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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日はフリー

2016年11月21日 23時07分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は18時からの講座を申し込んでいた。4週連続の講座であった。ところが参加者がないということで開講されなかった。とても残念であった。
 ただし家に帰って来るのが20時30分近くとなるので、それから晩酌と夕食というのはあまり感心しない。かえって良かったのかもしれない、と思うことにしよう。
本日の最高気温は東京・横浜とも朝の9時前後に記録した。東京は14.7℃、横浜は15.7℃。朝は横浜駅まで35分ほど歩いた上に15℃前後なので寒いとは感じなかった。しかしだんだん寒くなり、家に戻る頃には襟を立てたくなった。雨がときどきポツリポツリときて、路面が乾くことがなかった。
 本格的に冬が始まる、という感じの空であった。この後、晴天が続き乾燥するようになると本格的に冬となる。
ということで明日はフリーとなった。午後には太陽が顔を出し、気温も少し上がるようだ。午前中は読書タイムとしよう。

バッハ「平均律クラヴィーア曲集第2巻」(リヒテル) その2

2016年11月21日 21時03分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 第2巻の第14曲から最後の第24曲までの11曲をおさめている。私の印象に残ったのは第21曲と長い第22曲のフーガ。全体としては第2巻の後半の方が曲が長いものが多いようだ。

 第21曲は解説によると明確なソナタ形式を持っているとのこと。確かに提示部の第1主題、第2主題、展開部、再現部、終結部ははっきりしている。フーガの高音がふっと現れるところが気に入っている。

 第22曲プレリュードの印象的な主題が美しい。一度聴いたら忘れられない。どこかで聴いたような懐かしいフレーズが続く。できればもっと続いてほしい、という風に終わる。フーガはのんびりしているような感じたが、何度か聞いているうちに何故か葬送行進曲のように聞こえてきた。聴いているうちにだんだん気分が下向きになる。そしていつまでたっても救いのない歩みに付き合わされている感じがしてくる。かといって、あまり聴きたくない、とは思わせないものがある。これが7分40秒続く。

 最後の第24曲は短くあっという間に終わるが、プレリュードは印象的だ。もう少し長く展開するといいな、という不満というか、余韻が残る。


年寄りの愚痴‥私もこんな歳になった‥

2016年11月21日 18時08分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の午後からの予定がなくなった。ただし、友人たちとの忘年会の予約で、14時ころから東京駅構内を歩き回り、お店の候補を探してきた。人数は8人ほどなので、コースを頼むよりもそれぞれに好きなものを注文して、トータル金額を割り勘にしようと考えた。コースの方がお店の人には歓迎されるとはおもうが、好みの問題もあり、難しいところ。
 15人を超えたら、それぞれが注文するのは、混雑する忘年会シーズンではお店に嫌われそうだし、店の混雑の具合では料理がなかなか出てこないことになる。

 本日の東京駅、とても混雑していた。月曜日でもあのように混雑するのであろうか。サラリーマンだけでなく、小さな子どもをつれた家族連れ、高齢者のグループ、大学生と思しきグループ等々でいっぱいであった。

 15時ころに居酒屋に入ってお酒を1合と冷奴で一息。店の奥の5人ほどの女子大学生のグループの大声のおしゃべりが否応なく耳に入ってきてびっくり。
 就職活動の話だったが、「会社の説明会には、お父さんも一緒に会場まで来てくれると約束したので、嬉しかった」、「入社式には会社は家族席も用意するって聞いて安心した」。これは4年生が3年生に経験を話している場面のようでもある。
 噂には聞いていたが、実際に耳にしたのは初めて。このような世界が日本に流通しているということに唖然とした。私のようなオジサンにはとても信じられない会話である。こんなことを大声で話をするということにも驚きである。企業も企業だが、親も親、子も子。20歳を超えた人の会話には私にはとても思えなかった。かなり落ち込んで、酔いが回って店を出てきた。本日は悪酔いしそうである。
 わたしが落ち込んでも何も変わりはしないが‥。私の娘は、すべて自分で決めてきた。このようにならなくて良かった。
 私が娘に説明会場まで同伴してほしい、といわれたら「甘ったれるな」と怒るし、入社式に親を招待する企業に勤めると聞いたら「そんな会社に入るな」といってしまったかもしれない。少なくとも出席はしない。

