記だし、笑)
だが、われわれの置かれている状況だってがらりと変わっているのではないのか。
教師が置かれている状況も変わってしまっているのではないのか。

子どもが、大人の思うように成長しない。
それゆえ、外部からの圧力で矯正しようとする。
たとえば、教育課程を変えたり、ボランティアを義務付けたり。
ゆとりだなんだといいながら、結局は外圧をかける。

そんな大人側にも、世代の違いはあるだろう。
さすがに戦前の教師はいないだろうが、
団塊の世代の教師と、そのジュニア。
おそらく、教師の中でも二つの世代がぶつかってしまっている。
子どもに目を向けることも重要だけれど、自らの足元も見なければならない。
教師に限らず、親の世代はみなそうだ。
教師に教育を押し付けておけば安心、という考え自体が危険だと思う。
それ自体が社会の揺らぎなのではないのか。

資本主義の発展によって、消費社会が生まれて。
消費社会は年齢の差をなくしていき、子どもも大人も、消費社会の構成員となる。
結果、

効率の、
個性の、
つながりの、

意味を変えてしまったのではないのか。
子どもに限らず、我々をも。
子どもはたしかに刺激に対して敏感であるだろうし、また、柔軟でもあるだろう。
それゆえ、我々の眼から見たら奇異な行動をとることもあるだろう。
だが、それは鏡なのであって、我々の社会がもたらしたものの中で、彼らが生き抜く手段なのではないか。
子どもに外圧をかけ矯正する以前に、もっと、変えていかなければならないことがあるのではないだろうか。

もつれた糸をほぐそうとして。
でも、それは、更なるもつれを見つけてしまい。
何をどうしていいやらわからずに、気付けば無関心になっている。
なんだか、そんな気がする。

教育に目を向けていくと、
社会のひずみに引き寄せられる。

まずは、
われわれが意識を変えていかなければ、
子ども達の意識を変えていくことなど、できないのではないだろうか。


あー。
だらだら書いちゃった。
考えてたことの半分も書けてない。
ま、ストレス発散だけど。

考え始めると、ほんとに怖くなる。
気付けば、妙に大人びて、幼稚な大人になっているのではないか、って。

不安なのは、子どもだけじゃないよね。
きっと。

いま、一生懸命働いている大人たちだって、きっと、
不安を感じているのかもしれない。

あれ?ちがう?
ぼくだけですか?(笑)

とくに、何をするでもないのだけれど。
とりあえず、明日からは、
他者を意識しよう。
まずは、そこからだ。