定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

ウズベクに抑留された池田幸一さんの記憶は正しかった キルギスでも運河掘り

2018-09-22 21:24:01 | 中央アジアのシベリア抑留
  

今年の2月に97歳で亡くなった池田幸一さん。

ウズベキスタンに抑留されていた池田さんは、抑留体験を『アングレン虜囚劇団』に書いている。関西人らしく、抑留中の日々を深刻ぶることなく描写ししている。

この本の中で、復員後の1976年にウズベキスタンを再訪している。この時に池田さんは、アングレンから「キルギスへ列車に乗って、運河の工事のために行った」と記録している。そのキルギスの町は、ハナバードだとも書いてある。

だが、1976年に再訪した際には、現地のガイドに聞いても場所がわからなかったという。残念だったろう。

わたしも、「シベリア抑留者支援・記録センター通信」への書評を頼まれた時、池田さんの体験記を読みながら、キルギスで買い持ち帰った地図を開いてみた。地図には、ウズベキスタンの国の中にハナバードを見付けることができた。

書評「ハナバードは、ウズベキスタンの国内の町だった」と書いた。

9月20日、ツーリズムEXPOジャパンという催し物があったので出かけた。いつもお世話になっているキルギスの旅行会社の方に会い、聞いてみた。

「ウズベキスタンに抑留された方が、2月に亡くなったんですけれど、抑留の体験を書いた手記に『キルギスのハナバードへ、出張のような形で運河の採掘の仕事に行った』と書いてあります。でも、抑留から解放されて日本に帰国してから、今度は旅行でウズベキスタンへ行き、ウズベキスタンで買った地図でハナバードを探したけれど見つけられなかったそうです。先日、わたしがキルギスで買った地図で調べたら、ハナバードはウズベキスタンの国内となっていました。以前から、ハナバードはウズベキスタンの町だったんですか」

すると、キルギスの旅行会社の50歳くらいの女性が、教えてくれた。
「ハナバードは、以前はキルギスだったんです。今でも、日本人の抑留者が建てたアパートなどがありますよ」

池田さんが『アングレン虜囚劇団』に書いたハナバード。その記憶は、間違いなかった。池田さんが抑留されていた当時、ハナバードはキルギス国内の町だったのだ。

 

この時、キルギスの旅行会社の30歳と35歳くらいの日本語ガイドも一緒だったのだが、この国境線の話は初耳の様だった。となると、国境線が変更されたのはいつの事なのか。また、ハナバードの周辺の町や村にも、元日本兵の足跡が残っているかもしれない。

国立オシュ大学へ日本語の本を寄贈することに取り組んでいるが、目的の一つは学生たちの日本語の勉強に役立ててほしい事。
そしてもう一つは、オシュ大学の周辺にある日本人捕虜の事を伝える言い伝えを調べてほしいと考えての事。三井勝雄氏の『天山の小さな国 キルギス』に日本人抑留者の言い伝えがキルギス人の間にあることは記述されている。

日本人抑留者の遺した記録に目を移してみよう。オシュ周辺にも日本人抑留者がいたことは、抑留された人たちが編纂した『捕虜体験記』の第5巻に添付されている地図に、収容所所在地を示す赤いマークがあることから解かる。

キルギスに抑留された日本人の調査は、ようやく始まったばかりと言える。