Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「世紀末芸術」(高階秀爾)

2022年02月05日 20時19分18秒 | 読書

   

 「世紀末芸術」(高階秀爾、ちくま学芸文庫)を読み終わった。昨晩から第4章「世紀末芸術の美学」を読み始め、本日までに読んだところは結び「二十世紀への道」と「あとがき」。
 いつものように覚書として、付箋をつけたところを忘れないように記しておきたい。少し長いが。

画面に置かれる造形要素の間のお互いの対応と秩序を重んじながら、同時にそこにひとつの精神的価値を盛り込もうとする困難な要請が、綜合主義の中心をなしている。そのいずれが欠けても、芸術作品は自律的世界として成立し得ないであろう。その困難を乗り越えることが出来たとき、芸術作品ははじめて物質世界からも創造者である芸術家からも離れたひとつの独立存在となり、時間的制約を超えて永遠の価値をえることができるであろう。綜合主義の目指した芸術とは、いやそもそも一般に芸術とは、そのような存在なのである。」(第4章「世紀末芸術の美学」、「2綜合主義」の「主観と客観の綜合」)

ルネッサンスの文芸運動は、人間の新しい歴史を告げる「豊麗な夜明け」であった。その輝かしい夜明けからちょうど四百年後、世紀末の西欧世界は、ルネッサンスに明けた実り多き一日の黄昏を迎えようとしていた。ルネッサンスとともに「現実的なものにひそむ詩情」を見出した人間は、その後四世紀によたって、その詩情を歌い続け、その芳醇な香りに陶酔していた。しかし今やその明るい歌声も‥世紀末の夕暮れとともに消え去ろうとしていた。人間が自己の知識と力とに目覚めて、自分を中心とする確固たる世界像を確立して、あらゆる領域において「現実的なるもの」の征服と探求に乗り出してから四半世紀、人間はようやく、その航海の華やかで多彩な成果にもかかわらず、ふたたび自己自身に対する疑惑と不信とに直面しようとしていた。‥豊かな物質文明の恵みを享受しながら、他方において爛熟の極に達した西欧文化は、人間の感受性を異常なまでに敏感ならしめ、退廃と呼ばれ、デカダンスと名づけられる妖しい人口の花を咲かせていた。ルネッサンスが澄み切った空に薔薇色の靄をたなびかせる輝かしい「魂の夜明け」であったとすれば、世紀末は人工的な赤と青の華やかなイリュミネーションの溢れる夜の世界であった。十五世紀に明けそめた西欧の近世がようやく終わろうとする夜であった。‥しかし、ものみなが闇と幻想の中に沈み込む夜は、また新しい明日の夜明けを約束するものでもあった。世紀末ととに大きな転換をしめすようになった西欧芸術は、やがて二十世紀の輝かしい夜明けを迎えようとしていた。」(結び「二十世紀への道」)

 ルネッサンスから19世紀末までの西洋世界を中心とする近世・近代の流れが果たして「豊麗な夜明け」「詩情を歌い続け、芳醇な香りに陶酔していた」という言葉で大まかに括ってしまうことには、唐突でいささかの抵抗が無きにしも非ずであるが、そういう側面から歴史を見ることができるということに異存はない。
 大きな紆余曲折と大いなる人間の絶望と、人類史がどうしても避けきれてこなかった膨大で強制的で理不尽な大量殺戮という死の行進を含めて「自分を中心とする確固たる世界像を確立して、あらゆる領域において「現実的なるもの」の征服と探求に乗り出してから四半世紀、人間はようやく、その航海の華やかで多彩な成果」ということは可能なのかもしれない。
 二十世紀は輝かしい夜明け、大きく括った人類史としてそうであったと総括ができるのだろうか。政治と芸術の世界は往々にしてすれ違い、そして真逆なのも確かである。そのことを踏まえれば、という前提は著者もよくわきまえていると思われる。



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