 もしも子の就職した企業が今喧しい「ブラック企業」だったら、それは労働運動の末端に身を置いた人間として、あるいは社会人の先輩として、心底親身に相談にのってやりたいと思う。家族・親族・親、大学の就職あっせん部署の出るところはそこだと思う。いつも悲惨なニュースを聞くたびに、学校の就職あっせん部署の対応が報道されないことに疑問を持っている。学校と企業の癒着にもメスが入ってほしいと思う。ブラック企業の犠牲になった社員の家族・親族は、言葉にならない無念をかみしめておられるであろう。


体調は回復したようだ

2016年11月20日 22時03分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は午前中から東京都内へ所用があって出かける。夕方には八重洲口で友人との忘年会の会場探し。目当ては無いが、落ち着いて美味しい食事が出てくるところがいい。お酒よりは食事の充実を求めたい。しかし午後から雨が降るとの予想である。東京の最高気温は14℃、横浜は15℃。本日よりも7℃位は低くなるようだ。傘をさしてのお店探しはチョイと面倒であるが、来月のお楽しみの会場なので文句は言えない。

 本日は体調はとても良かった。このまま回復してくれるとありがたい。瞼の周囲が赤くなったこと、目の疲労感、肩凝り‥一過性のものであればいいのだが、しかし症状には何らかの原因もあるはずだ。追々探っていきたい。まずは明後日以降に眼科でいろいろ聞いてみたい。

 体調がもどるとCDも落ち着いて聴くゆとりが出てくる。聴いているのはバッハの「平均律クラヴィア曲集の第2巻の後半部分。4枚組の4枚目。同じCDを聴いていても頭の中で自然に反復しながら聴くことが出来る。心地よい旋律がすんなりと頭の中に着地する。不思議なものだとつくづく思う。


慶応大学日吉キャンパスのイチョウ並木

2016年11月20日 18時01分51秒 | 山行・旅行・散策
         

 本日は日吉にある慶応大学のキャンパスのイチョウ並木を見ることになった。毎年見ている光景ではあるが、少しずつ季節が違うと景色も随分違う。
 スマホのカメラ機能を使った撮影であるが、そしてピントも甘いが、それなりに雰囲気は写せたと思う。言い訳をしてはいけなかった。
 昨日とはうって変わった暖かさと風のない快晴に恵まれて多くの人が訪れていた。家族連れで弁当を広げている人もいた。暖かいことがさいわいしてか、肩こりや目の奥の重苦しい感じもなく、気分は爽快であった。

★弁当に妻の味ふと黄落す    菅原 涼

 少し遅れた作業などを少しずつ取り戻したいと思っているが、65歳を過ぎたら焦りは禁物、といわれる歳になってしまった。

         

布団の中の妄想

2016年11月20日 10時51分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 11月に入るとすぐに駅周辺の繁華街や店内のスピーカーからはクリスマス・ソングが流れている。住宅の玄関にもクリスマス・リースがかざられている。いくらなんでも早すぎると思うが、人はそれとなく繰り返される音楽にいつの間にか踊らされる。クリスマス用品を探したり、飾り付けを購入したりという気になる。クリスマス商戦は2か月近くの長丁場ということになる。
 「消費を煽る」という行為は小売り店には必要不可欠なのかもしれないが、どうしてもどこかで基準や規範、箍(たが)がすっかり壊れてしまっているのではないか、と思う。

