駒井哲郎展、埴谷雄高の「闇のなかの黒い馬」の装幀・挿画から記載した。「ことば」があるとそこに意識がまずは行ってしまうのは、私がどうしてもことばの世界に生きてきたからだと思う。
挿画・装幀などは、書きことばの世界とのコラボレーションであり、ことばの醸し出す世界と、視覚に働きかける世界の相互浸透の醍醐味だと思う。それ以上に、読者や鑑賞者のイメージをどこまで豊穣に飛躍させるか、それはことばを紡いだ人と挿画を描いた人同士の関係だけでなく、興味をそそる。
さて、私は、心の奥底ではことばの世界だけというのは、本当の自分ではないのではないか、といつも思っていたし、今もそう思っている。しかしことばの世界からはもう抜け出せない。
視覚を対象にした作品はことばに変換しても、それだけでは鑑賞にならない。音楽も同じであろう。しかし人はことばに変換しようともがき続ける。それが正しい鑑賞であるかのように振る舞う。
確かに、そういう鑑賞も否定はできない。地理的、歴史的、技術的、社会的な背景は抜きにしては、確かに鑑賞も成り立たない。
1951年頃から盛んに優れた作品が私の心に届く。この歳が飛躍の年だったのかもしれない。年譜によると、同年瀧口修造らの実験工房が発足している。
そして駒井哲郎展では大きな影響を受けたルドンなどからの直接的な影響関係からの飛躍も見られる。
ある意味、飛躍であり、独自の世界への出発でもあったと私が勝手に解釈するこの年から数年の、「黒」は「白」を従えて、実に豊かな奥深さを感じる作品が並ぶ。
第2章は、ルドンの作品を楽しみ、第2章の後半ではルドンから「恐怖」「おののき」といったものを削った「夢」の分析と再生が、駒井哲郎の大きな魅力である、と感じた。
ルドンのファンにとってはこの第2章のコーナーは飛ばしてしまうことはとてもできない。