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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

イチョウの落葉

2016年11月29日 23時14分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 本日は午後に買い物で横浜駅まで歩いて往復。途中の公園でイチョウの落葉を20枚ほど拾ってきた。水洗いしてから2日ほど乾燥させると、虫よけになるということをブログで教わった。
⇒【言葉の泉
 帰宅後早速水洗いして新聞紙の上にひろげた。イチョウの葉というものが木によってこんなにも大きさに差があるのかということ、そして大きいものは横幅が13センチに及ぶということが初めて分かった。これまで見ることしかしていなかったが、遠目では桜の葉よりも小さいと思っていた。実際に手に取ってみるということの大切さを改めて実感。我が家のタンスで防虫剤と本のしおりにでもしようと思っている。
 夜には「シベリウス・リサイタル#1」を聴きながら、読書タイム。先ほど気分転換に団地の周囲を5000歩ほど歩いてきた。
 風が強めで、とても寒い。21時半から22時過ぎまで歩いたが、この時間ならばジョギングをしたり、私のように速歩を楽しんでいる人がそれなりにいる。私と歳の変わらない夫婦もいた。毛糸の帽子をかぶって走っている人もいた。
 明日は夕方から国会での集会に参加予定。カメラと腕章を忘れてはいけない。

「図書12月号」(岩波書店)

2016年11月29日 20時39分18秒 | 読書
 本日セキセイインコの餌が20%引きということで、横浜駅近くのスーパーまで出かけた。帰宅してみると「図書12月号」(岩波書店)が配達されていた。先ほどまでこれに目を通していた。目をとおしたものは、

・表紙解説「ミラクルクラウン」               (伊知地国夫)
・「重ね書きされる戦争」                  (日高昭二)
・作家的覚書「もう後がない」                (高村薫)
・「軍の命令か、医の倫理の逸脱か」             (熊野以素)
・フーテン老人世界周遊記5「遠い道を歩いてゆく人たち」   (色川大吉}
・美術館散歩12「夜の画家ラ・トゥールのグレア効果」    (三浦佳世)
・「こころ論」-語られざる「遺言」「「将来」を感じる」     (若松英輔)

15編中の6編。このうち残念ながら伊知地国夫氏の科学写真、色川大吉氏の「フーテン‥」、「作家的覚書」は本号での連載は終了。高村薫氏の「作家的覚書」は来年3月に岩波新書として刊行予定とのこと。き

 今号、奇しくも日高昭二氏、高村薫氏、熊野以素氏の共鳴し合う3編となった。
 「『大阪の陣 近代文学名作選』を編んでみて、四百年前の「合戦」が、帝国日本の「戦争」とさまざまに重ね書きされていることにあらためて目を瞠った。‥坂口安吾の「狂人遺書」(S30)では、先の大戦で外地に残された兵士をすぐに帰せという安吾自身の遺言が重なっている。‥田中英光の「桑名古庵」(S22)では、合戦の敗者がその後の社会を生きる困難さが語られる。それが、「戦後」を生きる人々の姿に重なっていて胸を打つ。重ね書きする/される場を措定することで、いっそう複合的に見えてくる近代の戦争-探求の余地は、まだまだある。」(「重ね書きされる戦争」、日高昭二)
 「いま私たちの眼前に広がっているのは、熟慮を欠いた野蛮な欲望が急激に支配的になっているせかいではないか。私たちはシリアの空爆をなぜ止めることができない?少し前までなら国際社会は何としても停戦や空爆停止の合意にこぎつけていただろう。‥アメリカや中国やロシアはそれぞれ自国に都合のよい理屈を蹴散らして物事を強行し、日本をはじめ世界じゅうの国々がそれに追従する。正義や公正ではなく、当面の損得や不作為を優先して論理を無視することが広く当たり前になった世界の一角に、沖縄の米軍基地、高速増殖炉《もんじゅ》の廃炉、福島第1原発の汚染水処理、まもなく満期となる日米原子力協定と核燃料サイクル事業の行く末、はたまた天皇の生前退位のための法整備などの諸問題が連なっている。‥無理が通れば道理が引っ込み、次々に整合性を失って破綻してゆく物事は、一時的な辻褄合わせが施されても、最後は放置されるほかはない。集団的自衛権行使の最初の一歩とするために、PKО5原則を無視して南スーダンに派遣されている自衛隊はまさにその例である。」(作家的覚書「もう後がない」、高村薫)
 そして「「軍の命令か、医の倫理の逸脱か」、熊野以素」は次のように始まる。「終戦直前の一九四五年春、名門大学医学部で行われたおぞましい「実験手術」により米軍捕虜八人が殺された。当時九州帝国大学医学部第一外科助教授であった鳥巣太郎はこの生体実験に抵抗し、四回あった手術のうち参したのは最初の二回であった。しかし戦後に行われた占領軍による「横浜裁判」で、自殺した石山福二郎教授の身代わりに首謀者とされ、死刑判決を受けた。‥(鳥巣の)妻・蕗子はさまざまな妨害を跳ね除け、必死の再審請求を続ける。」「『九州大学生体解剖事件-70年目の真実』(岩波書店)で描いたのは、生体実験の真相とそれを隠蔽し、助教授鳥巣に一切の罪を押し付けようとする弁護団の陰謀、戦犯裁判の実態、「そしてとめられなかった」責任に正面から向き合う夫と、夫を詩の淵から救い上げようと闘う妻の姿である。鳥巣の姪(蕗子の妹の長女)である筆者が書きあげたノンフィクションである。」現在の九大医学部長や、事件の関係者や遺族を巡る旅の最後に筆者は沖縄までたどり着く。詳細の引用は省略させてもらうが、最後の沖縄での見聞について、以下のように記している。集団自決のあったチビチリガマの前で「洞窟の前には右翼グループが異例の像を破壊した事件の跡もある。集団自決の悲劇を打ち消そうとする書き込みがある。日本の行った加害行為を必死で隠そうとし、侮辱まで加える。本土の残酷さ。」「四月の沖縄で、また事件が起こった。日本政府は県民の日米地位協定の抜本的見直しの要求に耳を貸そうとしないばかりか、辺野古の埋め立てを強行しようとしている。そこでは戦争は終わっていなかった。」と結んでいる。
 71年前の戦争はまだまだ終わっていない。戦争責任も曖昧のまま、今当時の国家主義思想を無批判に評価する政治思想が跋扈している。イラクからの帰還した自衛隊員には多くの自死があるという。そしてまた南スーダンへの派遣が強行されている。先頭による直接の死や、間接的な死、心身に受けた深い傷、いづれにしてもその一人一人の死の重みに、戦後71年の今もまだ拮抗できていないのが、日本の戦後ではないだろうか。