 わたしも、つまらない規範や時代に合わない「倫理」は解体した方がいいと思う。しかしその解体に向かうエネルギーが新しい規範や新時代をつくる「倫理」という「土俵」を構築しないと、「競争」が無際限となる。これはもう弱肉強食と破壊の衝動だけが残る「荒野」とならざるを得ない。そんなブレーキが利かなくなり、身の回りから「戦争」が露出してくる。
 無限定に近い「競争」と「規範」破壊は、個人の「破壊」にまで進む。「競争」社会は一定のルールとその時代に即した「規範」がみえない限り、社会そのものの存立が危機に瀕するまで無際限に進展する。それが現代の日本といえるのではないか。
 人と接したり、社会性の中に揉まれ続けると、どこかで人は孤独の時間と場面に向かう。そして自己の観念の中に身を置きたくなる。それが芸術の場合もあるし、自然の場合もある。体をひたすら動かす運動になる場合もあるらしい。そしてそれらはどこかで社会や古い規範に対する破壊の衝動ともつながっている。
 国家や社会の頂点に立ち、その動きをコントロールする立場の人は、得てしてそれらの衝動が社会の規範への破壊のエネルギーに転換することに敏感かつ過剰に反応してそれらをどこかに封じ込めるか、自己のコントロール下におこうとする。近代国家もそこからは抜け出していない。
 同時に人は自己の孤独の時間まで奪われると、生きるためにはそれは無限定な盲従、ものいわぬ隷従を受け入れざるを得なくなる。また「規範」によって保護されている人を許容しなくなる。そして自由な個人や自由な意見に接するとそれらを受け入れたくなくなる。最後には排除し、抹殺すらしようとする。
 現代の日本の社会は多分、そんな水準だ。時代に抵抗することがごく少数で、地表からは見えない伏流水のように潜っていかざるを得ないのだろう。
 「時代が血を欲している」といった人がいる。これはどう立場でどのような人に向かって言ったのかは私にはわからないが、流された血が忘れ去られるのは、いつの時代でも翻弄された人々である。踊らされた人でもある。
 どんな時でも血は流されてはいけない。悲しいかな、そのように社会全体が決意しても流されてしまう血がある。

明日は黄落を求めて‥

2016年11月19日 23時14分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 明日は日曜日、といって毎日が日曜日の私には関係のない曜日である。ただし土曜・日曜は横浜駅は家族連れや学生などで混雑するので、それを避けるために気にはしている。行楽地にもいかないことにしている。
 だが、イチョウがかなり色づいているということで、娘に誘われてイチョウ並木を見に行くことにした。明日の天気は本日と違って、晴れて暖かいという予想になっている。本日の横浜の最高気温は117℃であったが、明日は20℃を超えるかもしれないとの予報である。風もないようだ。

★磔像に四囲の黄落いさぎよし      横山白虹
★黄落や彫り深き目に舫(もやい)綱    藤井誠三

 夜になって久しぶりに肩が凝ったと感じている。ここ何年も肩が凝ったという自覚がなかった。退職する一年前に、40歳、50歳の時に続いて腕が上がらなくなったことがある。職場の傍の整形外科の医師からは「3度目の四十肩だよ」と呆れられたことがある。さいわいその医師のおかげだと思っているが、3週間の間に4~5回ほど注射をしたら治った。それ以来肩こりには無縁になったと思っていたのだが‥。
 今回は腕が上がらなくなるというようなことではなく、肩が重苦しい。
 目の疲労感はかなり治ってきたが、あるいはそれとも関係があるのかもしれない。予定を早めて来週にもいつもの眼科で様子を聞いてみることにした。
 最近体の調子が今ひとつ。万全ではない。

今晩は本日購入した「辻征夫詩集」を抱えながら、布団に入ることにした。


「辻征夫詩集」から

2016年11月19日 20時45分24秒 | 読書


 書店で「辻征夫詩集」(岩波文庫、谷川俊太郎編)が目について購入した。ときどき詩集や句集・歌集などを購入する癖がある。辻征夫という詩人の名はこれまで聞いたこともないし、ましてや読んだこともない。
 年譜を見ると1939年8月生まれ、というから私よりも12歳年上である。2000年1月に60歳で亡くなっている。
 この岩波文庫には、刊行された詩集や未収録詩編などと共に谷川俊太郎との対談や、谷川俊太郎の評、そして年譜が収録されている。それほど多作な詩人ではなかったようだ。
 まだ全部を読み終わっていないが、目について詩を二つほど引用してみた。

