横浜駅の地下街とデパートの地下売り場の混雑から疲れ切って早々と帰宅後。「キリストと性 西欧美術の想像力と多様性」(岡田温司)を読み進めた。
第4章「もしもキリストが女性だったら」を読み終え、第5章「「傷(ウルヌス)」、「子宮(ウルウァ)」、「乳首(ウベル)」」に入った。
「女性が男性に成り代わって十字架にかかるか、十字架のイエスがまるで女性に変装しているように見えるといった、荒唐無稽でトランスジェンダー的なストーリーは、中世から近世のキリスト教徒たちの想像力を大いに刺激してきたものでもあった‥。」(第4章)
「(女性の磔刑像は)鑑賞やコレクションのために制作されたというより、無名の彫刻師や絵師たちによってつくられて、地方の町の小さな教会堂に飾られてきたもので、それだけにいっそう、一般の信者たちの篤い祈りの対象となったいたことが想像される。強権的な父親や夫の虐待に悩まされる妻や娘たちの信仰を集めてきたようだ。」(第4章)
「救世主キリストは必ずしも男である必要はないのではないか、人々のそうした思いが、宗教的で文化的な無意識とでも呼びうる層のなかに根強く潜在していて、それが(女性の磔刑像などの)現象や作品になって浮上している‥。」(第4章)
この章になってようやくキリスト教がヨーロッパ各地域の土俗の宗教や信仰との関りの中で、着地をするにあたり、それらを取り入れ、接ぎ木をしてきたことへの視点が見えてきた。
キリスト教の福音書や聖典の中にあった発生地点での習俗が色濃く反映しているもの、そしてヨーロッパ各地の土俗の宗教や信仰を取り込んだ痕跡こそが、さまざまな「性」=「生の原点」にまつわるものとして表れているのではないだろうか。
第5章にいたってその視点がより強調される。著者の思いがこの流れに沿ったものか、それは私にはわからないが。