 色川大吉氏は「連載は今号で終わるが、まだまだ続く旅の分には原稿枚数の制約を受けず、のびのび叙述を楽しみ、連載とあわせて近く一書にまとめたい」とあり、近いうちの刊行を楽しみにまつことにしよう。

 ラ・トゥールの「新生児」に題材をとったグレア効果に関する三浦佳世氏の文章は、とても勉強になった。この「新生児」を素材としたダリの「シュールな時計の看護」の理解の端緒も示唆されている。この連載は続くようだが、いつかこの連載がやはり一書になるとありがたい。

「シベリウス・リサイタル#1」(渡邉規久雄)

2016年11月29日 11時35分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 随分ぐっすりと睡眠をとった。昨晩は3度寝。最後の睡眠は3時過ぎから8時半まで。最初と二番目の睡眠はいづれも1時間と少しずつ。あまりいい睡眠の取り方ではなかったが、途中のお風呂が良かったようだ。



 午前中にかけているCDは渡邉規久雄のピアノ独奏によるシベリウス・リサイタルの最初のCD。2003年6月の東京文化会館でのライブ録音である。いまからもう13年半前になってしまう。この第1集を聴いた時にはこのように息の長いライブとなることは私などは理解していなかった。
 さて最初の「キュリッキ-3つの抒情的小品」(作品41)からすっとシベリウスの世界に引き込まれてしまう。これはいかにも劇的要素の強い19世紀に民間説話を集大成して作られたフィンランドの叙事詩「カレワラ」を題材とした作品である。ただし散らばっている説話をひとつの叙事詩として再構成・創作されたもので、「説話集」「口承集」ではない。再構成したことを除けば作者である医師エリアス・リョンロート(1802-1884)の創作部分は「約5%」といわれる(Wiki)。略奪婚あり、婚姻後の男女の契約あり、なかなか興味深いものがあり、一読はいつかはしたいものである。
 聴いたことのある曲は「フィンランディア」のシベリウス自身によるピアノ編曲版、「5つのロマンティックな小品」(作品101)から第1曲「ロマンス」。
 最後の「10の小品」(作品24)からの5曲は私の好みである。第10曲の「舟歌」は印象的である。地中海に面したヴェネツィア風の舟歌とは違って、最初に激しい要素も含まれる。後半はゆったりした船の揺れのようになるが、海の色の違いをそれとなく感じる曲想である。

      

偏屈ついでに

2016年11月29日 02時45分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今晩二度目の目覚め。酔うと眠りが浅くなる。1時近くになってから目がさめて、先ほどぬるいお風呂でさっぱりしてきた。

 私は酔いが一定覚めた段階で、無性にぬるいお風呂に入りたくなる。湯の温度はだいたい39℃くらい。今の季節は洗い場に小さなマットを敷いて、血圧の上下を少しでも緩和するようにしている。

 先ほど、痴呆症の診断についてテレビを見ていたことを記載した。
・芸能・スポーツ・ドラマ・バラエティ・歌番組などは見ない
・新聞もほとんど読ままい
・人のいうことは聞かない
となると、ほとんど現実への関心をなくして危険な状態と診断するらしい。

 しかし私はニュースはパソコンで取捨選択し、新聞の文化欄や論評もかなりそこで手に入れることにしている。さらに時事的な必要情報は書店の月刊誌や週刊誌の立ち読みでまかなうことにしている。
 妻には、介護施設に通うようになったり、入所するようになっても「みんなと一緒歌ったり踊ったりを強要すると逃げ出すか、あばれだすかもしれないので、古典文学や、鉛筆と紙と辞書を与えて、部屋の片隅に放っておいて欲しい」と介護職員に伝えるよう頼んでいる。自分で判断出来なくなる前に、希望する本を指定しておいた方がいいかもしれない。
 妻からは「そんな気むずかしい、偏屈な老人は、扱いにくいと嫌われるよ」と警告を受けている。そういわれても、いやなものはたぶん最後まで嫌いだと思う。

 自分がどんな老いを迎えるか、誰も分からないのだが、私の場合、妻にはだいぶ負担をかけてしまいそうである。今は半分冗談で済ましているが、とても申し訳ないと思う。それを防ぐ手立てはないものだろうか。