 沈 黙
(最初の6連略)
僕は友達に言う
すばらしいことはみんな夢の中で起こった
ぼくらはそれを思い出せないで暮らしている
一編の詩
ぼくらの苦しみでは創り出せない詩
それを思いだそうとしてぼくは歩いている
ぼくの沈黙を許したまえ、と

 あ る 日
ある日
会社をさぼった
あんまり天気が
よかったので

公園で
半日すごして
午後は
映画をみた
つまり人間らしくだな
生きたいんだよぼくは
なんて
おっさんが喋っていた
俳優なのだおっさんは

ぼくにも かなしいものが すこしあって
それを女のなかにいれてしばらく
じっとしていたい


 私にはすっと気持ちの中に入って来る感性であるように思えた。この詩集最後まで読んでみたいと立ち読みしながら思った。

「無駄」こそ生きがい‥

2016年11月19日 13時21分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から雨の一日。雨は夕方には上がるようだが、最高気温は13℃と寒い一日になりそうである。朝からストーブを点けている。本日はこれから16時過ぎまで講座。
 瞼の周囲の赤みはほぼ消えた。しかし目の疲労感は少し残っている。3~4日前に比べるとずっと楽にはなったが、なんとなく目の奥に重みが未だにある。
 朝からこなしたことは、はがき1枚を書いただけ。もっとも結構凝ったものを作った。作る楽しみの方が大きい。楽しみといっても新年会の出席はがきだから本来は特に細工はいらないし、手書きでもすぐにできる。通信欄にパソコンで印字するためにいろいろ工夫をしていたら2時間ほどかかってしまった。人から見るととても無駄なことにエネルギーを費やしている。昔からそんなことばかりしている。以外に凝り性なのかもしれない。同時に人間というもの、どこかでこんなことに熱中したくなるものなのかもしれない。

本日も早目にパソコン画面から退散

2016年11月18日 23時01分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど「NIHON画-新たな地平を求めて-」展の感想をアップし、さらに退職者会のホームページに簡単な記事をアップする作業を続けたら、やはり目がだいぶ疲れた。昨晩ほどではないが、今晩も作業はこれにて終了し、早めに寝た方がよさそうだ。
 瞼の縁の赤みは当初緑内障の点眼薬のアレルギー反応かと心配したが、緑内障の点眼薬は継続しているのに、赤みの症状はおさまる傾向にある。原因は緑内障の点眼薬以外のアレルギーなのだろうか。暫くは目に負担は賭けないようにしたい。もっとも瞼なので直接物を見るということとは無関係なのかもしれない。しかし目の疲労感は強いので、用心したい。

 バッハの「平均律クラヴィア曲集第2巻」の後半、先ほどまで聴いていたが、感想は後日。


「NIHON画-新たな地平を求めて-」展(豊橋市美術博物館)

2016年11月18日 21時18分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 11月11日に豊橋市美術博物館で「NIHON画-新たな地平を求めて-」展を見てきた。たまたま行った出張先で見ることが出来てさいわいであった。
 展示は
第1章 戦後日本画の展開-自然・心象・抽象
第2章 革新の諸相-表現と素材
第3章 強度日本画画家の動向
第4章 「日本画」-“越境”の時代から
の4つのコーナーに分けられている。

 第1章ではいわゆる「大家」の作品が並ぶ。「雨」(福田平八郎)、「樹根」(東山魁夷)、「夜」(高山辰雄)、「黒い鳥」(加山又造)、「黒いとばり」(工藤甲人)、「山湖」(片岡球子)、「浄夜」(近藤弘明)、「入涅槃幻想」(平山郁夫)、「ガンガ―(ガンジス河)」(秋野不矩)、「交響」(堂本印象)‥‥。この第1章で初めて目にした作品で、印象に残ったのは「寂漠」(山本丘人)と「仮象」(杉山寧)の2作品。



 「寂漠」についてはこのような荒涼として寂しい心象風景に私はまずは惹かれる。このような暗い風景を前にすると自然に自分の心が空気の中に解体していくような気分になる。それがどのような画家であろうが、まず惹かれてしまう。理屈はない。



