私はやはり基本は言葉に頼る人間である。言葉に頼りすぎる自分に気がついて、それから逃れるように美術館に通い出した、というのもあながち嘘ではない。
今回の駒井哲郎展、「第5章 詩とイメージの競演」では詩人の大岡信や安藤次男、小説家の埴谷雄高、野間宏などの詩集や挿画、装幀などを通じた共作が展示されている。私はこのコーナーにすっかりはまってしまった。
大岡信などの詩と駒井哲郎の作品は、挿画などではなく競作である。大岡信の詩「物語の朝と夜」がまず目に入る。
物語の朝と夜
だれかが呼んでいるので
眠っていても歩んでいる
夜明けのなぎさを
こだまの中を
きみの脳は漂っている睡眠の
水草のうおを
湖のうえ
悔いの歩みはわずかに僕より遅い
枯木の梢でひよどりに変質し
唄は靄を突き抜け 天にまぎれ
やがてゆっくりぼくを引きあげる
大岡信の長編の詩「料理場-駒井哲郎に」はなかなか含蓄のある詩である。「敗れたものが歌う 勝利だけが信じられると/勝ったものが歌う 敗北だけが真実なのさと/戦いのあとは貪欲と睡眠の支配/‥」。
敗者も商社も調理台の上でぐつぐつ眠る、という一見楽しく、深刻で、怖い詩であるが、このような作品がこの詩と並ぶと、詩のイメージがどんどん膨らむ。とくに雨が降ったような縦の暗い線が、詩のもどかしいイメージが増幅してくる。
さらに私にとって埴谷雄高の「闇の中の黒い馬」の装幀は今でも忘れられない作品であった。学生には高価で購入できず、書店で立ち読みしながら駒井哲郎の作品のイメージを頼りに埴谷雄高の世界を覗いていたと思う。
今は1975年に発行された河出書房新社の「闇の中の黒い馬」という廉価版を所有しているのみであるが、挿絵風に駒井哲郎の作品も掲載されている。この作品は版画集「九つの夢から」におさめられている。
「闇‥‥‥。私は頑固な不眠症を殆んどじびょうのように飼つているので、どちらかといえば、深夜、闇につつまれた寝床のなかで凝つと息をひそめたまま言い知れぬ不快を噛みしめている時間がむしろ多いくらいである。手をのばして微かな不安の裡にまさぐつてみる前方も、想像し得るかぎりかけはなれた数十億光年彼方の宇宙の果てもまた同質の闇にどつぷりとつつまれているはずのこの眼前を凝つて果てしもなく眺めつづけていることは、私にとつて、いきなり猿臂をのばし、むずと掴んで締めあげたいほど忌まわしい痛憤の時間なのであるが、と同時に、それはそんな自分を噛みしめて何ものかを時分のなかに掘つてみる限りもなく抑えに抑えた時間、まあいつてみれば、一種《静寂な歯ぎしり》の時間なのでもある。」
埴谷雄高流の手を伸ばした眼前の闇から、一挙に数十億光年まで飛躍し、その空間と時間軸が同一であるという不可思議な世界をどのようにイメージとして定着させたか、これは間に埴谷雄高の世界に陥ったものでないと分からないこだわりであろう。
「‥‥‥私の黒馬は《ヴィーナスの帯》についにさしかかつた。この暗黒の帯のはずれに、小さな無数の光を散りばめた宝冠のように輝いている一つの旋回する環があつて、それを遠望した多気で目覚めるはがりである。それは車輪のかたちをしているけれども、ゆつくり回転しているため、平らな円盤の内容の矢は、ちようど、夏の夜、低い地上をくるくると廻つて走る鼠花火のように一方へかたむきのめつている。‥」という描写が私の脳裏を今でも離れない。
この引用の直前に配置された駒井哲郎の作品は、じつは今回の展示とは少し違う。こちらの方が作品に則したイメージである。黒い馬の眼前には黒い丸い塊があり、「闇の中の黒い馬」の作品に則している。
ただし単体の作品としては馬の眼前の暗黒の塊は重すぎると判断したのであろう。版画集「九つの夢から」のために改変したと思われる。