 「仮象」はじっと見ていると深夜の街灯をみているような気分になった。杉山寧の筆致はあまり好みではないが、このような作品には惹かれる。
 堂本印象の「交響」、工藤甲人「黒いとばり」も良かった。3度目の福田平八郎の「雨」にはどこか惹かれるものがある。
 第2章では「裸木」(上田臥牛)、「原爆の図 夜」(丸木位里・俊)、「水芭蕉曼荼羅」(佐藤多持)が印象に残った。「裸木」「水芭蕉曼荼羅」は初めて目にした。特に「裸木」はいつも印象に残る。

 第3章では特に惹かれた作品がなかったが、第4章の「道」(土屋禮一)、「PS-9002」(諏訪直樹)、「起源の起源」(三瀬夏之助)は印象深かった。



 ことに「道」(土屋禮一)は東山魁夷の作品「樹根」が展示されていた関係で東山魁夷の「道」を思い出しながら比べてみた。確かに東山魁夷の方が作品の完成度は高いかもしれないが、わたしとしてはこちらの荒々しさを内に秘めたような作品に大いに惹かれた。東山魁夷の「道」は私にはあまりにきれいすぎる。若さや持て余した情念などが感じられない。若さが迫って来るほどに作者の内部の情念のようなものを感じる。確かにもっと描きこむものをすっきりと捨象してもいいかもしれない、とは思うがこのような粗削りは総会でもある。土屋禮一という画家は初めて耳にする方なのでこの後、どのような作品世界を構築したかはまったくわからない。



 「PS-9002」(諏訪直樹)は屏風絵である。鋭角で鋭い輪郭をと角を持つ方形と、なだらかな円で基本的な構図を作っているが、その上に一見乱雑に塗られた、しかし計算しつくしたような配置の白の形体が私には印象深かった。二つの指向が葛藤して、ひとつの紋様に昇華せずに混在させていることが私にはできない思考方法だと感じた。



 チラシの表面に使われた「起源の起源」(三瀬夏之助)は東北の地の習俗の底に降り立とうとする強い意志と、混沌を全身で引き受けるような情念としか言いようのない何ものかを感じた。作者は2009年から東北の地で「東北画は可能か」という活動を始めたという。右側に如来像の頭部と目のような造詣が浮かんでいる。この画家の作品を器械があればさらに鑑賞してみたいと思った。
 その外には「帰還XXⅠ」(山本直彦)にも惹かれた。

目の疲労感はかなり軽減

2016年11月18日 11時20分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 瞼の縁の赤味は薄らいだ。まだ瞼の下側が両方とも少し赤みがかっているが、ほとんどわからない程度になった。目の疲れもだいぶ楽になった。緑内障の薬がなくなるのはまだ先。この分では明日・明後日にはもとに戻るかもしれないという期待をして、もうしばらく様子を見ることにした。

 午前中は豊橋市身術博物館で見た「NIHON画」展の図録を見ながらどの作品を取り上げるか考えて時間を過ごした。チラシをスキャナーで取り込むなど、あまり目を使わない作業を少々。文章を読むよりは目には楽であった。

 午後は本郷台駅まで「古代史セミナー」の講座を聞きに行く。本日は第5回目の「中国三国と倭国」(講師:金子修一國學院大學教授)

バッハ「平均律クラヴィーア曲集第2巻」(リヒテル) その1

2016年11月17日 22時24分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 このCDに付属している解説書によると、第2巻は「第1巻ほどには様式的なまとまりを見せていない」という。しかし「そうしたいわば欠点を補って余りあるのが、楽曲形式の多彩さ、ときにプレニュードの多彩さと、晩年の作の高度な音楽的内容である」と記している。
 ウィキペディアにも「練習曲としての性格が強かった第1巻に比べ、より音楽性に富んだ作品が多くなっており、前奏曲にはソナタに類似した形式のものも見られる。フーガにおいても対位法の冴えを見せ、二重対位法を駆使した反行フーガ(変ロ短調 BWV891)などは「フーガの技法」に勝るとも劣らない高密度な作品である」と記されている。前半の13曲を聴く限りでは、印象としては第1巻に比べてそれぞれの時間は短いものの曲の厚みは増している。
 しかし人間というのはどうも最初に聴いたものが頭に刷り込まれるらしい。もっと何回も聴きこまないと好みは断定できないのかもしれないが、第1巻に今の段階では惹かれている。
 ただし第2巻第7曲はまったく違った雰囲気である。この曲の出だしだけが前後に比べて妙に際立っている。解説ではプレリュードは「甘美な曲」とし、本来リュート用に作曲されたとみる人もいる」としている。フーガも「対位法的技法が隙間なくしようされているが、その割に効果がてがっていない」と厳しい。
 第8番のフーガは解説には「この主題の美しさをあますところなく汲みつくすためにのみ、このフーガを書いた」とある。私も気に入った。
 本日は前半の13曲を聴いて終了とした。後日第2巻の残り11曲を聴くことにした。

【追記】先日「第1巻」を取り上げた時、ツイッターのフォロワーの方から「私は、第1巻第8曲変ホ短調(E♭m)のプレリュードとフーガが、いちばん好きです。特にプレリュードは、静かですが迫力があると思います」という嬉しいコメントをいただいた。私は幾度も聴き直したが、まったく同感であった。私は第1番のプレリュードとともにこの第1巻第8番がすっかり耳についてしまった。


少々お疲れモードか‥

2016年11月17日 20時05分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日もいろいろと作業を考えていたが、講座終了後疲労感があり、めずらしく電車ですぐに帰宅、先ほどのような記事を書き上げてからベッドにもぐりこんだ。
 実は朝髭剃り後に鏡をのぞいた時、眼球表面ではなく、瞼のまつ毛の生えているあたりが両目とも赤っぽかった。目の周囲が赤く縁どられているように見えた。その時思い当たったのが、昨晩寝る前に瞼が重く、パソコンの画面を見るのがとてもつらく、顔を画面の前にくっつけるようにしないと字が読めなかった。目の疲労感が強かった。すぐに寝たのだが、朝になって初めてその症状に気が付いた。
 今は解消されている。明日・明後日と様子を見ることにした。そんなこともあり、少々お疲れモードなのかもしれない。
 先ほど夕食のため起き出してきた。暫くはバッハの平均律クラヴィア曲集第2巻でも聴きながらボーっとしていたい。
 こんな時にはぴったりのような気がする。短い曲の集まりなので、持続力や集中力に地震がない時などには都合がいい。作曲者のバッハと演奏者のリヒテルには怒られるかもしれないが、許してもらおう。

見逃したのがまた悔やまれてきた「フォートリエ」展

2016年11月17日 14時58分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日講座で、ジャン・フォートリエとジャン・デュビュッフェの作品が取り上げてあった。ジャン・フォートリエについては2014年5月から7月にかけて東京ステーションギャラ―で展覧会が開かれていて、見に行きたかったのについ行きそびれてしまった。とても残念な思いをした。
図録はまだ在庫があるので注文することも可能らしい。ステーションギャラリーはショップだけの入場ができないという不便さがある。気乗りのしない企画展の場合、入場料が無駄である。見たい企画展ならばいいのだが。そして図録の購入は高いものなので実際に手にしてから購入したいのだが、それが許されない。なんとか改善してもらいたいものである。当分見に行きたい企画展がないのが、大いに不満である。
 ジャン・デュビュッフェについては、ブリヂストン美術館で開催された「アンフォルメルとは何か?」展で見た「熱血漢」、国立西洋美術館館で「美しい尾の牝牛」「密猟者」だと思うが見た記憶がある。気になった作品であることは確かだが、あまり惹かれなかった。しかし生涯を見渡して作品を鑑賞したいとは思っている。
 また靉光の「眼のある風景」も本日取り上げた。これは国立近代美術館でまたお目にかかりたいという思いが募った。
 雪村の展覧会が来年3月末から東京芸術大学美術館で開催されるという情報を教えてくれた。これは記憶しておかなければいけない。